お見合いに行こう!(Vol.9)

「俺を待たせるとはいい度胸だな」
「!!‥‥!」

不意に冷たい指で顔をなぞられ、悟浄は我に返った。触れ合った全ての部分から凍るような冷気が伝わり、三蔵がかなりの長い時間をあそこで費やした事を伺わせている。

「我慢しろ。とっとと帰ってこないお前が悪い」

相変わらずの尊大な態度。あの頃と何も変わらず振舞う三蔵の様子に、悟浄は内心の動揺を必死に押し隠した。
どうして、何事もなかったように会えるのだろう。
どうして、何事もなかったように触れられるのだろう。
俺はこんなに苦しいのに。俺は忘れられなかったのに。――――――お前は、もう、平気なのか?
湧き上がる感傷に似た悲哀が情けなくて、悟浄は声を荒げることで誤魔化した。

「そっちが勝手に来たんだろ!つーか、お前!さっさと下で声かけりゃいいじゃねぇか!」
「どっかの馬鹿はすぐ逃げるからな。部屋に入ったのを確認してから訪ねようと思ったんだよ」
「誰がだ!俺は逃げたり‥‥‥!」
「違うのか?」

言い逃れを許さない紫の瞳。う、と悟浄は言葉に詰まる。

確かに自分が東京を後にしたのは、この目の前の自分を捕らえて離さない綺麗な色から、少しでも離れるためだった。近くにいれば、いつどこで偶然姿を見かける羽目になるかもしれない。その時に自分が平静でいられるとはとても思えなかった。
それを逃げだと言われるのならば、そうなのかもしれない。だが、他にどんな選択が出来たというのだろう。

「こういう体勢で、話も出来るしな」

再び、顔に冷たいものが触れる。
それが三蔵の唇だと気が付いた時、悟浄は弾かれたように抵抗を開始した。

「何やってんだお前!?何考えてんだよ!?」
「この体勢で、世界情勢でも考えてるように見えるか?」
「ふざけんな!!」
上擦る声を抑え、思い切り叫ぶ。こんな冗談には耐えられない。悟浄は細く長く、息を吐き出した。

「なぁ、三蔵。俺達―――さよならしたよな?」

内に秘めた激情と慟哭。全てを押さえつけると悟浄は冷静を装い、なるべく穏やかに声を発した。腹に力を入れないと、声が震えてしまう。
何度思い出しても、身を切られるような感覚が鮮明に蘇る。必死で平気な振りをして、縋りつきたいのを我慢して―――あれをもう一度味わえというのだろうか。

「その理由も、納得してくれたよな?」

住む世界が違う。何もかもが、違いすぎる。それは、時間が解決する事のない、重い現実。
だが、自分に圧し掛かっている男は僅かに眉根を寄せただけだった。

「俺は別れたつもりはねぇよ」
「!?」
「あの時のてめぇの『さよなら』は―――『誰にも文句言わせねぇ甲斐性を身につけて出直してこい』という意味だと解釈したが?」
「お前‥‥な、に、言って‥」
「だから、出直した。それだけだ」

もう、言葉すら出ない。あまりの衝撃に眼を瞬かせている悟浄を気にする風もなく、三蔵はゆっくりとその耳元に唇を寄せる。悟浄が僅かに身を震わせたのは、唇の冷たさによるものか、それともその感触によるものか。

「悟浄」

名を呼べば伝わってくる、息を呑む気配。それすらも愛しくて、三蔵は更に囁いた。

「俺から、逃げられると思うなよ?」
 

夢でしか見ることの出来なかった金色の光に視界が覆い尽くされ、やはり自分が夢の中にいるのではないかと、混乱する思考の中で悟浄はぼんやりと思った。
 

 

 

 

 

話は聞くからとにかくこの体勢はよしてくれという悟浄の懇願に渋々と体をどけた三蔵は、再び部屋の隅にある古ぼけた写真を振り返った。
四角いフレームから笑顔を覗かせる若き女性の肖像。今は亡き、悟浄の義母。

「一年前、か―――。ちょうど同じ頃だったな」
「?」

ぽつり、と呟かれた言葉に、悟浄は首を傾げる。
悟浄のそんな様子を横目で見やりながら、三蔵は脱いだコートのポケットから、煙草を取り出した。
 

 

今からおよそ一年前。場所は東京、天候は―――雪。
ここ、観世音グループの本社ビルでは三蔵の大学卒業を待ち構えるようにして、緊急の取締役会が執り行われていた。それは、三蔵の取締役就任の是非を問う会合だったが、ここ数ヶ月の三蔵の働きぶりは目覚しく、反対派の影は今ではすっかりなりを潜めていた。
恐らくは何の滞りもなく、この異例の大抜擢は承認される筈だ。

『では、三蔵氏が取締役に就任する事に関してご異議のある方は‥‥』
『待ってくれ』

手を上げたのは、他ならぬ三蔵本人だった。面々からの訝しげな視線が集中する。

『就任を承認してもらう前に、言っておくことがある』

そこで三蔵の口から語られたのは――――紅い髪と紅い瞳を持つ、同性の想い人のこと。
その場の役員たちが一斉にどよめく。

対外的にマズいんじゃないかとか、個人の嗜好だから問題は無いだろうとか、口々に考えを述べ合う役員たちの姿を、三蔵は黙って見守った。

『じゃあ、こうしようぜ』

それまでニヤニヤと笑って見ていた『会長』――三蔵の叔母だが――が口を開くと、重役たちはピタリとざわめきを止めた。

『こいつがどれほどの底力が出せるのか、試してみりゃあいい。それを見た上で、取締役に就任させるかどうか判断しても遅くねぇだろ。まずは――そうだな、おい次郎。未着手の新規プロジェクトのプランがあっただろ。アレ持って来い。こいつにやらせる』

秘書は慌てたように上司に駆け寄った。気苦労が多いのだろう、次郎と呼ばれたその秘書は、実際の年齢よりは幾分老けて見える。

『お待ち下さい、あのプロジェクトは投資に見合うだけの収益が見込めないということで企画途中で中止に――』
『だからやらせるのさ。成功するのが分かってる仕事なんざ、力試しになりゃしねぇよ。ま、とは言っても、だらだらやらせても仕方ねぇしな』

会長は革張りの椅子をくるりと一回転させると、口元に指を添え優雅に微笑んだ。どう見ても、楽しんでいる。

『一年だ。一年で結果を出せ。そのプロジェクトだけで収益を上げて、事業として軌道にのせろ。もし会社に実損を与えた場合は、就任の話はチャラだ。‥‥‥ああ、それからもう一つ条件を付ける。その事業を進める上で、どういう企業と提携、取引するのかは任せるが、必ずお前に男の恋人がいるということを先方に話せ。――――勿論、契約前にな』

『そんな‥‥‥?会長、それはあまりにも‥‥』
『俺の決定だ。文句あるのか?』

三蔵の取締役就任に力を入れていたある役員が、思わず反論しかけたが、会長の一言で口を噤んだ。「観世音グループ」の会長である彼女の言葉は絶対だ。逆らうことなど考えられない。

短すぎる期限。そして取引先へのカミングアウト。おまけに三蔵は学生だったという事もあり、今現在無役の状態だ。確かにそれをクリアして事業を成功させることが出来るのならば―――多少のリスクを差し引いても、これからの会社の運営を任せるに足りる手腕があるかどうかは疑うべくもないのだが。

――――それにしても、条件が厳しすぎる。

会長が密かに、自分の甥である三蔵に目をかけていることを知っている会長秘書は、内心驚いていた。だが、様々な思惑や疑問が交錯する中、会長は実に楽しそうに頬杖を付き、自分の甥に視線を投げかけている。

『自分には無理だと思うなら、辞退しても構わんが――――どうする、三蔵?』
 

 

 

 

「それで!?どうなったんだよ!?」

三蔵に『さよなら』後のことを説明されていた悟浄は、役員会で自分のことを公表したと告げられ、焦りまくっていた。知らぬ間とはいえ三蔵の足を引っ張っていたのでは、いたたまれない。だが、悟浄の問いに返されたのは、三蔵の呆れたような盛大なため息。

「‥‥少しは考えろ。ヘタうってりゃ俺が今ここに来てるわけねぇだろうが。色々あったけどな、最終的に去年の会社の収益は2割アップした。俺が手がけたのは観世音が未進出の分野だったが、この成功でうちが第一人者の地位に踊り出るのも時間の問題だ。―――これで、文句が出る筈もねぇ。満場一致で取締役に推されたさ」

まあ、ラッキーなところもあったがな。と三蔵は続ける。

「‥‥パートナーに恵まれたからな。お前のダチの、八戒‥‥大したヤリ手だな、あの男は。今度の仕事がスムーズに運んだのも、奴の力が大きい。仕事で組むとすれば奴以上に心強い味方はねぇな‥‥‥‥」

敵にさえ回さなけりゃな。その部分は口には出さず、三蔵は心の中で呟くに留めた。
今回八戒は「悟浄のために」とかなりの無理を聞いてくれた。それは三蔵にとっては大変有難い事ではあったが、胸中穏やかでないところでもある。
しかも、そんな三蔵の複雑な心境をしっかり見抜かれ、『僕にはちゃんと女性の恋人がいますから‥‥‥ああ、ご存知でしたね?』と笑われてしまっては、口を噤むしかない。

「‥‥そういや奴も、てめぇに拾われたクチだそうだな?警戒心ってものはねぇのか、てめぇには」

沸々と湧き上がる不機嫌を取り合えず目の前の紅い髪の男にぶつけてみる。八つ当たりされているなどとは夢にも思わない悟浄は、もごもごと言い訳にもならない言葉を呟いていたが、はっと我に返ったらしい。

「んな事、今はどうでもいいだろ。そうじゃなくて!」
何だ?と三蔵は目線だけで続きを促した。

「いくら仕事が成功したからって、どうしようもねぇ問題があるだろうが!」
「例えば、何だ?」
「例えば?例えば――ええと、‥‥そう!後継者問題とか!跡取りどうすんだよお前!」
「心配すんな。そもそも、俺も血縁じゃねぇ。俺は生まれたばかりの頃、先代に拾われて養子になったんだ。血を残す必要はねぇよ。大体、俺の後の事なんざ知った事か。適当な奴が継ぐだろ」

あまりにもさらりと返され、悟浄はその言葉の意味を理解するのにしばらくかかった。
初めて三蔵の生い立ちに触れ、自分の軽はずみな言動に少しばかりの罪悪感が沸く。だが、『好都合だ』と言わんばかりの三蔵の態度に、その件についての謝罪は口にしないことにした。今まで、どういう紆余曲折があって現在に至るのかは分からない。だが三蔵は既にそれを乗り越えているのだ。それが虚勢ではなく事実だということは、三蔵の強い瞳の光を見れば分かる。

「じゃ、じゃあ企業イメージとか!雑誌にスッパ抜かれたりしたらさ」
「お前が俺の側をうろついた位でぐらつく様な、安い商売してねぇよ。それにいざとなったら放送・出版関係に手を回せば済むこった。それだけの出資はしてる」
「うわ、悪人‥‥」
「何とでも言え。とにかく俺はお前の件では誰にも何も言わせねぇ」

胸に沸いた僅かな感慨を気取られないよう言葉を続けた悟浄に返されるのは、迷いの欠片もない言葉と視線。それは大きな喜びと微かな痛みを伴って、悟浄の胸に突き刺さる。

「けど、やっぱり社員とか株主とかの感情が」
「知るか」
「知るかって、お前ね――」

突然、テーブルの上に置いていた腕を掴まれ、悟浄はビクリと身を竦めた。それに構わず、三蔵は身を乗り出し、悟浄へ顔を近付けて来る。

「お前はあの時―――俺にはもう自由が無い、と言ったな」

これ以上はない、というほど引き寄せられても、悟浄は硬直したまま動けなかった。振り払わなければと思う心ばかりが焦り、体が言うことを聞いてくれない。

「だが、俺が自分を殺してこれからの人生を歩んだとして、それは俺だといえるのか?だったら別に会社を継ぐのは俺じゃなくても構わないという事だ。ただ経営者としてのマニュアル通りに報告書に眼を通して判を付いて――――はっ、冗談じゃねぇな。俺は俺だ。俺は自分のために、自分がやりたいように生きる。てめぇとの事だって、誰に知られたって構わん。社員たちがそんな俺に付いて来れねぇってんなら、潔く辞めてやるよ。もっとも、俺は諦めが悪い上に強欲でな。お前も、会社も、どちらも失うつもりなんざ毛頭ねぇが」

強い口調とは裏腹に、三蔵はゆっくりと労わるように悟浄の体を抱きしめる。

「けど――」

尚も言い募ろうとする悟浄の額に、三蔵は唇を押し当てた。再会直後とは違い、ひとつひとつ悟浄の抵抗が無いのを確認するようにゆっくりと進められる三蔵の動きに、封印したはずの想いが止め処なく溢れ出す。でも――――それでも、俺は――――。

 

「お前は、本当は何を恐れてるんだ?」

不意に呟かれた三蔵の言葉。はっとして顔を上げると、三蔵の美しい紫の瞳と視線がかち合った。先ほどまで強い光を漲らせていた三蔵の瞳が、今は心なしか哀しい色を湛えているように見える。 

「―――?」

三蔵の質問の意味が良く分からない。頭の中で何かが光ったような気がしたが、悟浄は気が付かない振りをした。気付きたくはなかった。今だけは。
 

 

「‥‥大丈夫だ」

さらに強く抱きしめられ、耳朶に流し込まれる低音に、悟浄の全身は麻痺してしまう。何が?と問おうとしたが、口を上手く動かすことが出来ない。

「大丈夫だ、悟浄―――大丈夫だ」

言い含めるように、宥めるように。何度も何度も繰り返されるその言葉。
それはゆっくりと悟浄の体に浸透していき、心に開いた空洞に流れ込む。
 

額に、瞼に、鼻先に――。優しく降り注ぐ雪にも似た三蔵の口付けに、悟浄は何も考えられなくなっていた。
ただあるのは、目の前のこの人を、忘れられなかったという事実。
今でもこんなに、どうしようもないくらいに、想っているのだという事実。
 

――――もし許されるなら、このまま。せめて、今だけでも、夢の続きを。
 

悟浄は静かに瞳を閉じて、三蔵の唇を受け止めた。
 

 

BACK NEXT