お見合いに行こう!(Vol.11)
『またな』
――――ああは言ったものの、三蔵は二度とやって来ないだろう―――。 三蔵との再会の僅か二日後、悟浄は逃げるように居を移した。 『突然住まいを変えたから』 だから三蔵も来れなくなったのだと。 ――――それに、丁度引越しを考えていたのと偶然重なったし。 誰に対してか分からない言い訳を胸の内で呟きながら、悟浄はぼんやりと安っぽいカーペットの上で丸まっていた。 明日には、仕事を探さなければ。生きる目的も意味も、何もかもが希薄で世の中から浮かび上がっている自分。それでも生きている以上、食い扶持を稼ぐ事は必要だ。 どこか投げやりな思考に流される自分を感じながら、考えることすら疎ましくなり、悟浄は眠ってしまえと眼を閉じた。
この町に来てから、まだ数日。 夜目にもその輝きを失わない金髪が、部屋の前に佇んでいた。
三蔵は呆気にとられる悟浄を「寒い」と促して部屋に押し入ると、仏頂面でコーヒーを要求した。ただ、二人で向かい合って黒い液体を口にする。 三蔵は、何をしに来たのだろう。わざわざ追いかけてきて。こんな時間まで待っていて。 ――――もしかしたら、自分から別れを告げるためか。 悟浄は、その想像に身震いした。 「オイ」 ――――きた。 悟浄は両手でマグを握り締め、自分に覚悟を促した。だが、三蔵の口から出されたのは、拍子抜けする程の意外な問い。 「夜の仕事か?」 そうか、と三蔵は頷いた。手にしていたマグをテーブルに戻す動作。それすらも、この男は様になる。 「じゃあ、昼頃でいいな」 知らず三蔵の動きに見とれていた悟浄は、それが次の訪問時間を示しているのだと理解するのに、しばらくかかった。 呆然と三蔵の顔を見つめると、鼻先で笑われた。 「逃げられると思うなと、言った筈だ」 その時自分がどんな顔をしていたのか、悟浄には分からなかった。
三蔵はそれから頻繁に悟浄の元を訪れるようになった。訪問は、いつも突然。約束も、何もない。ただ「時間が空いた」と言っては訪ねてくる。 時間が空いている筈はない。会社の経営などには無縁の悟浄とはいえ、それくらいの事は推して知るべしだ。三蔵はよく「煙草が切れた」「お前のコーヒーは不味い」と言っては自販機まで出かけた。だがそれは、外で会社に電話するためだと悟浄には分かっていた。 いつだったか、雇い主であるスナックのママに頼まれて昼間運転手をさせられた時に、帰宅したアパートの前でマルボロの吸殻が大量に落ちているのを発見し、堪らなくなって「来るならせめて連絡を入れてからにしろ」と頼み込んだ。以来、番号を教えたわけでもない携帯に、三蔵からの連絡が入るようになった。 『逃げられると思うな』 そう告げられた言葉が、妙に生々しく蘇る。だが、全てを調べ上げられ、監視されているという不快感を覚えたわけではない。三蔵は土足で悟浄の生活に踏み込んでくるような真似はしなかったし、最終的なラインでは、必ず悟浄の意思を確認してきた。 だが、そこまでして会いに来ても、三蔵は悟浄に何の要求もしなかった。 実際、三蔵が訪ねて来たからといって、別に何をするというわけでもない。 たまたま時間が空いたから、ふらりと顔を見に寄った。―――あくまでも、そんな雰囲気を漂わせて訪れる三蔵を、悟浄は戸惑いながらも心待ちにするようになっていた。 いつも最後に告げられる三蔵からの「またな」の一言に、言い知れない安心感を得る自分。少しずつ自分から何かが溶け出していく。それは漠然とした物ではあったが、悟浄は心の何処かで、確かに感じていた。
その日も、三蔵は悟浄の部屋を訪ねていた。 時々、思い出したように発せられる三蔵の言葉。それでもぽつぽつと話をするうち、色々と悟浄の知らなかった事も聞いた。ニィ医師が無認可の薬を患者に投与していた事が発覚し、医師免許を剥奪されたと言う事や―――義母にその薬が投与されていた可能性がある事も。 「もし、お前が望むなら」 世界中どこに隠れていても、必ず探し出してお前の前に引きずり出してやる。 暗に報復を望むかと三蔵に問われ、悟浄は頭を横に振った。不思議と、ニィに対する憎悪は沸いてこなかった。 ―――汚れた体が、今更キレイになる訳でもねぇし。 悟浄は自嘲的な笑みを、その口元に浮かべた。 「‥‥今日は帰る」 すたすたと玄関に歩み去る三蔵の後を、訳の分からない悟浄が追う。 「おいちょっと、待てよさんぞ―――!?」 あ。と思う間もない。悟浄は振り向いた三蔵に壁に押し付けられ、噛み付くように唇を塞がれた。荒々しく絡め取ろうとする舌の動きに、悟浄の思考が追いつかない。一通り口内を舐め上げられると、ようやく唇が解放され、そのままきつく抱き込まれた。 「簡単に、許してんじゃねぇよ‥っ」 声に含まれるのは、怒りなのか悲しみなのか。 「さ‥‥んぞ‥」 ちかちかと悟浄の目の奥で光が散り始める。また、始まるのか――?無意識に呼吸に集中しようとする悟浄の身体に回された腕に一層の力が篭り、悟浄の意識を引き戻した。 「他の男の事考えて、笑ってんじゃねぇよ!」 ――――三蔵。 ぎりぎりと締め付けられる身体。だが、痛みよりも何よりも、悟浄の胸に熱いものが込み上げる。 ただ、会いに来てくれる三蔵。 あまりにも居心地のいいその空間に、悟浄は逃げていた。 ずっと耐えていてくれたのだと、思い知らされる。―――いや、本当は、とっくに気付いていた。悟浄の心情を慮り、三蔵は何もしないのだという事を。三蔵に我慢を強いて、自分はずっとそれに甘えていた。 自分とて男だ。想いを寄せた相手と二人きりならば、相手に触れたいという衝動が湧いてくるのは十分すぎるほど理解できる。ただ、自分にはブレーキがかかる要因があっただけだ。それを全て乗り越えてきた三蔵は、どんな気持ちで自分に会いに来てくれていたのだろう。側にいてくれたのだろう。 今の二人の関係は、三蔵の我慢の上に成り立っている。それが現実だった。 三蔵に申し訳ないと思う感情と、それでも先に進むことへの躊躇いが交互に悟浄を襲う。 「あ‥‥っ」 首筋を這う舌の感触に、微かに悟浄は体を震わせた。口から漏れたのは、ほんの小さな、吐息とも悲鳴ともつかぬ小さな声だったけれど―――ぴたりと三蔵はその動きを止めた。 そのまま時が停止したように、二人とも動かないまま固まっていたが―――。 しばらくして三蔵は、悟浄の肩に両手を添え、勢い良く自分から悟浄の体を引き剥がした。俯いたままの三蔵の表情は、悟浄からは伺えない。 ひとり残された部屋で、悟浄は壁にもたれたまま荒々しく閉じられるドアの音を聞いていた。いつもの「またな」のない別れ。だが、それに不安を感じてはいない自分に、驚いた。 三蔵が再び此処を訪れる事を疑えない。きっとあいつは来てくれる。忙しい時間を調整して、それでいてそんなことは億尾にも出さず。 いつものように、「今から行く」と用件だけの短い電話を寄越して。 そうして、いつまでも待ってくれるつもりなのだ。悟浄が自分の壁を乗り越えるまで。 ――――――俺は、それでいいのか? 三蔵に無理をさせて。いつまでも我慢させて。 部屋の隅に目をやると、そこにはやはり笑顔の義母がいる。
悟浄の部屋を飛び出した三蔵は、ようやく走っていた足を止めた。一頻り体を駆け巡っていた熱が、どうにか収まってきたようだ。 抑えられなかった。 待つ、と決めたのに。 奴が捕われている過去より自分の存在が大きくなるまで、ただ側にいて待つ、と。 悟浄に必要なのは、時間だ。 だが、日に日に膨らむ悟浄への欲望。 あの医師の話をした時、悟浄は笑った。今まで見た事もない暗い笑み。そんな顔ですら他の男がさせる事が許せなくて、つい歯止めが利かなくなった。抑えていた箍を全て外しそうになった。 「情けねぇ‥‥」 三蔵は、自嘲的に呟いた。
「‥‥んぞ、おい三蔵ってば、遅れるぜ」 悟浄の言葉に、三蔵はようやく現状を認識した。ここは悟浄の部屋で、自分はつい転寝をしてしまったらしい。ここのところ、仕事が立て込んでいてろくに眠っていないツケが回って来たようだ。 ここに来る時は気を張っているつもりだった三蔵は、迂闊な自分に舌打ちしそうになった。悟浄が妙な気を回さなければいいのだが。この男の事だ、自分が疲れているなどと思われでもしたら、『もう来るな』『俺なんかのために無理するな』と騒ぎ出すだろう。 衝動を抑え切れなくて口付けたあの後、どういう風に悟浄に接したらいいのか、正直迷った。だが、結局は普段通りにしか振舞えなくて。そして、悟浄の態度も変わらなかった。 何も変わってはいない。少なくとも、表面上は。 だが、今はそれだけでいい。時間がかかるのは覚悟の上だ。 「なぁ、さんぞー」 台所から悟浄に呼ばれ、三蔵は煙草に火を点けながら返事を返した。悟浄の口調が軽かったために、油断していた事は否めない。次の悟浄の言葉に、不覚にも煙草を取り落としそうになった。 「もう、無理すんなよ。こんなこと続けてたら、お前の身体がもたねぇぜ?」 チッ、と心の中で舌打つ。やはり気取られてしまった。次の台詞は『俺にそんな価値は無い』か?ならば、これからどうこの馬鹿を言いくるめるか――――。 「無理じゃねぇよ。てめぇもやってた事だ」 それはまだ、奴が義母の入院費用を稼ぐのに必死だった頃。会いたいという想いが、こいつに無理をさせていた。――と、以前叔母にも指摘された事がある。だが、自分が同じ立場になってみて初めて分かった。 「あん時とは違うだろ。俺は都内に住んでたしさぁ」 会いたいと思う心は同じ筈だ―――そう考えながら、三蔵は妙な違和感を覚えていた。何かが、違う。一体、何だ? 悟浄の反応だ。 「相変わらず、自己主張激しいねぇ。三蔵様は」 三蔵が考えを巡らす間にも、悟浄の軽口が台所から流れてくる。 「んじゃあ、お疲れの三蔵様に提案でーす」 あくまでも、軽い口調。 「今度来た時はさ―――」 カチャカチャと陶器のぶつかる音と水音が、耳障りだ。悟浄の声が、良く聞こえない。 と、悟浄の背中が大きく上下するように動いているのが目に入った。まるで、そう、まるで深呼吸でもしているような。続きの言葉はなかなか出てこない。 何だ? 業を煮やし、三蔵が続きを促す声をかけようとした時、一際大きく悟浄は息を吸い込んだ。
そして。
「ここに泊まってけば?」 その瞬間、三蔵を取り巻く全ての音が、無くなった。
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