お見合いに行こう!(Vol.14)

「悟浄!」

悟浄の身体を抱えるように支えた三蔵には、何が起こったのか理解出来ていなかった。
紅い瞳の男が、ロビーで騒ぎを起こしているらしいと係員たちが話しているのを聞きとがめ、まさかと思ってきてみればやはり想像した通りの人物で。

何故、此処に悟浄がいるのか。何故、その瞳が晒されているのか。いやそれよりも、この熱は――――。

ニィが屈んで悟浄の脈を取る。三蔵的には「触るな」と言ってやりたいところだが、今この場で悟浄に触れられる医者は他にいないだろう。悔しいが、黙認するしかない。

手際よく悟浄の身体を診察する元医師の姿に、複雑な胸中が顔に出ていたのか、ニィは三蔵の表情を伺うと楽しそうに笑った。

「‥‥‥とりあえず、この騒ぎを何とかしないとねぇ」

そう小声で告げると、ニィは立ち上がり遠巻きに取り囲む人々へ声を張り上げた。まるきりその場の雰囲気にそぐわない、ふざけているとも取れる明るい口調だった。
 

「皆さんどうぞ落ち着いて。大丈夫ですよぉ、彼の目と髪、例の伝染病には関係ないまったくの生まれつきだから♪」
 

 

 

 

それから事態は目まぐるしく動いた。
ニィは悟浄の上着のポケットから何やらカード大の証明書のようなものを取り出し、近くで茫然自失となっている警備員に提示した。それは、政府発行の証明書で、悟浄が例の伝染病の保菌者でない事を証明するものだった。他に類を見ない証明書に警備員は戸惑いながらも、自分が助かる希望が見えてきた事に喜び、証明書の真贋の確認を同僚に指示した。
また三蔵も自ら関係省庁に連絡を入れ―――確認作業が円滑に進むよう取り計らうためだが―――そのお陰か役所にしては驚くべき迅速さで回答が寄せられた。観世音の名前は、こういう時に使う分には便利なものだ。

結局悟浄の『濡れ衣』が晴らされたのは、騒ぎが起こってから僅か三十分後の事だった。館内放送で事態の説明がなされ、混乱が完全に収まるまでには、また幾分の時間を要したが。
 

 

今、悟浄は空港内のクリニックに運び込まれ、その一室に寝かされている。

 

そこの医師から、風邪だろうと診断を受けたところで、ようやく三蔵は安堵の息を漏らした。

「注射をしておきましたから、熱は下がると思いますが‥‥当分安静にさせて下さい。温かくしてね。しばらくはここで休んでいかれるといいですよ」

頷いて、医師が診察室に戻るのを見送る。小さな音を立ててドアが閉じられた後に漂うのは、耳に痛いほどの静寂。
三蔵がベッドを見下ろすと、の悟浄の胸が規則正しく上下している。普段より幾分赤い顔に汗が滲んでいる。こんな状態で、恐らくは自分を迎えに来たのだろうと思うと、思い切り抱きしめてやりたい衝動に駆られてくる。

そう、この男さえ、此処にいなければ。

三蔵はゆっくりと顔を上げ、壁にもたれる無精髭の元医師に向き直った。
 

 

「何か言いたそうだね?玄奘三蔵君」

最初に口火を切ったのは、ニィの方だった。
名乗ってもいないのに、ニィは三蔵が何者であるか知っていた。もっとも、三蔵も彼の事を知っていたのだから驚くには値しないが。
初めてこの男と直接対峙してみて、三蔵はいかに自分とウマが合わないタイプであるか、十分すぎるほど感じていた。粘りつくような視線が、人を不快にさせる。

三蔵は、この男の姿を見た時から抱いていた懸念をまず口にした。

「何故、貴様が此処にいる?まさかまだ、悟浄に何か‥‥‥」

恐らくは予想された問いだったのだろう。その詰問に、ニィは三蔵の嫌いな、人の悪い笑みを口元に張り付かせた。

「偶然、って言ったら信じる?」
「‥‥‥愚問だな」
「あ、やっぱり駄目?‥‥‥それじゃあ」

す、と眼鏡を押し上げる動作までもが、鼻に付く。

「彼をつけてきたって言ったら、納得?」
「何だと‥‥‥?」

「アパートから、此処まで。久し振りに日本に帰ってきたもんだから、懐かしい日本の味が恋しくなっちゃってさ。誰かさんが戻る前に隙あらばご馳走になろうかなーって思ってたんだけど‥‥‥いやはや、まーた成田に連れてこられるとは思わなかったよ。騒ぎは起こるしさぁ。なるべくなら静かに過ごしたいんだよね。これでも一応追われる身でね――――ああ、君は知ってる筈だっけ、三蔵君?」

「―――心配すんな。いくらでも静かに過ごせるところを紹介してやる。鉄格子の中でよければな」

低く響く、三蔵の声。抑揚も無く搾り出されるそれは、三蔵の怒りを如実に表したものだったが、目の前の男に怯む様子は見られない。

「おや、また警察を呼ぶつもりかい?‥‥‥僕の医師免許剥奪させた時みたいにさ」
 

三蔵の射る様な視線を、真っ直ぐにニィは受け止め―――二人は睨み合った。

一方はその心を覗かせない無表情で。もう一方はその心を覆い隠すような薄笑いを浮かべて。一歩も引かず、お互いに目を逸らさず。ただ僅かな瞳の動きから何かを読み取ろうとするかのように。

食えない奴だ。三蔵は目の前の元医師を見据えながら考えていた。なるべく自分の存在が表に出ないよう秘密裏に調査させ、告発したつもりだったが、ニィはそれが三蔵の仕業であると知っているらしい。

「東京湾に沈められなかっただけ、マシだと思うんだな」
「怖いなぁ♪」

目を逸らさないままに告げられた三蔵の言葉に大げさに肩を竦め、ニィは口元をさらに歪めるとようやく視線を外した。
東京湾というのは大げさだが、決して嘘ではない。実際に緑の目の友人は、悟浄と悟浄の母の尊厳を踏みにじったとして、ニィに対してかなりの報復措置を講じようとしていた。
三蔵が止めなければ、今頃この男は自分の足で立っていられたかどうか怪しいものだ。

ニィが無認可の薬を悟浄の義母に投与し、それが原因で彼女が死亡したらしいとの調査報告が届いた時、八戒は普段の温和な態度からは想像出来ないほどの大声を上げ三蔵に迫った。

『貴方は、腹が立たないんですか!?悟浄があんな目にあわされた上に、お母さんまでモルモットにされてたんですよ!?』

激昂する八戒を三蔵は推し留めた。無論、三蔵とて怒りを覚えていないわけではない。だが、その報告書を読んでいるうちに、三蔵はある疑問を抱いた。自分でもまさか、と思う仮説が頭を過ぎる。

もしかしたら、こいつは――――。

どうしても、それを確認しておきたかった。

 

「まあ、不自由はしてないけどねぇ。これでもね、色々なところから引きがあって困ってるんだよ。勿論、オモテ家業じゃないけどね。その分、どんな違法な研究もやり放題♪収入も以前とは比べ物にならないよ――おっと、当然キミには適わないけどねぇ?まさか、悟浄君のお相手が今をときめく観世音グループの御曹司様だなんて、正直びっくりしたよ」

一気に喋り倒すと、元医師は口元に嫌な笑みを浮かべつつ、三蔵の次の言葉を待つように一度言葉を切った。
だが、そこで突然何かを思い出したらしい。ゴソゴソとポケットからカード状のものを取り出し、三蔵に突き出した。

「そうそう。これ、彼に渡しといてよ。ボクからの餞別」

それは、先程ニィが悟浄の冤罪を晴らすために使用した、政府発行の証明書。悟浄のポケットから取り出す『フリ』をし、ニィ自身の服の袖口から滑り出させたのを、三蔵は見逃してはいなかった。
いつ撮られたものか、悟浄の顔写真が貼られてある小さなカード。写真の横に、例の伝染病と悟浄の因果関係は無いと明言され、それに関する意に副わない検査を拒否できる旨が記されてあった。そしてこれが公的機関の発行物であることを証明する公印。

「普通の人には、見せてもあまり意味は無いかもしれないけどね。本物かどうかわかんないと思うし。でも、医者連中には効果あると思うよ?少なくとも、あの病気を口実にしての検査は拒否できるからねぇ」

「‥‥これから先、悟浄が感染しないとは言い切れないだろう。よくこんな証明書が出せたもんだ」

三蔵は、渡された証明書に目を落としながら感じた疑問を口にした。確かにこの証明がなされた時点では、悟浄は伝染病に感染していなかったのかもしれない。だが、明日にはどうなるか分からないのは、悟浄のみならず三蔵も、ニィも、誰しも同じ筈ではないのだろうか。一時間後に感染しないとは、誰にも言い切れない筈だ。

「言い切れるんだなぁ、それが」

そう笑うニィに三蔵は訝しげな視線を送る。

「あの伝染病はね、特定の遺伝子に感染するんだ。知ってるかい?普通の人間なら無意味な遺伝子を山のように持ってる。その一つ―――普通の人間なら誰でも持っているその遺伝子に、潜り込むんだよ。そして感染したら最後、無差別に細胞を破壊しながら爆発的に増殖する。けど、最初に感染するのはその特定の遺伝子だけなんだ。その遺伝子を多く保有していれば、それだけ感染の確率も高くなる。逆も、また然りさ」

ニィはそこで一旦言葉を切ると、いかにも楽しげに三蔵の表情を伺った。出来のいい生徒を前にした、教師のように。

「彼には、その遺伝子が存在しない」
「!」
「因子が無いんだから、感染しようが無い‥‥‥‥というわけ。だから、医者たちの興味を惹くのさ」
「‥‥‥悟浄を検査した医者たちは、皆その事を知っていた上で、悟浄を捕らえて検査していたと?」
「伝染病を口実に、って言っただろ?少なくとも、伝染病を疑って彼を検査した医者は、最初に調べた僕だけだろうねぇ」

湧き上がる怒りに、体中が震えた。

――――結構痛いコトされたりするけどさあ。仕方ないよな、もしかしたら何か見つかんないとも限んねぇしさ。

そう言って、騒ぎが起きる度、強制的に行われる検査を我慢していた悟浄を思い出す。
なのに医者どもは―――病気の解明などではなく、自分たちの興味を満たすためだけに、悟浄を研究材料として扱っていたのだ。

眼が眩むほどの怒りというものを、三蔵は生まれて初めて体験した。

 

「――――もっとも僕も二回目からはお医者さんごっこだったけど♪クセになるよね、彼の身体。あ、それともまだキス止まりかな?」

男の言葉に、三蔵は現実に引き戻された。告げられた内容を三蔵が理解するより早く、ニィは次々と言葉を紡いでいく。

「彼とはそりゃもう何度もヤったんだけどさー。突然、キスを嫌がるようになったんだよねぇ。お仕置きしようと思って口を重点的に汚してあげたのに、それでも次ヤる時にはまた嫌がってさ。とんだ純情君だよ、興ざめしちゃった。――――もういらなくなったから、キミにあげるよ。ボクの使い古しだけどね。でも具合はいいと思うよ?ボクがバッチリ仕込んであげといたから」

「貴様‥‥」

悟浄の自分に対する想い。そんな悟浄を貶める言葉の羅列。
三蔵の周りに、殺気にも似たオーラが立ち上る。それを意に介した風も無く、ニィは目を細め、口元を歪めた。

「おや?ここで問題起こすつもり?ヤリ手と評判の若き御曹司が男を巡る三角関係で暴力沙汰!な〜んてゴシップ記者が喜びそうなネタだよねぇ〜。マズいんじゃない?そーゆー‥‥‥」

最後まで言葉を続ける事は出来なかった。三蔵の拳が、ニィの顔面を捉えたからだ。僅かな手加減も加えられなかったそれは、男の身体を部屋の壁へ叩き付けた。かけていた眼鏡が飛び、ガラスの割れる乾いた音が響く。
予想外の大きな音に、三蔵はベッドの悟浄の様子を伺う。だが、悟浄は目覚めた様子も無く、相変わらず穏やかな寝息を立てている。ほっ、と安堵の息をついた。
振動が伝わったのだろう、隣の診療室から医師が驚いたように顔を覗かせる。それは気にならないのか、三蔵は平然とニィに言葉を投げ付けた。

「遠慮せずに、試してみればいい。俺は構わん」
「‥‥‥止めておくよ。いくらなんでも、キミを敵に回すのは『今は』ヤバい」

含みを持たせた台詞を口にすると、ニィはオロオロと二人を見比べる医師に、笑って顔を冷やす氷を要求した。
 

 

冷たい塊をニィに押し付けると、医師は逃げるように隣の部屋に駆け込んだ。再び、部屋に二人の張り詰めた空気が戻る。

「‥‥‥一度だけだ。今回だけ、見逃してやる。二度と、悟浄と俺の前に姿を見せるな。次は、ただでは済まさん」

アイスパックを頬に当て、割れた眼鏡を手に恨みがましく送られる視線を黙殺し、三蔵は口を開いた。
乗せられた、という腹立たしい気分が捨てきれない。感じるのは、殴られたがっていた奴を殴った時の後味の悪さ。自虐趣味に俺を巻き込むなと言いたくなる。
それは同時に、あの時に浮かんだ仮説が確信に変わった瞬間。いや、本当は―――証明書を手渡された時から、気付いていた。

「へえ〜、随分、寛容じゃないの。恋人の身体を弄んでいた男が目の前にいるってのに、一発殴っただけで終わりかい?結構軽い気持ちなんだねぇ。それとも、過去の事は水に流そうって?いやあ、流石に大企業のトップに立つお方は心が広いなぁ」

尚も続く、ニィの挑発。だが、その皮肉をたっぷりと含んだ軽口には答えず、三蔵は別の話題を口にした。もうこれ以上、こいつに付き合ってやる義理もない。

「奴の母親が息を引き取った時、病室にはアンタだけだったそうだな。看護婦さえ、その場には一人もいなかった。アンタに、薬やら器具やら取りに行くように命令されてな」

「‥‥それが?」

突然の話題変換に戸惑ったのだろう、ニィの返答が少し、遅れた。

「アンタが研究していた新薬は、脳神経を急激に活性化させる薬だったな」
「‥‥だから、それが――」

「―――母親に、使ったな?」
 

突然、くつくつとニィは笑い出した。余程可笑しいのか、時折声を上げては腹を抱えて笑っている。三蔵は、そんなニィの姿を、ただ冷えた眼で見つめていた。一頻り笑うと、ニィは目元を擦りながら、三蔵に視線を戻した。

「‥‥‥ああ、ゴメンゴメン‥‥。何を言い出すのかと思えば、今更そんな―――。何考えてるの?もしかして僕が薬で彼女を殺したとでも?それで逆襲したつもりかい?そうだねぇ、例えそうだとしても、立証は難しいだろうね。遺体はとっくに灰になってるし、何より動機が無いでしょ?そんなことをして、僕に何のメリットがあるっていうのかなぁ」

「人体実験ではない、と?」

「そりゃぁね、確かに研究はしてたし、自分が作った薬を患者に投与もしてたよ?けどアレはまだ開発途中で、まだ臨床試験の段階まではとてもとても。君の事だ、それぐらい調べたんでしょ?これでも一応医者の端くれだからねぇ。効く確率なんて無いに等しいし、効かなかったら命に関わるって、そんなものを幾らなんでも――」

 

 

「つまりは、薬が効いても効かなくても、悟浄はアンタと母親から解放されるってわけだ」

  

  

ニィの顔から、笑みが消える。
しん、とした部屋にさらなる静寂が走った。
 

 

「この証明書の発行日付‥‥奴の母親が亡くなる一週間前だな」

それはすなわち、彼女の容態が急変する数日前。それを偶然と思うほど三蔵は間抜けでも無ければ、見逃してやるほど甘くも無い。
その日付を見た時、三蔵は全てを理解した。
この男が、死に至る可能性を想定した上で、無認可の薬を彼女に投与していた事は、既に疑いようもない。ニィは悟浄の義母の容態が急変する事を見越して、証明書の発行申請を行ったのだ。
 
まだ悟浄が自分の手元にいるうちに。
 
母親がいなければ、ニィと悟浄を繋ぐものは何も無くなる。そして一度離れてしまえば、悟浄がいくら身の潔白の証明に必要とはいえ、二度とニィに検査を許すとは考えにくい。
 

 

何もかも、悟浄に自由を与えるために。
 

これが、目の前の男の行動に対する、三蔵の出した結論だった。
 

 

 

 

「‥‥‥‥随分とおめでたい思考回路の持ち主だね、キミは」

僅かに三蔵から視線を外し、静かに男は口を開いた。幾分、呆れたような響きが含まれてはいたが、三蔵は気にならなかった。
もし外れているのなら、この男は蔑む様な視線を寄越す。対峙したのは僅かな時間だが、三蔵には分かっていた。

三蔵の目の前に立つ男は、今までとはまるで別人だった。

故意に全身に纏っていた浮ついた雰囲気をこそげ落とした、男の新しい顔。その男からは、先程までのわざとらしいまでの余裕は既に感じられなかったが、顔の笑みを消し去ってもなお、その口元に笑みの形に残る歪みが、却って男の凄みを引き立たせている。捉え所のない男から、捉えるにはかなりのリスクを伴う事を伺わせる、危険な男へと変貌した。

だが、三蔵はそんな男を見ても、ただ「ふん」とつまらなそうに鼻を鳴らしただけだった。
 

「よく言われる‥‥不本意だがな」

三蔵にしてみれば、別に自分がめでたい思考の持ち主だとは欠片も思っていない。
そういう連中が、周りに多かったというだけだ。自分の心を素直に出せない、屈折しまくった、不器用極まりない傍迷惑な連中が。

「これをその時に渡さなかったのは―――切りたくなかったからか」

この証明書は、ニィと悟浄との最後の繋がり。義母もいない今、これが悟浄の手に渡った時点で、ニィと悟浄との縁は完全に切れる。彼女が亡くなった時点でこれを渡すつもりだった筈のニィが、それをしなかった他の理由を、三蔵には思いつく事が出来なかった。
久し振りに日本に帰ってきたと、ニィは言った。もし、渡せなかった事に後悔を抱いていたのならば、第一にとる行動は。

「アパートを訪ねたのは、これをこいつに渡すため、か?」

そしてそれは―――多分外れてはいないのだろう。

 

 

 

「ホントに、おめでたいねぇ‥‥‥」

ニィは、三蔵の問いには答えなかった。ただ、ほんの一瞬だけ、その視線が悟浄に向けられたのに、三蔵は気付かない振りをした。当然、そこに込められた感情も、見逃してやらざるを得なかった。
 

ニィの呟きを最後に、二人とも口を噤む。

何度目かの、静寂。だが、先程のような緊迫感に溢れたものとは微妙に違う。お互いが、お互いの感情を探るような沈黙。
例えここが人々の行きかう騒然とした発着ロビーの真ん中であったとしても、この二人の間には侵すことの出来ない沈黙が横たわるのだろう。永遠に交わる事の無い、水と油のような二人の間には。
 

 

 

「ボクがね、殺したの」

最初にその沈黙を破ったのは、ニィの方だった。だが、その言葉には何の感情も含まれていない。その内容はとんでもない事であるのに、口調だけなら『ちょっと買い物に行って来た』と告げているのと何ら変わらないものだった。

「彼女、息を引き取る前に、一度目を覚まして‥‥いや、はっきり覚醒していたかどうかは怪しいな。夢の続きを見てたのかもね。何か言いたそうだったから、呼吸器も全部外してあげたの。だから呼吸不全で死んじゃったんだよ―――直接の死因は薬じゃない」

殺人の告白を受けている筈なのだが、今の三蔵に、それを糾弾しようという気は起こらなかった。
悟浄には、出来るなら黙っておいてやりたい。非合法の薬を投与されたと聞いてもなお、心の中では信頼を寄せていた医師が、何よりも大切にしていた義母を―――殺したのだ。

いや、本当はもしかしたら、何より三蔵自身が糾弾したくないのかもしれなかった。認める事は到底出来ない感情だったが。

「‥‥‥何か、言ったのか」

せめて自分に出来る事は、最後までこの元医師の告白を聞いてやる事だけだ。それが、悟浄に対する三蔵なりの真実だった。

「なにせ声帯も随分使われてなかったし‥‥‥半分呻き声だったから、聞き間違いかもしれないけど」

そこでニィは何故かくるりと背を向けた。

 

「ごめんね、って言ってたかなぁ」

 

その言葉が真実かどうかを判断する事は三蔵には出来なかった。せめてニィの表情から何かを読み取れれば――――そう考えて三蔵は心の中でそれを否定した。仮にニィの顔が見えていたとしても、その言葉の真偽を確かめる方法は、どこにもありはしないのだ。

「そうか」

だから、それだけを口にした。
そうすることしか、できなかった。
 

 

 

 

 

さて、と男は一つ伸びをした。手にしていたアイスパックを後ろに向けて放り投げる。それは見事に、三蔵の目の前に落下してきた。渋々、キャッチする。同時に、カチャリとノブを回す音が三蔵の耳に届いてきた。

「そろそろ消えるとしますかねー。君にも目障りだろ?グズグズしてると、お巡りさんに気付かれないとも限らないし」

背を向けたままの格好だが、その雰囲気は最初に対峙した時と同じ、ふざけた空気を纏っている。恐らくはあの嫌な笑みを顔全体に浮かべているのだろう。
 

「これから、何処へ行く?」

「ナ・イ・シ・ョ♪」
 

パタン、と閉じられるドアをしばらく眺めていた三蔵だったが、何を思ったのか突然部屋を飛び出した。怯えた視線を寄越す医師の隣を通り抜けて、クリニックの外へ走り出る。少し離れた所に、去っていく後姿。 

「おい!」

聞こえているだろうに振り返る事なく歩き続けるニィの背中に、構わず三蔵は最後の質問を投げかけた。

「あいつに、惚れてたか?」

「――――まさか」

ようやく一瞬だけ足を止め、顔半分だけ振り向いた男の顔からは、やはり何も読み取る事は出来なくて。

再び歩き出した男の背を少しの間見送った三蔵は、その姿が完全に消える前に、自らもまた踵を返した。
 

悟浄の側へ戻るために。

 

 

BACK NEXT