お見合いに行こう!(Vol.3)

息苦しさからか、悟浄が僅かに身を捩る。
だが、三蔵はその唇を解放しなかった。
口付けたのは、確かに衝動。だがこの想いは衝動などではないから。
もう、隠すつもりはない。
 

やがて悟浄が目を覚まし、反射的に突き飛ばされても、三蔵は別段驚きはしなかった。

当然の反応だ。

段々と頭が覚醒してきたのだろう。悟浄の目が驚愕に見開かれるのを確認してから、三蔵はゆっくりと元の位置に腰掛ける。だが、悟浄の視線は三蔵を追わず、呆然と前方の宙を見つめたままだ。
 

「なんで‥‥」
小さな呟きが、震えている。

それで、三蔵には分かってしまった。

ただの友人なのだ。こいつにとっては。
俺も、所詮その他大勢の顔なじみの一人でしかない。
俺だけが、こいつに捕われて。俺だけが、こいつに会いたくて。俺だけが、こいつにどう思われているか散々頭を悩ませて。俺だけが、俺だけが。
 

沈黙。
 

つい先ほどまではあんなに心地良かった静寂が、今は痛いほど耳に響く。
それを破ったのは、悟浄の携帯の着信音だった。
その場の雰囲気にそぐわない、明るくがなりたてる旋律が、どこか非現実的なものに感じられる。

自分の携帯が鳴っている、という事実でさえ、うまく認識できていなかったらしい悟浄は、2度目のサビの部分にさしかかった所でようやく我に返った。まるで、今目が覚めたかのように頭を2、3度振ると、電話を探る。
三蔵は、悟浄の手が震えてポケットから携帯をなかなか取り出せないのを、ただ静かに見守った。

携帯の画面に映し出された発信元を確認する悟浄の顔が、僅かに曇る。
「はい‥‥」
その声が、力ないものに聞こえたのは、三蔵の思い過ごしだろうか。
「はい‥‥はい‥‥。分かりました。明日、伺います。‥‥ええ‥‥先生の部屋ですね。‥‥じゃあ、2時に」
通話の終わりを告げる短い電子音を、悟浄は目を閉じて響かせた。そして、次に目を開けた時には―――。「いつもの」悟浄に戻っていた。少なくとも、表面上は。
 

「バイトあるから。そろそろ俺行くわ」

それはいつもの、悟浄の台詞。珍しく喧嘩別れをしない時は、悟浄のこの言葉が、その時間の終わりを告げる合図だった。
だが。

「じゃあ、また連絡くれよ」

普段は告げられない余分な台詞を加えられ、三蔵は愕然とした。
もし、こういう状況でなければ。三蔵はその言葉を喜びをもって迎えただろう。
そう、例えば、ほんの10分前ならば。

連絡しろ、だと――?三蔵は耳を疑わずにはいられなかった。

伝わったはずだ。自分が悟浄をどう想い、どういう目で見ていたのか。こんな誰が見ているかわからない場所で、思わず口付けてしまうほどに、その想いは深いものだと。

だが、どう見ても、三蔵の想いを受け入れるという様子は悟浄には見られない。
つまり。
今、その全てを「なかったこと」にされたのだ。

「ふざけんな‥‥」

行き場のない怒りが、三蔵の中に湧き起こる。立ち去ろうとする悟浄の胸倉を掴み、睨み付けた。本来なら、ここで怒るべきなのは悟浄の方なのかもしれないが、そんな事を考える余裕は今の三蔵には無い。

「‥‥どういうつもりだ」

三蔵の問いを受け、悟浄は鼻でせせら笑った。

「どーもこーもねぇよ。そりゃー、仲良くしとくに越したことねーだろ、普通」

先ほど見せた狼狽も、震えも、今はどこにも無い。ただ、いつもの皮肉気な笑みを、いつも通りに浮かべていた。それこそ、何も起こらなかったように。

「知ってると思うけど、俺、超貧乏なんだよね―――んで、お前、金持ちじゃねーの。どういうつもりかなんて、それで、わかんねぇ?」
結構オメデタイのね、お前って。
歌うように、悟浄は言葉を紡ぐ。三蔵は、正直耳を塞ぎたかった。

「俺に惚れてたんだ?」

ヤメろ、もう。

「まあ、今回のキスはサービスするけど」

それ以上、言うな。

「今度からは、俺が欲しけりゃ払うもん払えよ――金ヅルちゃん?」
 

顔面に入れた筈の拳は、動きを予測されていたのか悟浄の顔に届く前に、受け止められた。

「顔はやめてよ、商売モンだからさ」

ガッ。
間髪入れず、鈍い音と共に悟浄の鳩尾に三蔵の拳が埋まる。

崩れ落ちる悟浄の目の端で、こちらには一瞥もくれず歩み去る三蔵の後姿が遠ざかっていった。
 

 

 

 

その日の夕方、悟浄は痛む腹を摩りながら八戒の事務所を訪れていた。
悟浄の数少ない『友人』である八戒は、最近事業を立ち上げたせいで超多忙な日々を送っている。以前悟浄が「お前、大学はいいのかよ?」と聞いたら、「ちゃんと計算してますから」と笑っていた。
都内でも一等地のこの場所に、小さいながらも事務所を構えているのが不思議で、彼女(八戒の恋人の花喃ちゃんは、大手電機メーカーの社長令嬢だ)に出資させているのかと勘ぐったぐらいだ。
もっとも、それを冗談めかして言った時には、えらくひどい目に怒られたのだが。
 

少し久し振りに会うその友人は、前に会った時と同じく、書類の山に埋もれていた。

「悪ぃ―――ちょっと、ここで寝かせてくんねぇ?」
八戒の返事も聞かず、悟浄は勝手知ったる何とやら。部屋の中央にあるソファにごろりと横になる。

「いいですけど、ちゃんと帰って布団で寝たらどうです?」
「いや、時間ナイから。ここからの方が近いし」
「―――また、始めたんですか、あのバイト。あんなに嫌がってたのに」
「仕方ねぇよ、今月ちょっとヤバいからさ。安いバイトで時間こなすわけにいかねぇんだわ」

八戒の言う『あのバイト』先とは、歌舞伎町にある高級ホストクラブ。以前、高いギャラと気前良く与えられるチップに惹かれ、しばらく働いた事がある。
炎天下の下、そこらの工事現場で1ヶ月間汗まみれに働いて、ようやく手にする賃金以上の金額が、そこでは一晩で手に入った。

だが、長くは続かなかった。

客に心にも無いお世辞を言うことも、一夜を共にすることも、別にどうという事は無かった。
そんなことよりも。
夫も子もある女たちが、自分に色目を使い、気を引こうと躍起になって金をつぎ込む。その姿に嫌気が差した。
今、子供はどうしているのだろうか。夫は、妻の帰りを待っているのだろうか。
――ただ、待っているのだろうか。
そう思うと、いたたまれなくなった。そうやって、自分の義母は壊れていったから。

自分に入れ込んだ客が、他のバイト先にまで押しかけてきて揉めた、という出来事をきっかけにして、足を洗った。

3年ぶりで店を訪ねた悟浄を、オーナーは手放しで迎え入れた。悟浄は結構な売れっ子で、辞める時も最後まで必死に引き止められたものだ。
 

‥‥‥そう言えば、こいつと出会ったのも、丁度その頃だったな。
 

悟浄の胸に沸き起こった僅かな感慨は、当の八戒の台詞で掻き消された。
 

「そんな無理しても、あの人に会いたいですか?」
「‥‥‥ああ?」
「あの人に会う為に、昼間のバイト減らしたんでしょう?」

時々、こいつの聡さが疎ましく思える時がある。例えば、自分でも気付いていなかったような事を、当然であると言わんばかりの口調で指摘してくるような時。

「んなんじゃ、ねーよ‥」
情けない事に、声が少し掠れた。

「‥‥まあ、いいですけどね‥‥後で後悔だけはしないようにして下さいね」
八つ当たられるのは御免ですから。八戒は穏やかな声でそう告げると、どこからか毛布を取り出してきて掛けてくれた。
 

「もう、会うこともねぇよ‥‥」
その呟きは小さすぎて、八戒の耳には届かない。

無理やり閉じた目の奥の闇に浮かぶのは、あいつの後姿。
その金色の髪を風に揺らせて。その歩みに怒りを表して。
追い払おうとしても、それは消せなくて。何度も何度も、俺から遠ざかる。
 

「なんで‥‥」
あの時つい漏らした台詞を、もう一度繰り返す。
 

なんで、終わらせるんだよ?
お前があんな事しなければ。
 

――――俺は、夢を見ていられたのに。
 

 

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