お見合いに行こう!(Vol.10)

軽く触れるだけの口付けが、何度も何度も繰り返される。
温かくて。ただ、温かくて。
悟浄はくすぐったさと同時に、何か居た堪れない気分を感じていた。

「なぁ‥‥‥三蔵」

その何かを考えたくはなくて、言葉を紡ぐことで誤魔化してみる。

「何だ?」
「俺が心変わりしてるとか‥‥‥考えたことねぇのかよ‥‥?」
「あれでか?」

クイ、と顎で示された方向にあるのは―――壁に押しピンで無造作に貼られた、新聞の切抜き。それは、とある会社の提携を知らせる記事で、そこの代表者であろう二人が握手をしている写真が添えられていた。

三蔵と八戒の会社が提携した事は、悟浄も知っていた。

『金持ちでおまけに色男かよ‥‥こいつら苦労なんかしたことねーんだろーなぁ』

かなり前の事だったが、仕事仲間の一人が日課の経済新聞チェックをしながら、そうぼやいていたのを聞いた。その男は自分の事を多くは語らなかったが、昔のクセで経済紙には目を通しておかないと気が済まないのだと笑った。

その時に何気なく新聞を覗き込んだのは、別に興味があったからではなく、単に話を合わせる為の動作に過ぎない。そこに載っている記事も、本来なら頭の隅にも残らない筈だった。

が。

結局悟浄は男に頼み込み、その記事だけを切り抜いて貰う事になる。―――好奇心いっぱいに浴びせられた視線は、黙殺して。
 

久し振りに眼にした、自分にとって特別な存在である二人の姿。白黒の、今ひとつハッキリしない画像ではあったが、それでも悟浄の胸にある種の感慨を沸き起こさせるには十分の物だった。
八戒は相変わらずの一見人の良さそうな笑顔を浮かべ、三蔵は契約が成立したというのにニコリともしていない姿が見て取れる。

あまりにもらしくて、悟浄は一人、笑ってしまった。
 

 

「あ、あれは‥‥!は、八戒が、元気そうだなーって思って、よ」

しまった、と思うが既に遅い。そこに貼られている事がすっかり日常と化していた写真に、悟浄の注意が払われなくなっていても無理は無いのだが――――目敏くも見つかってしまった自分の心の象徴ともいえる写真の存在に、悟浄は不意打ちを喰らい狼狽する。
情けない程にしどろもどろになった言い訳は、自分でも驚くほど下手な嘘になっていた。

「じゃあ、俺の部分は破って捨てても構わんな」

そう言い捨てると三蔵は、悟浄から身を離し壁の切り抜きに手を伸ばそうとした。咄嗟に、悟浄は縋りつくようにその手を押さえる。

「止せ!!」

振り向いた三蔵と、至近距離で瞳がかち合う。

「あ‥‥いや、その‥‥」

思わず掴んでしまった三蔵の腕をどうしたものかと、悟浄は僅かに視線を逸らせながらどぎまぎとうろたえた。心変わりを何よりも否定する行動を更に重ね、恥ずかしさで自然と顔に朱が上る。

と、指先から伝わる振動。

くっくっと、三蔵が俯いて肩を震わせている。からかわれたのだと気付き、悟浄は拗ねた様に三蔵に背を向けた。

「嫌な、奴‥‥」

諦めていたのに。思い出にしたはずなのに。
突然現れて、何の抵抗も無く空白の時間を埋めてしまって。
あっさりと俺の心に入り込んで。あっという間に全身に染み渡らせて。

「悟浄」

伸ばされた手に体の向きを変えられ、再び抱きすくめられる。耳元で流し込まれるその声には、既に笑いは含まれていなかった。
ただ、含まれているのはある種の熱。

―――そして悟浄も、同じ熱を感じていた。

「ホントに‥‥嫌な奴だよ、お前」

悟浄は両手で三蔵の体を押しのけると、改めて首を引き寄せ、自分から口付けた。
 

 

 

 

最初は触れるだけだった口付けが、段々と深くなる。

「ふ‥‥」

時折漏れる互いの熱を孕んだ吐息が、更に二人を煽る。
絡ませた舌がたてるぴちゃぴちゃとした水音や、飲み下せずに喉を伝う唾液の流れる感触が、止まらない激情の背中を押す。絡め、吸い上げ、お互いが逃すまいと噛み千切らんばかりに舌の動きを追いかける。いつの間にか二人は倒れこんで互いを引き寄せ合っていた。
ヒーターのせいではない熱さが、三蔵と悟浄を包み込む。
三蔵の手が悟浄の服の下から侵入し、直接素肌に這わされだすと、悟浄は敏感に反応を返した。

ちかり、と何かが悟浄の頭の中で光る。

「‥‥?」

一体何だろうと考えるように視線をさ迷わせると、三蔵が怒ったように唇を合わせてきた。
集中しろ、と言いたいらしい。余裕の無いその仕草に苦笑を漏らしつつ、悟浄は三蔵の頭を抱きかかえた。徐々に降りていく三蔵の唇の感触に、否が応でも息が乱れる。まるで触れられた部分に神経の全てが集中しているかのような感覚。三蔵の手の動きに翻弄され、悟浄の体はビクビクと跳ねた。感覚がコントロールできない、初めての相手。
満足気な笑みを浮かべる三蔵に対し、そんな自分が恥ずかしくて、悟浄は思わず顔を背けた。―――と。
 

義母と、目が合った。
 

実際は、義母の写真が目に入った、というだけだったが。少なくとも悟浄にはそう感じられていた。チカチカとした光が、頭の中でスパークする。

「あ‥‥」

忘れてはいけない、何か。
 

それが鮮明に浮かび上がってきて、悟浄は目を見開いた。

「悟浄?」

不意に体を硬直させた悟浄を不審に思い、三蔵が顔を上げ悟浄の顔を覗き込む。三蔵の顔を見た瞬間、悟浄は息を呑んだ。
 

 

三蔵の、髪が――瞳が。
 

 

「お‥‥前、眼が‥‥紅く――――」
「ぁあ?」

それは、あの時と同じ。母親を失った、あの雪の日に見た夢と同じ。

目の前の綺麗な人が、自分と同じ汚れた紅に染まっている。悟浄は半狂乱になって三蔵を跳ね除けようともがき出した。

「おい悟浄!?」
「触‥‥んな!お前が、汚れちま‥‥う‥‥うっ、あ」
「何言って――――?悟浄?どうした、おい!」

突然暴れ出した悟浄に、三蔵は訳も分からぬまま、取り合えず体を押さえつける。三蔵の耳にヒュ、と掠れるような音が届いた。悟浄の体が痙攣を始める。
 

マズい――舌を噛む!
 

咄嗟に指を悟浄の口に突っ込む。途端、物凄い力で悟浄の歯が三蔵の指に食い込んできた。

「‥‥チッ‥‥」

痛みに眉を顰めながら、三蔵はもう片方の手で、悟浄の背中を摩ってやった。

それは、悟浄が完全に意識を手放すまで続けられた。
 

 

 

 

――――誰かが泣いている。
 

顔を見なくても分かる。
見慣れた背中が、震えている。
あの人が泣いている。俺のせいで泣いている。
声をかけたくても、そうすればもっと泣かせてしまう。伸ばせない手。背中越しにしか見詰めることしか出来なかった。

昔と同じ。何も変わってなんかない。俺も。俺のこの色の意味も。
不意に光が差し込んできた。やけに温かい、居心地のいい光。思わず、そっちの方向に足を向けようとした、その時。

突然、足を掴まれた。

見れば、あの人が泣きながら俺の足を掴んでいた。そして。

『アンタだけ、幸せになろうっての?』
 

 

 

 

「あ、あ、は、はっ」
「悟浄、大丈夫だ、落ち着け!ゆっくり息しろ!」

三蔵の声で、悟浄は覚醒した。
三蔵の名を呼ぼうとして、声が出ないのに気が付く。呼吸の仕方を忘れていた。焦る悟浄にひっきりなしにかけられる三蔵の声。そこでようやく、悟浄は空気を吸い込む事を思い出した。
あの時と同じく、自分が呼吸を止めていた事が無性に笑える。隠したつもりだったが、口元を歪めたのを目敏く見つけたのか、三蔵に思い切り睨まれた。

「―――大丈夫か」
うん、と頷こうとして三蔵の指が眼に入る。真新しい傷口から血の滲む、痛々しいそれ。

「あ、悪ィ‥‥指‥‥」
誰かを傷付けることしか、出来ない自分―――反吐が出る。

「大したことねぇ」
「ゴメン‥‥」
「いいっつってんだろ」
「‥‥そうじゃねぇよ」

はっとして、三蔵は悟浄の顔を見詰めた。

「悪ィ、俺、駄目だ」

それはいつもの悟浄の顔ではなかった。

何重にも重ねられた鎧が脱げ落ちて、悟浄はまるで子供のような表情を浮かべている。寂しがり屋で怖がりの、愛されなかった記憶を持つ子供の顔だった。

悟浄の心の奥に、ずっと住んでいる小さな子供。

自分にだけは晒して欲しいと願っていた。いつかは、見せてくれると信じていた。だがそれは、こんな形でと願った訳ではない。

「やっぱ、駄目だわ」

今までのどこかしら自制した拒絶とは何かが違う。

大きな体を抱え込むように、悟浄は丸くなっている。世慣れた自分を何処かに置いてきた様な悟浄の姿に、三蔵の胸はちりちりと痛む。

「もう、帰んなよ。‥‥‥‥俺は、一人で‥‥平気だから」

 

それは、数えて三度目となる、悟浄からの『さよなら』の言葉だった。
 

 

 

 

「‥‥分かった」

驚くほどあっさりと、三蔵はその身を悟浄から離す。包まれていた温もりが急速に引いていくのを、悟浄は感じていた。気付かれないように唇をかみ締める。

―――また、終わっちまった。

きっと、三蔵は怒っているだろう。せっかく来てくれたのに、手を伸ばしてくれたのに。
俺は、それに応える事が出来なかった。もう二度と、三蔵が俺を見てくれる事はないだろう。

言い訳だった。以前、三蔵の会社での立場云々を取り沙汰して別れを告げたのは、汚い自分を晒したくはなかったから。
こんなに汚れた自分。人を不幸にしか出来ない、罪の色を纏って生まれてきた自分。
それを理由にするには、あの時の自分は弱すぎた。三蔵の弱さのせいにして、本当は自分を晒す事を恐れ、逃げ出した。

だが、今そのツケが巡ってきたのだ。大事な人の前で、暴かれた自分自身の心。醜い紅への嫌悪を捨てきれず、いつまでたってもドロ沼で足掻く汚れ切った自分の姿。
 

絶望と悲しみに溢れた心を両手で抱きしめながら、三蔵が玄関に向かう足音を、悟浄は背中で聞いていた。仕方がないのだ、これは自分自身が出した結論なのだから。

ドアの開かれる音が響く。悟浄にはそれは死刑執行へのドラムロールのようだった。そのドアが閉じられた時、全ては終わる。
三度目の終焉。そしてもう、次は無い。

出て行く寸前、三蔵が振り返った気配。悟浄は目を閉じて、その瞬間を待った。

「またな」

バタン、と安っぽいドアの閉まる音が、部屋中に木霊する。思わず体を起こした悟浄の目の前には、既に閉ざされたドアしかない。

 

「‥‥またな?」
 

悟浄の愕然とした呟きが、閉じられたドアにぶつかり、散らばった。
 

 

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