お見合いに行こう!(Vol.12)

気が付けば、水道の水の流れる音だけが、狭い部屋に響いている。
悟浄は手を止めていた。

ただじっと、三蔵の反応を待っていた。
 

三蔵への甘えを自覚したあの日から、既に何度かの時を共に過ごした。
その度に言おうとして、言えずにいた言葉。
口を開こうとする度に、義母の声が聞こえる気がした。今も、また。―――それでも。

今言わなければ。そう、思った。
 

誰かを誘うのに、こんなに緊張した事はかつて無い。初めて女を口説いた時ですら、悟浄にとっては日常の延長線でしかなかった。
人が食事をとるように、また睡眠をとるように、自分は他人の体温をとるだけの事。ある時は成り行きで、ある時はビジネスで。―――またある時は入院中の義母のために。
誰かと身体を繋げる事に意味なんて無い。少なくとも、今まではそうだった。

何気ない風を装って、延々と洗い物をする振りをしていた悟浄だったが、それこそ持てる全てのエネルギーを結集させて、その言葉を口にした。

 

自分の言葉に、三蔵の動きが止まる。
背中に視線を感じて、悟浄は逃げ出したくなるのを必死で抑えた。もう、逃げない。そう自分に誓ったはずだから。

(ちゃんと、意味‥‥通じた、よな?)

上手く声は出せていただろうか。震えてはいなかっただろうか。
流れる水道の音で誤魔化してはみたものの、自分でも声が上擦っていたように思う。
針の落ちた音でも聞こえそうな、張り詰めた空気。背後の三蔵の気配に全神経が集中している。
だが、三蔵が動く気配が無い。

(や、やっぱ、唐突だったか‥‥?)

タイミングを誤ったのか。そう言えば三蔵は今まで寝てたし、よく聞こえなかったのかもしれないし。まさか返事に困ってたりしては‥‥――!!
 

ぐるぐると思考を巡らせていると、不意に背後の気配が動いて、悟浄の心臓は跳ね上がった。
ゆっくりと、近付いてくる。――――三蔵が、近付いてくる。

(うわ、うわ、うわ‥‥‥‥!)

心臓が、バクバクと煩い。
真後ろに、三蔵が立つ。悟浄の身体の横から、三蔵の手が前方に伸ばされる。悟浄はぴくりとも動けなかった。全身が心臓になったのではないかと思うぐらい、どこもかしこも脈打っている。自分の心臓の音で、周りの音が聞こえない。
 

三蔵の伸ばされた手が―――流しっぱなしだった水道をきゅ、と止めた。

(―――な、なんだ‥‥‥‥ビックリした‥‥‥‥)

ほ、と思わず悟浄が安堵の息をついた―――のもつかの間。
返す手で、そのまま後ろから、抱きしめられた。
 

―――――心臓が止まるかと、思った。
 

 

 

 

 

どのくらい、そうしていたのだろう。しばらく、二人とも動かなかった。
 

不思議と落ち着いてくる自分に悟浄は驚いていた。さっきまで血管が張り裂けんばかりだった鼓動が、徐々におさまってくる。

恐らくは、この温かさのせい。三蔵の温もりの、せい。
 

「悟浄」
 

悟浄の首筋に顔を埋めたまま、三蔵は低くその名を呼んだ。様々な、想いを込めて。
耳からは三蔵の声が。肌からは三蔵の唇の動きが。それぞれに三蔵の想いを直に悟浄に伝えてくれる。

一瞬、悟浄は身体を震わせると―――やがて静かに自分に回された三蔵の腕を外し、身体の向きを変えた。正面から紫と紅の視線が絡み、互いの強い意思を逸らすことなく受け止める。

二人とも、何も言わないまま。
弾かれたように、どちらからともなく口付けた。

 

 

やっと、触れられた。
三蔵は今まで押さえてきた想いをぶつける様に、口付けを深くしていく。

「んっ‥‥ふ‥‥」

激しい口付けの合間、酸素を求めて悟浄が喘ぐ。それすらも逃したくはなくて、三蔵は追い詰めるように口を塞ぎ舌を絡めた。
何度も何度も、角度を変えて与えられるそれに、悟浄の膝が力を失う。崩れ落ちそうになる悟浄の体をシンクに押し付け、容赦なく貪った。

もう、待てない。もう、逃がさない。

完全に脱力し、三蔵に縋りつくように身体を支える悟浄の姿は、三蔵の情欲に火を灯すには十分だった。時折わざと音を立てながら、耳へ、首へと唇を這わせ、きつく吸い上げる。舌先だけでゆっくりと顎のラインをなぞれば、それだけで震える敏感な身体がいとおしい。
シャツのボタンを外し、首筋から露になった胸の突起まで、ゆっくりと唇を滑らせると、三蔵の頭をかき抱くように悟浄が腕を回した。

「あぁ‥‥んっ」

舌で転がすように愛撫すれば、耳に流れ込んでくる悟浄の嬌声。もっと聞きたくて、執拗に責め立てる。思わず漏らした自分の声が恥ずかしかったのか、悟浄は三蔵に回していた腕を離し、片手で自らの口を押さえた―――――と、そこまではまだ許せたのだが、何を思ったのか突然もう片方の手で三蔵を引き剥がそうとぐいぐいと肩を押し始めた。
何事かと、三蔵は顔を上げる。

「ちょ、ちょっと、待って!」
「ぁあ?」

行為を中断された三蔵は、これ以上の不機嫌はないだろうという凶悪なオーラを醸し出している。だが、悟浄は怯まなかった。

「いや、あのさ、俺、『今度来た時は』って言ったんだけど!?」
「‥‥‥今更、何言ってやがる。テメェだって乗り気だったじゃねーか」

そう言い捨て、もう一度悟浄を引き寄せようとするが、悟浄はその腕を振り払った。

「だから、次まで待てって!」
「次も今も似たようなもんだ、気にするな」

何を往生際の悪い事を、と全く意に介す風でもなく、三蔵は強引に悟浄を腕の中に収める。既に半分脱いだ状態になっているシャツを引き剥がそうと、手を進めた。

「いや、気にするし!だ、だから、待て待て待て〜!!お前、今から帰るんだろ?飛行機、間に合わなくなっちまうぞ!?」
「生憎だが、今日中に戻れば問題ねぇ。最終の便まで時間はたっぷりある」
「え?嘘!?んじゃ、今のタンマ!」
「残念だったな、今更取り消しはきかん。―――覚悟決めろ」

そんな事言われても、と悟浄は焦った。
このまま抱かれても構わない。本当は、ついさっきまではそう思っていた。だが今、ほんの少し、三蔵に触れられて――――――。

「だから、よせって!ちょっと、待てっつーのお前!」
「もう、散々待った。もう待つつもりはねぇ」

うっ。

痛いところを突かれ、悟浄は口篭る。唸りながらも幾分トーンを落とし、俯き加減でぽつぽつと、それでも何とか声を出した。

「そ、それはそーだろーけど‥‥‥‥ああもう!」
「?」
「あのさ、隣、リーマンなんだよ。今日日曜だからさ‥‥昼間いる、と思う‥‥」
「‥‥‥‥」

悟浄はふうとため息をつくと、長い前髪をかき上げた。どうやら下手な誤魔化しはききそうにない。情けないが、本当の事を告げて納得して貰うしかないだろう、と判断する。

「何か、訳わかんなくなりそうな気ィする‥‥んだわ、俺」
「‥‥‥‥」

ほんの少し触れられただけだというのに、怖いくらいに感じた。あられもない声を上げてしまった。こんな事は初めてで、悟浄自身戸惑っているのも事実だが。
これ以上何かされたら、恐らくとんでない醜態を晒してしまう気がする。それは有体に言えば、我を忘れて乱れそうだという予感だった。―――自分でも、信じられない。

「ここ、壁薄いし‥‥‥。お前相手に‥‥‥声殺す自信ねぇ、から」
「!‥‥‥‥」
「だから、やっぱ日を改めて‥‥ってオイ!だから待てってば!」

再びシンクに強く押し付けられ、悟浄は抗議の声を上げた。何で今ので分かってくれねぇんだよ!?と目に疑問が溢れている。

「喧しい!」

分かってないのはお前のほうだっ!と三蔵は頭を抱えたくなった。

今は辛うじて節々に引っかかっているシャツが、悟浄の引き締まった身体を申し訳程度に覆い、三蔵の目にはなまじ全部脱いでいるより余程扇情的に写っている。時折見え隠れする胸の突起は先程までの愛撫で赤く熟れ、唇は口付けの名残か艶やかに濡れそぼり、僅かに潤んだ紅い瞳はいつにも増してきらきらと光を反射している。
そこへきて、『お前相手では声が殺せない』とくれば、誰が聞いても誘っているとしか思えないだろう。

止めるどころか、手加減すら出来そうになかった。

「だから、隣が―――」

じたばたと暴れる身体を抱き込むように押さえ付ける。いい加減、諦めが悪い。

「旅の恥は掻き捨て、だろうが。せいぜい盛大に喘いどけ」
「旅の‥って、お前はそりゃいいだろーけどよ!俺は」

ここに住んでるんだ!と尚も言い募ろうとする悟浄の煩い口を強引に塞ぐ。柔らかい舌を思う存分味わっているうちに、もがいていた悟浄の腕から力が抜けた。長い口付けから解放してやると、更に潤んだ瞳が三蔵を見詰めていて、堪らない気持ちにさせられる。三蔵は悟浄の耳元に、唇を寄せた。

「お前も、来い」

抱きしめていなければ気付かなかっただろう。悟浄の身体が僅かに緊張した。

「すぐにとは言わん。お前の決心が付いたら戻って来い、東京に。ここじゃ会えねぇ時間が長すぎる」
「‥‥三蔵」

自分より幾分背の高い身体を包み込むように、三蔵は悟浄を抱きしめた。今度は悟浄に抵抗する様子は見られない。しばらくすると、おずおずとながら三蔵の背に腕を回して身体を預けてきた。

―――よし。落ちた、な。

申し出に否を唱えられなかった事に内心ほっとしていた三蔵の肩口に、熱い悟浄の吐息が感じられて心地よい。ふと、悟浄が小さく三蔵の名を呼んだ。

「何だ」

それきり、落ちる沈黙。
だが三蔵は悟浄の言葉を急かせる事はしなかった。悟浄の顔は三蔵の肩に押し付けられているために表情は伺えない。だが、何か大事な事を言おうとしているのは雰囲気で分かった。

あの後さ、と悟浄は小さく切り出した。

「母さんの写真、捨てようと思って。‥‥‥‥でも、駄目だった」

今も、きちんとあつらえた小さな台から微笑んでいる悟浄の義母。手を伸ばす子供を愛し切れなかった、哀れな女性。悟浄の全てだった、大切な、女性。

『あの』時がいつの事かは、三蔵には正確には分からない。だが悟浄がどんな想いでそれを実行しようとしたのか痛いほどに伝わってきた。

どうして何も変わっていないと思ったのだろう。
こんなにも、変わっていたのに。悟浄は必死で、変わろうとしてくれていたのに。

「あの人はずっと俺の‥‥俺の、母さんなんだ。たった一人の」
「‥‥ああ」

「けど、それでも‥‥俺は、これから前向いて、歩き出してぇって、思うから‥‥。その、お前とさ、歩きてーなーって、‥‥あ、えーと、どう言えばいいのか‥‥よく分かんねーけど。だから、あの、つまり‥‥‥」

「悟浄―――」

それは三蔵が初めて聞く、悟浄の本当の声だった。
何も飾らず、何も隠さず。皮肉気な笑みに遮られる事無く、歪めた口元に飲み込まれる事も無く。そのたどたどしい言葉がただ真っ直ぐに、三蔵の心に届いて積もってゆく。白い雪にも似た、悟浄の真実。

僅かに赤くなった顔でもごもごと呟いていたが、急に照れ臭くなったのか、悟浄はわざとらしい音を立てて三蔵の頬に短いキスをくれ、何かを吹っ切ったようにニカッと笑った。どうやら、言葉にするのが面倒になったらしい。

「という訳で―――OK?」

いつものように、笑って。だが、その顔には曇りが無い。三蔵がずっと、ずっと前から見たかった、無理の無い笑顔がそこにあった。

「‥‥OK」

もどかしい言葉は、もう要らない。
 

 

 

 

三蔵に抱きしめられながら、悟浄は少し前の出来事を思い出していた。一年半ぶりに再会した、あの夜のこと。

『大丈夫だ』

あの時、お前はそう言った。分かってたんだな、お前は。俺が隠そうとしてた事。俺が何から逃げようとしていたかって事も。ずっと前から、全部分かってくれてたんだな。
その通りだった。大丈夫なんだ。俺はちゃんと歩いていける。
お前となら、きっと。

「‥‥‥三蔵」

胸に膨らむ想いを言葉にしたら、お前の名前になった。ゆっくりと、お前の顔が近付いて―――。
 

 

 

ピピピピピ ピピピピピ
 

 

不意に部屋に響き渡る、軽やかな電子音。
 

 

「‥‥‥‥」
「‥‥‥‥」
 

 

ピピピピピ ピピピピピ
 

 

「おーい、三ちゃん。携帯鳴ってるよー」
「‥‥‥‥」
 

 

ピピピピピ ピピピピピ
 

「おーい」
「‥‥‥‥」
 

 

この音は、以前にも聞いたことがあった。
普段は会社には連絡してこないよう、言い含めているのだろうが、それでも時々緊急の連絡が入るのは三蔵の立場上、仕方の無いことだ。だが、短い電子音を連続させたその着信音は、いつものそれとは違い滅多に流れる事は無い。現に、悟浄が耳にするのは今回で二回目だが、前にその連絡を受けた三蔵が、取るものも取り敢えずといった風体で慌しく東京へ帰っていった事を覚えている。

どう考えても、とんでもなく緊急の用件専用だ。

 

「〜〜〜〜〜〜っ」

思いきり渋々と、苦虫も100匹や200匹を噛み潰しても足らないような忌々しい表情を隠そうとせず、三蔵は悟浄から自分の身体を引き剥がした。
キッチンから出る足取りや上着から携帯を取り出す手付きに怒りが伺える。そのままの勢いで、電話に怒鳴りつける。

「何だ!」

さぞや向こうの奴は、ビビっている事だろう。悟浄は顔も知らない電話相手に、同情を禁じ得なかった。

「‥‥‥‥ぁあ!?何だと!?それは来週だっただろうが!?‥‥チッ‥‥わかった、すぐに戻る。ああ、あっちの会長にはそう伝えておけ、ああ、そうだ、任せる。後は戻ってからだ、切るぞ!」

腹立ち紛れに、自分の言葉が終わると共に電話を切った三蔵の目に飛び込んできたのは、ニヤニヤと笑う悟浄の顔。いつの間にか三蔵の近くにまで寄ってきていた悟浄は、テーブルで頬杖を付き、三蔵の電話の様子を伺っていた。
僅かに小首を傾げるその姿は、こんな時で無ければ先程の続きを、と三蔵に思わせるものだったが、当の悟浄は三蔵の災難が面白くて仕方ないらしく、実に楽しそうに笑っている。

「ご愁傷様、お仕事頑張れよ〜」
「‥‥‥テメェ」

思い切り睨み付けると、悟浄は大げさに肩を竦めて見せた。そんで何?と視線で問いかけてくる。

「‥‥‥急いでロスに行くことになった。1週間ほど戻らねぇ‥‥‥予定では来週だったんだがな。ま、仕方ねぇ。行って来るさ」

ふーん。興味があるのか無いのか、悟浄はどうでもいいような返事を返したが、急にがばっと身を乗り出して三蔵に顔を近付けてきた。悪戯を思いついた、悪ガキそのものの表情で。
いや〜な予感が、三蔵を襲う。

「んじゃ、土産買ってきてくれよ」
「遊びに行くんじゃねぇよ」

妙に楽しそうな悟浄の表情が、かえって不気味だ。三蔵は言下に切り捨てた。

「んな事言わずにさ〜。ベタだけど、ビーフジャーキーな。けど、どれでもいいって訳じゃないのよ、これが。ロス空港にしか売ってないっつー、幻の一品。名前忘れたけど、星条旗柄のマイクロビキニのねーちゃんが大股開きのきわどいポーズで笑ってるっつー趣味の悪いパッケージでさぁ。合成着色料と添加物ガンガン使ってあるヤツ。前に土産で貰って、美味かったんだよねぇ。多分目立つトコには置いてないと思うからさ、ちゃんと店員に聞いて探せよ?‥‥あ、心配すんな、三蔵にも食わせてやっから」

「いらねぇよ!大体、んな妙なもん誰が買うか、誰が!」

嫌がらせだ。この野郎、絶対に嫌がらせだ。
調子に乗りやがって。帰ったら絶対に泣かせてやる!もう勘弁しねぇ。泣こうが喚こうが、絶対に止めてやらんからな!
この仕事が終わってからの悟浄の扱いを一通り思い描くと、相変わらず嫌な笑いを浮かべる悟浄の頭をぶん殴って憂さを晴らした。

んだよ、ケチ〜。頭をさすりながらぶつぶつ呻く悟浄を引き寄せる。軽く唇を触れ合わせ、三蔵はさっきとはうって変わった真剣な声音で囁きを落とした。

「戻ってきたら、しばらくは休みをとる。――――泊まりにくるからな」
「‥‥おう」

照れ臭そうに笑う悟浄に誘われて、もう一度三蔵はその唇に口付けた。
 

 

 

「母さん‥‥あいつさ、俺のこの紅い色‥‥綺麗だって言ってくれたんだ」

三蔵が仕事のために慌しく去った後。悟浄は一人膝を抱えて、義母の写真に語りかけていた。

紅い色。それは生まれた時から自分が纏っていた色。今まで、それは嫌悪の対象でしかなくて。綺麗だなんて、考えた事も無かった。

疎んで、蔑んで、大嫌いだった、この色。
だが、一生付き合わなければならない色だ。

完全に、気にならなくなったといえば、それは嘘だ。相変わらずコンタクトとサングラスは手放せないし、聞かれれば髪も染めていると答えてしまう。未だに幼い頃の夢も見るし、三蔵に触れていいのか躊躇う気持ちも残っている。

それでも、今までとは何かが違う。少しずつだけど何かが変わっている、と思う。

どうせ人と違う色を纏って生まれてきたのなら、いつかはそれを強みに変えてみせる。今すぐにとはいかなくても。これからも、色々あるとは思うけど。

それでいいと、言ってくれる人を見つけたから。
 

だから、母さん。
 

あいつと一緒に、生きてみようと思うんだ。
 

 

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