お見合いに行こう!(Vol.15)

見慣れない天井が、悟浄の目に飛び込んできた。

(ココ‥は‥‥?)

ぼーっとした頭で、それでも目だけを動かして周りの様子を探る。高い天井、壁にはよくわからないけれど値の張りそうな絵画。自分が寝ているのは、ベッドだろう。それも、やたら大きい。

「へぇ‥‥地獄って意外にゴージャス‥‥」

新発見だ。かつて自分の部屋を地獄と思い、「庶民的」と評した友人に教えてやりたい。
―――もう、その術はないけれど。
 

「阿呆は寝言まで阿呆だな」

突然、頭上から降ってきた言葉。僅かに仰け反るように見上げれば、あれほどに焦がれた金色の髪と紫電がそこにあって。覆い被さるように顔が近付いてくる。

「遅せぇんだよ、起きるのが。大体、デカい図体して自分の健康管理くらい―――」

すっげぇリアル。悟浄はちょっとばかり―――いや実際はかなりだったが―――感動していた。ぶっきらぼうな口調も不機嫌丸出しの仏頂面も、何もかもが本物の三蔵とそっくり同じだ。獄卒にしとくには勿体無い。
無性に触れたくなった気持ちを抑えられず、例え本物じゃなくてもいいや、と悟浄は頭上の光へと手を伸ばした。

「さんぞ‥‥」

ぎゅ、と首にしがみつけば柔らかく抱き返してくる優しい手。最近は地獄までサービス時代らしい。ひょっとしたら利用客が減ってるのかもしれない、不景気だし。じゃあ、代わりに天国は混雑しているのだろうか。だったら、人混みの嫌いな三蔵は絶対に不機嫌に違いない。

「今頃‥‥三蔵は天国で大人しくしてんのかなぁ」

ぽつりと漏れた言葉に、自分で悲しくなった。なまじ目の前にいる獄卒が三蔵と顔も所作も何もかも寸分違わぬものだから、それが却って寂しさを掻き立てる。
不意に身体を引き剥がされたと思ったら、頭に感じる鈍い痛み。何だ、もうサービス終了?とぼんやり考えていたら、二度目の衝撃。
今度ははっきりと、叩かれたと認識できた。

「いつまでもボケた事抜かしてんじゃねぇぞ。勝手に人を殺すな」

上から見下ろしてくるその顔は、いつにも増して不機嫌で。
その顔と、頭の痛みと。少しはっきりとしてきた頭で、もう一度キョロキョロと部屋を見渡せば、そこにはドアがあり、窓があり、カーテンがあり、机があり、椅子があり、鞄があり―――。それは紛れもなくどこかの一室で。ここが現実の世界だという事に悟浄はようやく思い当たった。

―――まさか。まさか、まさか、まさか、まさか。

「あ、あのさ」
「何だ」
「もしかして、お前‥‥本物?」

「当たり前だろうがっ!」

「ええええぇっ!?」

思わず勢いよく起き上がり、振り上げられた三度目の拳から身を捩って逃れながら、悟浄は素っ頓狂な声を上げた。突然動いたからか、感じる眩暈にふらつく身体を横に回った三蔵が咄嗟に支える。だが、今の悟浄にはそれに感謝する余裕など欠片も無かった。

「ななななな、ナンで!?だって、飛行機落ちたって―――」
「乗ってなかった」
「はぁ!?」
「予定が変わったんだよ」
「△*●@×%!?」

「何だ、何か文句あるか」
「‥‥‥‥‥‥信じらんねぇ‥‥」

はああ〜と脱力し、再びベッドに沈み込む悟浄に三蔵は手を貸してやった。毛布を掛け直す手付きが優しいのに、やはり悟浄は気付かない。片腕で目を覆ったまま、悟浄は弱々しい声で呻いた。

「連絡ぐらい入れろよ、お前‥‥」
「‥‥してなかったか」
「聞いてねーよっ!」

しれっと答える三蔵に、悟浄は怒る気力さえ失った。途端、三蔵が死んだと思った時の自分の動揺ぶりを思い出して顔が赤くなる。
とんだお笑い種だ。自分ももう死んでも良いとすら思って、三文芝居じみた真似までしてしまったというのに。
だが、腹を立てるよりも何よりも、三蔵が生きて此処にいるという安堵感と、後から後から湧いてくる喜びの方が遥かに大きい。
悔しいけれど、嬉しくて嬉しくて嬉しくて。

赤い顔を見られるのが嫌で、悟浄はごろりと三蔵に背を向けた。すぐさま身体に伝わる振動で、三蔵がベッドに乗り上げてきたのが分かる。
毛布ごと柔らかく抱きしめられ、耳元で三蔵の呼吸を感じた。

「心配したか?」
「別に」

間髪入れずに返される答えに、三蔵は苦笑した。言葉で聞かなくても、耳まで赤い悟浄の様子を見れば一目瞭然だ。ならば、と悟浄の耳に唇を寄せる。

「悟浄」

低く甘く、耳をくすぐる三蔵の声。
こんな時に名前を呼ぶのは卑怯だと、悟浄は思う。自分が三蔵の声を気に入っているのも、その声で名を呼ばれるのに弱いのも、ちゃんと知っていてこの男はわざとそうするのだ。三蔵の思うままに操られているようで面白くないが、今は抗う時間が勿体無い。

そう、もう残された時間は限られているのだから。

肩にかけられた三蔵の手に力が篭る前に、悟浄は自分から三蔵に向き直った。目の前にある形の良い眉が訝しげに寄せられるのが見える。が、そんな事はお構いなしに三蔵の首に腕を回し、思い切り引き寄せた。
 

 

時折漏れる悟浄の荒い息が、熱く三蔵の頬をくすぐる。触れ合う舌が熱いのは、未だ下がりきっていない悟浄の熱のせいだけではないだろう。三蔵が僅かでも引けば、悟浄の舌がすぐに追いかけてきて絡め取られる。悟浄の口付けは巧みだった。気を抜けば何もかも持っていかれそうなほどに。

だが――――。

激しく唇を貪りながら三蔵のシャツのボタンを外していく悟浄の指を、包み込むようにしてそっと止めた。唇を離し、悟浄は怪訝な表情で三蔵を見ている。

「なに?こんな風にリードされるの、嫌?」

そうではない。積極的な悟浄を見るのは悪くない。だがこれは、どうしようもなく自分を求めた末の性急な行動というより、何かに追い立てられた挙句の焦った行動に思えて仕方が無い。

「てめぇ――何考えてる?」

顔を突き合わせる様にして問えば、目前の紅い瞳が居心地悪げに伏せられた。
最後まで聡いね、お前。呟かれた言葉の意味を確かめようと、尚も悟浄の目を覗き込もうとした三蔵の胸を、悟浄はとん、と押し返した。

「‥‥残念。時間切れ」
「ぁあ?」
「俺、帰るわ」

唐突な申し出に、三蔵の頭が付いていかない。何を言っているんだ、こいつは?

「もう随分、楽になったし。悪かったな、世話かけて」

ベッドから起き上がろうとした悟浄を、三蔵は圧し掛かるように押し止めた。

「馬鹿か?帰すワケねぇだろうが」

未だ悟浄の真意は掴めなかったが、もう手放すつもりは毛頭無い。

「もう逃がさねぇ。もう何処にもやらねぇ。此処にいろ」

首筋に顔を埋めるようにして囁けば、悟浄の身体が僅かに強張った。筋肉の緊張が、毛布越しにも三蔵に伝わってくる。

「けど、アパートもそのままだし――――仕事だってあるし」

悟浄を雇っていたスナックのママが、悟浄にもう戻らなくてもいいからと言ったのを三蔵は知らない。同時に、帰ってきても良いとも言われたが、あの気のいい女性のところにも、もう戻るわけにはいかないのだと悟浄は思っていた。自分には、その資格は無い。

「諦めろ」
「駄目だって、三蔵」

抱きしめてくる三蔵から逃れようと、悟浄は押し返す腕に力を込めてくる。普段なら、体格で上回る悟浄の方が力では勝っているはずだが、完全に体調が回復していない今では、あっさりとその抵抗は封じられ、三蔵に再びベッドに縫い付けられてしまった。
ここにきて三蔵は、悟浄が自分の目の前から姿を消すつもりなのだという事を嫌でも感じ取らざるを得なかった。

「お前、またくだらねぇ事考えて―――」
「‥‥くだらない?」

三蔵の言葉に、悟浄は少し首を傾げて、笑った。その笑みに、三蔵は自分が言ってはいけない事を口にしたのだと悟る。

「そ、だな‥‥。他人から見れば、くだらねぇ事なんだろうな‥‥」

"タニン"

当たり前であるはずのその単語が、何故こうも心を凍らせるのか。眉を顰めた三蔵には構わず、悟浄は言葉を続ける。

「でもさ、俺にとっては結構大事な事でね―――悪かったなぁ、くだらなくて!」

突然激しく抵抗を始めた悟浄を、三蔵は必死で押さえつける。暴れる悟浄の爪が、三蔵の腕を傷付けたが、その手を離す訳にはいかなかった。絶対に。

「お前、危うく死ぬとこだったんだぞ!」
「事故だ。お前には関係無い」
「違う、俺のせいだ!」

噛み付くように、悟浄は叫び―――。自分を見つめる三蔵から逃れるように僅かに視線をさ迷わせ、声を落とした。

「もう少しで‥‥お前殺すとこだった。俺がお前の側にいたいと思っちまったから‥‥。俺はお前といないほうがいい。自分でもまさかと思ってた。けど、母さんの言ってた事は本当だったんだ。俺は疫病神で、人を不幸にしかできねぇんだよ‥‥」

三蔵の顔を見ないように、声だけを必死で絞りだす。もう、いいだろ?こんな事終わりにしたいんだよ、俺は。そう続けようとして、悟浄は三蔵から伝わる気配が変化した事に気が付いた。

「‥‥‥‥言いたい事は、それだけか?」

いつもより更に低い声に、びくりと悟浄は身を竦ませた。視線を戻すと、目の前の紫の瞳に、今まで感じた事の無い怒りが宿っている。抵抗も忘れ、悟浄は三蔵の迫力に言葉すら出せない状態だった。がたがたと、いつの間にか身体が震えている。
これは―――恐怖だ。

「黙って聞いてりゃ、アホくせぇ事をべらべらと‥‥」
「さ‥‥んぞ‥‥?」

悟浄は気付いてはいなかったが、三蔵は悟浄に腹を立てていたのでは無かった。悟浄にその考えを植えつけた理不尽な過去に、真っ底から怒りを覚えていた。そして、それを今までどうにもしてやれなかった力の無い自分にも。
目の前で自分に怯える悟浄に気付き、ふ、と肩の力を抜く。怒りをぶつけて上辺だけ従わせても意味が無い。それに、そんな大人しいタマではないのだ、こいつは。
 

 

「空港にニィがいたのを、覚えてるか?」

突然、話題が変わった事に、悟浄は正直ほっとした。
空港での出来事は記憶が曖昧で、大半は夢の中のように茫洋としていたが、それでも、自分が何を決意したのか、誰がそこにいたのかはおぼろげながらも覚えていたので、小さく頷く。

「奴から預かったものがある。それは後で渡すが‥‥伝言を頼まれた」

正確には頼まれてはいないし、真偽ですら不確かなものではあったが、三蔵は伝えなくてはならないと感じていた。本当は、もっと悟浄の具合が落ち着いてからにしようと考えていたのだが。

「お前の母親が死ぬ間際に残した言葉だ。――――『ごめんね』と言っていたそうだ」

悟浄の瞳が僅かに見開かれる。何がしかの感情がその美しい紅い瞳に流れて消えていくのを、三蔵はただ静かに見守った。

しばらくの沈黙の後、悟浄は落ち着いた声を三蔵に返した。

「意味あんの、それに。‥‥‥そんなの、誰に対して謝っていたのかなんて分かんねぇだろ」

悟浄が何を考えているのが分かる。一番可能性のあるのは、彼女が溺愛していた兄へというところだと言いたいのだ。そんな事、確かめようがないじゃないかと。

「そうだな。だがそれなら」

三蔵はなるべくゆっくりと言葉を進めた。悟浄に、届くようにと。

「お前に対して謝っていたのではないと、どうして言い切れる?」
 

「!それは―――。けど、どっちにしたって、そんな不確かな事信じられるわけないし――」

完全に不意打ちだったのだろう。自分の予想だにしなかった事を問われ、悟浄は狼狽し、口篭った。
ここからが勝負だ、と三蔵は腹に力を入れる。いつかのように、言い負かされるわけにはいかない。あの時、結果的に悟浄の言葉で自分が力を得たように、今度は自分が悟浄に力を与える番なのだ。

「じゃあ何故、お前は母親の言葉を信じてるんだ?お前が誰かを求めたらその相手が不幸になるなんて、それこそ不確かな事じゃねぇのか?」
「けど!お前は実際死にかけたじゃねーか!」
「死んでねぇだろうが!」
「運が良かっただけだろ!」

「いいから聞け!俺は生きて此処にいる!生きてお前の側にいる!これが現実だ!何故目の前の俺の言葉より、もういない母親の言葉を信じるんだ!?俺を信じろ悟浄!今、此処にいる俺を信じろ!」
 

反論しようと開きかけた悟浄の口からは、なんの言葉も出ては来なかった。怒鳴りあった後の荒い息だけが、部屋を埋め尽くす音となる。目の前には、三蔵がいる。強い光を宿した、何よりも求めた紫の瞳が真っ直ぐに悟浄に向けられている。
悟浄には言葉を発する事も、動く事も、目を逸らす事すら出来なかった。ただ、三蔵の言葉だけが、頭の中で何度もリフレインされる。
悟浄が動けないでいると、急に三蔵がベッドから降り、気配が遠ざかった。
逃げるなら今だと思うのに、身体が上手く動かない。相変わらず頭の中は三蔵の言葉で一杯だ。荒い呼吸が、いつまでも静まらない。

『俺を信じろ』
三蔵を‥‥信じる?

『現実だ』
現実。
三蔵が此処にいる事。そして、母さんがもう何処にもいない事。
これ以上憎まれる事も、もしかしたら愛してくれる事も、どんなに望んでもそんな時は永遠に訪れないという事。
母さんは、いない。もう、何処にもいない。
此処にいるのは、三蔵。俺の側にいるのは――――三蔵。
そして俺も、あいつと共に生きたいと願った。
それが―――現実だ。
 

―――三蔵。
 

信じて‥‥いいのだろうか。こんな俺でも、お前の側に在っても良いと。
 

だけど――――――。
 

 

 

 

べしっ
 

 

思考の淵に沈んでいた悟浄の顔に、何かが叩きつけられるように落とされた。

「てっ!」

反射的に顔の上の物を振り払うと、ガサリと強張った手触り。と同時に頭上からは不機嫌な声。

「ったく妙なモン買わせるんじゃねーぞ。俺がどのくらい恥掻いたと思ってやがる」
「‥‥‥?」

手にしたものを見てみれば、その物体は派手派手しいパッケージのビーフジャーキー。筋肉隆々のマッチョな男性に、グラマラスな美女二人がやや卑猥とも取れるポーズで絡みつき笑顔を向けている写真が張り付いている。全員身につけているのはやはり星条旗柄のビキニなのは、製造者のこだわりなのだろうか。何にせよ、趣味はあまりよろしくない。
多少デザインの違いがあるものの、それは紛れも無く三蔵のロス行きを告げられた時に、土産として悟浄が強請った物だった。

「これ―――お前‥‥」

絶対、三蔵は買ってこないと思っていた。プライドの高い三蔵が、こんな恥ずかしいもの探す筈が無いと。悟浄にしても、別にそれがどうしても欲しかったという訳ではない。ただ、空港で少しぐらいは思い出して、困った顔をするのではないかと思って。ちょっとした悪戯心で。本当に、それだけの筈だったのに。

「どうせ買ってこねぇと思ってたんだろうがな。ふん、舐めんじゃねぇぞ、誰がテメェの思い通りに行動してやるか」

唖然とした表情の悟浄に、勝ち誇ったような三蔵の台詞が降って来る。悟浄は一瞬、今まで自分たちが何を話していたのか忘れそうになった。

「パッケージのデザインは変わってやがるし、結局ロス空港では取り扱い停止になってるしで、散々な目にあった。一旦外に出て探したおかげで、一便乗り遅れちまったじゃねーか。それでも搭乗時間ギリギリで空港を走る羽目になったんだ、どうしてくれる」

思わず見上げた三蔵の顔は、話の内容に反して真剣だった。吐き捨てるような口調はいつもの事だが、その目に宿るのは、怒りではなく。不思議と三蔵を取り巻く空気が柔らかく感じるのは、気のせいだろうか。

「‥‥‥‥けどな、そのおかげで助かった。お前がこれを欲しがらなければ、俺は死んでいた。俺が今、こうして生きてるのは、お前のおかげだ」

天井の明かりが眩しくて、悟浄の視界がぼやけてくる。

「助かったのは運なんかじゃねぇ。お前は疫病神なんかじゃねぇ」

三蔵の顔が滲んでくるのは、この強すぎる逆光のせいだ。眩しすぎるから、全てが滲んで、霞んで見える。それだけのことなのに、どうして胸がこんなに締め付けられるんだろう。

「悟浄」

額が触れんばかりに顔を寄せて、三蔵は悟浄の名を呼んだ。悟浄は瞬きも忘れたように、動かない。
 

「お前が、俺を救ったんだ」
 

ようやく悟浄は、一度だけ、瞬いた。
目尻から、堪え切れなくなった涙が一筋、零れ落ちた。
 

 

 

 

あんなに大切だった義母が死んだ時でさえ出なかった涙が、今は後から後から溢れてくる。
三蔵は、ただ黙って悟浄を抱きしめていた。時折、背中をさする手が何よりも温かいと悟浄は感じる。
恐らく、今自分はとんでもない顔をしているだろう。涙と鼻水でぐちゃぐちゃな顔を三蔵に晒したのかと思うと、恥ずかしさで顔が上げられない。それは同時に、自分が余裕を取り戻しつつあるという証拠でもあって。涙と共に、自分の心に沈んでいた澱が流れて行ったからなのかもしれないと悟浄は感じていた。それを手伝ってくれたのは、今自分を抱きしめている金色の光を纏う人。
やはり恥ずかしくて、ずずずっと思い切り鼻を啜り上げると、にへらっと笑って見せる。

「あー、悪ぃ。みっともねぇなぁ俺。もう、一生分泣いちゃったぜ〜」
「謝んな」

照れ隠しに軽い調子で口を開けば、まだ残る涙の痕を唇で拭われて。悟浄の身体の奥に、何かが灯る。

「お前、熱いぞ。また熱がぶり返したんじゃねーか?薬飲んどけ。大人しく寝てろ」

医者に言われた「安静」の言葉を今更思い出したらしい三蔵は、ベッドから降りようと悟浄から身体を離した。だが、何かに服が引っかかったような感触に振り返る。
見れば、悟浄が三蔵のシャツの裾を掴んでいた。

「シよ」

シャツをくいくいと引っ張ってくる悟浄に、三蔵は眩暈を覚える。この際、一発殴って強引に眠らせてやろうか、と不穏な事を考えていると、更に三蔵の神経を逆撫でするような悟浄の一言。

「お前、我慢できんの?」
「――――馬鹿にすんな」

ここで無理をさせるために、今まで耐えてきたわけじゃない。低く紡がれた三蔵の言葉に含まれたものを察したのか、悟浄は申し訳無さそうな、困ったような笑みを零した。

「ワリ。怒んなよ‥‥‥そじゃなくて‥‥」

身体を伸ばして、三蔵の唇に自らのそれを押し付ける。熱のせいか、唇も熱い。軽く触れ合わせたまま、目も閉じず三蔵の瞳を見つめて――――悟浄はそのまま唇を動かした。

「俺の方が、我慢できねぇ‥‥‥」

 

気が付けば三蔵は、悟浄を組み敷いてその唇を貪っていた。
 

 

 

 

「ん‥‥ん‥‥」
「何、声我慢してんだ」

時折漏れる声を必死に押し殺そうとシーツを噛む悟浄に、呆れたような三蔵の声。既にお互い身に纏うものは何も無く、自身への直接的な愛撫によって悟浄は一度、自身を解放していた。
今は三蔵を受け入れるために、後ろを解されている途中で。本当は快感に流されて、喚き散らせれば楽だと思うが、悟浄は必死に意識を保とうと努力中だった。少しでも油断すると何がどうなっているのか分からなくなるぐらいに、体中が熱い。以前自分の部屋で感じた予感は間違っていないと確信する。怖いぐらいの、快感。三蔵に触れられていると思うだけで、イキそうだ。

「けど、さっき隣でナンか、音、した‥‥‥」

本当に気になるのは、物音よりも三蔵の反応。快楽に慣れた自分の姿に、三蔵がひいてしまうのではないかと、少しばかりの不安がある。なるべくなら、過去に繋がる自分の姿は見せたくは無い。これを口にしたら、また『信じてねぇのか』と怒られるのは分かっているけれど。
ささやかな意地を張りたくなってしまうのは、性格だろう。三蔵の思うように乱れるのが悔しいと思う気持ちも確かにある。

「心配すんな、ここのフロアは全部俺の部屋だ。てめぇの部屋じゃねぇんだ、聞き耳立てる会社員なんか隣に住んでねぇよ」

そんな悟浄の葛藤を知ってか知らずか、三蔵は実に冷静な返事を返してくれる。胸の内を悟られなかった事に悟浄は安堵した。つい口が軽くなる。

「‥‥成金‥‥」
「何か言ったか?」
「いんや‥‥‥うあ!?ちょっ、おまっ、急に、あ、‥‥‥っあ!」

憎まれ口への意趣返しか、突然三蔵が進入してきた。今までとは比べ物にならないほどの質量に、激しい痛みが悟浄を襲う。久し振りに誰かを受け入れるそこは、ぎちぎちと堅く三蔵を締め付け、三蔵の額にも汗が滲んだ。

「力‥‥抜け‥‥」
「んな事、言ったって‥‥」

しばらくの格闘の末、ようやく全てを収めきったと悟浄が大きく安堵の息を吐いたその耳元で、三蔵の熱い囁きが落ちた。

「悪ぃが‥‥我慢できそうにねぇ」

間抜けにも、何を?と問い返そうとした悟浄の口が「な」の形に開きかけ、それはそのまま悲鳴のように喉から迸った。三蔵が、動き始めたのだ。

「な‥‥あああっ!」

反射的にずり上がるように逃げを打つ悟浄だが、三蔵がしっかりと腰を掴んでいて叶わない。内壁を擦られ、抉られ、揺さぶられ、気が付けば悟浄は三蔵に縋りついていた。それでも声を抑えようと、目の前の肩に歯を立てる。だが、叩きつけるように与えられる刺激が、やがて痛みから他の感覚に変わると、悟浄はもう声を抑える事が出来なくなっていた。

「ああ‥‥あ‥‥ん、あっ」

艶やかに漏れる嬌声に煽られ、三蔵の動きも更に激しく深い物になっていく。挿入の痛みに萎えていた悟浄自身も、腹で挟むように擦られ強度を取り戻し、はちきれんばかりに成長していた。
共に限界が近いのを感じ取ると、示し合わせたように互いの唇を求め、深く合わせた。

奪い尽くすような激しい口付けの中で、二人は同時に絶頂を迎えた。
 

 

まだ、足りねぇ‥‥。

自分の腕の中には、既にぐったりとした悟浄の姿。紅い髪が、白いシーツに散らばっているだけでも自分の情欲は掻き立てられてしまう。だが、これ以上は、悟浄の身体に障る――――。三蔵はため息を吐くと、無理やり悟浄から自分の身体を引き剥がそうと動いた。

「どこ、行くの?」

見れば、気を失っているのかと思った悟浄の穏やかな顔が、自分を見つめている。三蔵が返事に困っていると、悟浄はくすくすと笑った。

「足りないって、顔に書いてあるぜ?」
「‥煩ぇ」

仕方ねぇ奴〜。歌うように悟浄は呟くと、三蔵を抱きしめた。それが自分と悟浄の余裕の差を思い知らされるようで、三蔵には面白くない。離せ、と言おうとした三蔵より早く言葉を発したのは悟浄の方だった。

「ごめんな」
「‥‥‥何で、謝る」
「我慢、覚えさせちゃったな」
「‥‥‥」
「もういいから。我慢しなくてもいいから。‥‥長い間、待っててくれてサンキュな」

悟浄に適わないと思うのは、こんな時だ。持って生まれた器量の大きさ、というのだろうか、懐の深さというものを思い知らされる時がある。
悔しさも手伝って、三蔵は意地の悪い笑みを浮かべた。

「そうか‥‥我慢しなくてもいいか」
「え?」
「男に二言は無ぇよな」
「あ、あの‥‥」
「じゃあ、遠慮なく頂くとするか」
「ま、待て〜!」
「誰が待つか。ボケ」

楽しそうな三蔵に肌を弄られ、悟浄は再び乱れる自分を覚悟し、大人しく目の前の首に腕を回した。
 

誰でも同じだと思ったのは何故だったのだろう。
全然違っていた。
三蔵だけだ、自分をこんな気持ちにしてくれるのは。

長い時間がかかったけれど、心の奥まで温かなものに抱きしめてもらえる喜びを、ようやく悟浄は知った。
 

 

 

 

 

今度こそ、意識を飛ばしてしまった悟浄の髪を、三蔵は掬うように梳く。いつもより赤味がさした顔に、無理をさせてしまったという気がしないでもないが、ようやく手に入れたという充足感が三蔵を満たしていた。自分が優しい目で悟浄を見下ろしている事に、三蔵自身は気が付いてはいなかったが。
もう一度悟浄の紅い髪を撫でると、三蔵はローブをはおり、部屋を出た。
 

 

「よお。おめっとさん」

リビングのソファーで、手にしたグラスを三蔵に掲げながら笑うのは、「観世音グループ」会長である三蔵の叔母。彼女は三蔵が悟浄を部屋に連れ帰ったという知らせを聞くや否や、『俺にも会わせろ』と押しかけてきたのだった。
結局は会うタイミングを逃し、此処で一人祝宴と洒落込んでいたのだが。
三蔵は不機嫌な顔も露に、どかりと叔母の隣に腰を下ろした。

「病人相手に無理はよくないぜ、無理は」
「るせぇ。気ィ利かせて出て行くぐらいしやがれ」

悟浄が気にした物音の犯人に、じろりと鋭い一瞥をくれる。

「可愛い甥の筆おろしがちゃんと成功するかどうか気になるじゃねぇか」
「‥‥殺す」
「まあ、飲め飲め」

用意周到に置かれてあったもう一つのグラスを三蔵の手に押し付けて、年代物のワインを惜しげもなく注ぐ。三蔵がそれを一口含むのを見届け、味に不満が無いことを確認してから叔母は自分のグラスをゆっくりと回した。
果実を思わせる芳香が、部屋に広がる。ゆったりとソファに身を預けながら、世間話をするように叔母は話した。

「大変なのは、これからだぜ?」
「上手くやるさ‥‥誰からも文句言われねぇようにな」

甥の返答に、満足げに頷いた彼女だったが、すっと手を伸ばすと卓上のリモコンを取り上げた。三蔵は訝しげな視線を彼女に向ける。

「勿論、仕事もだがな‥‥ほれ、見てみな」

大型のテレビに映し出されたのは、ニュースの録画。叔母の説明では、夕方に放送されたものらしい。
そこには、素人のビデオカメラに収められていた今日の空港での一部始終が映し出されていた。だが、写っているのは悟浄だけ。他の人物―――三蔵やニィ、悟浄と接触した警備員、果ては周りを取り巻くギャラリーまでも、すべてモザイクがかかり、人物が特定できないようにされてあった。

「お前の顔を出さなければ問題ないと思ったらしい。一人だけ隠すのは不自然だし、ならいっそ全員を、って事だろうよ」
「‥‥‥‥‥」

ビデオは悟浄のアップで静止し、それを背景にスタジオではコメンテーターと呼ばれる連中が好き勝手な意見を述べている。空港の警備員の過剰反応が云々とか、いや空港側の話ではこの紅い目の彼が挙動不審だったせいだから無理ないのではとか。いつになったら伝染病の原因が特定できるんだとか、それは今言っても仕方ないだろうとか。
収拾がつかなくなったスタジオを一旦離れ、今度は空港でのギャラリーへのインタビューへと画面が変わる。今度は、顔は隠してはいない。最初は、若い女性。そして次は、これは三蔵たちは知らない事だが、悟浄に飛行機事故を告げたあの係員へのインタビューだった。

『びっくりしたけど、でも変だと思ったの。私、結構近くにいたんだけど、すごく綺麗な紅い色で、病気のとは違ってたから‥‥。逃げたりして、悪い事しちゃったなぁ』

『ええ、僕話しましたよ。挙動不審?いいえ、そんな事はなかったですよ。多分、事故のショックで混乱してたんじゃないですか。昨日あったでしょ、ロスの。知らなかったみたいで、呆然としてました。よっぽど大事な人が乗ってたんでしょうね。気になってたけど、僕も仕事があって追いかけられなくて‥‥』

その後インタビューからスタジオへと再び画面が変わり、話題が人権問題にまで発展しそうなところで、叔母はリモコンのスイッチを切った。

「なまじイイ男だったのが災いしたな。うちにも奴の身元の問い合わせが入ってきてる。雑誌社、新聞社、テレビ局―――果てはどこぞのモデルクラブまで興味を示してるらしい。マスコミが詰め掛けるぜ?奴の元に。過去をつつかれるかもしれん‥‥‥‥手配するか?」

報道がなければ、この喧騒は一過性のものですぐに終わる。人々もすぐに忘れ去る事だろう。メディア各社に一言言えば、それがたやすく実現するだけの力がこの二人にはある。

だが、三蔵は首を横に振った。
「いや‥‥‥‥」

「守らなくていいのか?」

驚いたように、叔母は三蔵に目を向けた。
この国では、どんな事件でもまず被害者がマスコミの関心を集める。事件とは何の関係も無い交友、職業、異性関係―――。出生まで遡って丸裸にしても『知る権利』の一言で許される国なのだ。それを黙って見逃すと言うのだろうか。実際、メディア操作が出来るだけの力を持っているにも関わらず。
三蔵が悟浄をどれだけ想っているかを常に目の当たりにしてきた叔母に、三蔵の返答が意外なものとしてうつるのも無理はない。
三蔵はうろたえる事も無く、静かにワインを飲み干した。

「闘うのは奴自身だ。奴だって守って貰いたいとは思わねぇだろうよ。だが――――」

言葉を切った三蔵の横顔に、彼女は視線だけで続きを促す。

「支えるさ」

微笑さえ浮かべて、だがきっぱりと告げる三蔵の目には強い決意があった。そして、自信。何があっても大切なものを手放さないという、確固たる信念にも似た、強い自信。
 

「‥‥そうか」

そうか。ともう一度叔母は心で呟いた。いつの間にか強く逞しくなっていた、血の繋がらない、大切な甥。

――――この強さを、奴がこいつに与えてくれた。

叔母は口元をほころばせ、空いた三蔵のグラスに酒を注ぎ足す。そのまま手酌で自分のグラスにも、と動いた手から、三蔵はボトルを取り上げた。黙って叔母のグラスに酒を注ぐ。
彼女は正直驚いた。一緒に飲む事は初めてではなかったが、三蔵から酒を注がれたのは初めてだった。

「いろいろ‥‥世話かけた」

不器用な甥の最大級の謝辞。
それに気付いた彼女は、もう一度グラスを掲げた。菩薩のようだと謳われる、柔らかい笑みを浮かべて。

「お前らの人生を変えた――――運命の『見合い』に」

黙って三蔵は自らのグラスを合わせた。澄んだ音が深夜の静けさを纏う部屋に、軽やかに響く。
 

まるで新しい始まりを祝福する、鐘の音のように。
 

 

「続・お見合いに行こう!」完

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