お見合いに行こう!(Vol.11)

『またな』

 

――――ああは言ったものの、三蔵は二度とやって来ないだろう―――。

三蔵との再会の僅か二日後、悟浄は逃げるように居を移した。
何処に移ろうと、別に三蔵に居場所がバレないと思っていたわけではない。
ただ、三蔵が自分のところに来なくなった理由を、引越しのせいに出来る。僅かでも、心が軽くなる。

『突然住まいを変えたから』
『何処に移ったのか分からないから』

だから三蔵も来れなくなったのだと。
実際はあの時も連絡もなしに家を突き止めて訪ねてきたのだから、そんな事は只のこじつけに過ぎないとは分かっていたけれど。
 

――――それに、丁度引越しを考えていたのと偶然重なったし。

誰に対してか分からない言い訳を胸の内で呟きながら、悟浄はぼんやりと安っぽいカーペットの上で丸まっていた。
ここは、移ったばかりの新しい住まい。相変わらず荷物の無い部屋。引っ越し後の片付けも程なく終わった。
今度選んだ場所は、今まで住んでいたところよりは僅かに雪が少ないだろうか。
 

明日には、仕事を探さなければ。生きる目的も意味も、何もかもが希薄で世の中から浮かび上がっている自分。それでも生きている以上、食い扶持を稼ぐ事は必要だ。
最近は、ふらりと何処からか流れついた余所者をすんなり雇ってくれる所は少なくなってきた。いい具合にどこかの現場が見つからなければ、夜の仕事でも探すしかないだろう。こんな小さな町にでも、それなりにそういう店はあるものだ。それに好き嫌いを言える立場でもない。

どこか投げやりな思考に流される自分を感じながら、考えることすら疎ましくなり、悟浄は眠ってしまえと眼を閉じた。
 

 

 

 

この町に来てから、まだ数日。
結局は小さなスナックのバーテンに収まり、そこの年増のママから浴びせられる色目をなんとかはぐらかして、家へ辿りついたのは夜中の2時過ぎ。
そこで悟浄は、自分の認識がいかに甘かったかという事を思い知らされた。
 

夜目にもその輝きを失わない金髪が、部屋の前に佇んでいた。

 

三蔵は呆気にとられる悟浄を「寒い」と促して部屋に押し入ると、仏頂面でコーヒーを要求した。ただ、二人で向かい合って黒い液体を口にする。
三蔵は、悟浄が引っ越した事に関して何も言わなかったし、悟浄も敢えて口に出さなかった。時計の秒針が時を刻む音だけが、部屋の中に木霊する。

三蔵は、何をしに来たのだろう。わざわざ追いかけてきて。こんな時間まで待っていて。

――――もしかしたら、自分から別れを告げるためか。

悟浄は、その想像に身震いした。
今まで、別れを口にしたのは全て自分。このまま終わらせるのは三蔵のプライドが許さないのかもしれない。‥‥‥だが、自分はそれに耐えられるだろうか。自分勝手な言い草だとは分かっていたが、やはり三蔵からの別れの言葉は聞きたくはない。

「オイ」
沈黙を破る、三蔵の声。

――――きた。

悟浄は両手でマグを握り締め、自分に覚悟を促した。だが、三蔵の口から出されたのは、拍子抜けする程の意外な問い。

「夜の仕事か?」
「え‥‥‥あ、ああ。バーテンやってんの」

そうか、と三蔵は頷いた。手にしていたマグをテーブルに戻す動作。それすらも、この男は様になる。

「じゃあ、昼頃でいいな」

知らず三蔵の動きに見とれていた悟浄は、それが次の訪問時間を示しているのだと理解するのに、しばらくかかった。

呆然と三蔵の顔を見つめると、鼻先で笑われた。

「逃げられると思うなと、言った筈だ」

その時自分がどんな顔をしていたのか、悟浄には分からなかった。
 

 

 

 

三蔵はそれから頻繁に悟浄の元を訪れるようになった。訪問は、いつも突然。約束も、何もない。ただ「時間が空いた」と言っては訪ねてくる。

時間が空いている筈はない。会社の経営などには無縁の悟浄とはいえ、それくらいの事は推して知るべしだ。三蔵はよく「煙草が切れた」「お前のコーヒーは不味い」と言っては自販機まで出かけた。だがそれは、外で会社に電話するためだと悟浄には分かっていた。

いつだったか、雇い主であるスナックのママに頼まれて昼間運転手をさせられた時に、帰宅したアパートの前でマルボロの吸殻が大量に落ちているのを発見し、堪らなくなって「来るならせめて連絡を入れてからにしろ」と頼み込んだ。以来、番号を教えたわけでもない携帯に、三蔵からの連絡が入るようになった。

『逃げられると思うな』

そう告げられた言葉が、妙に生々しく蘇る。だが、全てを調べ上げられ、監視されているという不快感を覚えたわけではない。三蔵は土足で悟浄の生活に踏み込んでくるような真似はしなかったし、最終的なラインでは、必ず悟浄の意思を確認してきた。

だが、そこまでして会いに来ても、三蔵は悟浄に何の要求もしなかった。

実際、三蔵が訪ねて来たからといって、別に何をするというわけでもない。
ただ、悟浄が入れたコーヒーを飲んで、時々は一緒に飯を食いに出かけて。悟浄が出勤する夕刻に一緒に部屋を出て、そのまま空港に向かうか、泊まる時には市内のホテルに戻って――。
三蔵は、悟浄の部屋に泊まりたいとは言わなかった。再会した時以来、キスさえ仕掛けては来ない。始めのうちこそ、三蔵の一挙一動に気を張っていた悟浄だったが、いつしかそんな事も忘れていた。

たまたま時間が空いたから、ふらりと顔を見に寄った。―――あくまでも、そんな雰囲気を漂わせて訪れる三蔵を、悟浄は戸惑いながらも心待ちにするようになっていた。

いつも最後に告げられる三蔵からの「またな」の一言に、言い知れない安心感を得る自分。少しずつ自分から何かが溶け出していく。それは漠然とした物ではあったが、悟浄は心の何処かで、確かに感じていた。
 

 

 

その日も、三蔵は悟浄の部屋を訪ねていた。
二人で部屋にいても、会話すらろくにないのはいつもの事。初めて出会った頃は、何故この沈黙が不快ではないのか悟浄は不思議だった。でも、今は理解できる。自分にとって、これはとても大切な時間なのだと。

時々、思い出したように発せられる三蔵の言葉。それでもぽつぽつと話をするうち、色々と悟浄の知らなかった事も聞いた。ニィ医師が無認可の薬を患者に投与していた事が発覚し、医師免許を剥奪されたと言う事や―――義母にその薬が投与されていた可能性がある事も。
そして現在、ニィ医師は行方をくらませているらしい。

「もし、お前が望むなら」

世界中どこに隠れていても、必ず探し出してお前の前に引きずり出してやる。

暗に報復を望むかと三蔵に問われ、悟浄は頭を横に振った。不思議と、ニィに対する憎悪は沸いてこなかった。
例え正規の治療ではなかったとしても、少なくとも義母に対するニィ医師の姿勢は、真摯なものだったと思えたからだ。彼がいなければ、義母はもっと早くにその命を失っていただろう。
悟浄的には色々な事をされはしたが、全ては過去の事だった。今の自分の心を動かす要因にはなり得ない。

―――汚れた体が、今更キレイになる訳でもねぇし。

悟浄は自嘲的な笑みを、その口元に浮かべた。
それをどう解釈したのか、僅かに眼を細めると、三蔵は急に立ち上がる。

「‥‥今日は帰る」
「え?って、今来たばっかりじゃ‥‥」
「用事を思い出した」

すたすたと玄関に歩み去る三蔵の後を、訳の分からない悟浄が追う。

「おいちょっと、待てよさんぞ―――!?」

あ。と思う間もない。悟浄は振り向いた三蔵に壁に押し付けられ、噛み付くように唇を塞がれた。荒々しく絡め取ろうとする舌の動きに、悟浄の思考が追いつかない。一通り口内を舐め上げられると、ようやく唇が解放され、そのままきつく抱き込まれた。

「簡単に、許してんじゃねぇよ‥っ」

声に含まれるのは、怒りなのか悲しみなのか。
搾り出すような三蔵の声に、心臓を鷲掴みにされるような錯覚。久し振りに感じる三蔵の体温に、眩暈がする。

「さ‥‥んぞ‥」

ちかちかと悟浄の目の奥で光が散り始める。また、始まるのか――?無意識に呼吸に集中しようとする悟浄の身体に回された腕に一層の力が篭り、悟浄の意識を引き戻した。

「他の男の事考えて、笑ってんじゃねぇよ!」

――――三蔵。

ぎりぎりと締め付けられる身体。だが、痛みよりも何よりも、悟浄の胸に熱いものが込み上げる。

ただ、会いに来てくれる三蔵。
二人きりでも、何も仕掛けてこない三蔵。

あまりにも居心地のいいその空間に、悟浄は逃げていた。
だが、それは。

ずっと耐えていてくれたのだと、思い知らされる。―――いや、本当は、とっくに気付いていた。悟浄の心情を慮り、三蔵は何もしないのだという事を。三蔵に我慢を強いて、自分はずっとそれに甘えていた。
 

自分とて男だ。想いを寄せた相手と二人きりならば、相手に触れたいという衝動が湧いてくるのは十分すぎるほど理解できる。ただ、自分にはブレーキがかかる要因があっただけだ。それを全て乗り越えてきた三蔵は、どんな気持ちで自分に会いに来てくれていたのだろう。側にいてくれたのだろう。

今の二人の関係は、三蔵の我慢の上に成り立っている。それが現実だった。

三蔵に申し訳ないと思う感情と、それでも先に進むことへの躊躇いが交互に悟浄を襲う。
肩口に埋められた三蔵の吐息が熱い。その熱さが首筋に移り、三蔵の手が悟浄の服の下に侵入しようと動く。

「あ‥‥っ」

首筋を這う舌の感触に、微かに悟浄は体を震わせた。口から漏れたのは、ほんの小さな、吐息とも悲鳴ともつかぬ小さな声だったけれど―――ぴたりと三蔵はその動きを止めた。

そのまま時が停止したように、二人とも動かないまま固まっていたが―――。

しばらくして三蔵は、悟浄の肩に両手を添え、勢い良く自分から悟浄の体を引き剥がした。俯いたままの三蔵の表情は、悟浄からは伺えない。
三蔵は小さく何かを呟いた。恐らく、謝罪の言葉だったのだろう。そのまま身を翻し、振り向きもせず三蔵は外へ出て行った。
 

ひとり残された部屋で、悟浄は壁にもたれたまま荒々しく閉じられるドアの音を聞いていた。いつもの「またな」のない別れ。だが、それに不安を感じてはいない自分に、驚いた。

三蔵が再び此処を訪れる事を疑えない。きっとあいつは来てくれる。忙しい時間を調整して、それでいてそんなことは億尾にも出さず。

いつものように、「今から行く」と用件だけの短い電話を寄越して。
いつものように、顔をつき合わせて、ただコーヒーを啜って。

そうして、いつまでも待ってくれるつもりなのだ。悟浄が自分の壁を乗り越えるまで。

――――――俺は、それでいいのか?

三蔵に無理をさせて。いつまでも我慢させて。
与えられるばかりで。自分からは手を伸ばさずにおいて、でも失うのは辛いなんて。
そのままでいいのか?お前はそんなに弱いのか?そこまでして貰って進めないのか?プライドは何処に置いてきた?

部屋の隅に目をやると、そこにはやはり笑顔の義母がいる。
悟浄はふらふらと引き寄せられるように近付いて、その写真に手を伸ばした。
 

 

 

 

悟浄の部屋を飛び出した三蔵は、ようやく走っていた足を止めた。一頻り体を駆け巡っていた熱が、どうにか収まってきたようだ。
チッ、と短く舌打つと、側の壁を思い切り殴りつける。血が滲んだが、そんなことはどうでもいい。

抑えられなかった。

待つ、と決めたのに。

奴が捕われている過去より自分の存在が大きくなるまで、ただ側にいて待つ、と。

悟浄に必要なのは、時間だ。
強引に事を進めて、それで奴が全てを忘れられるのならとっくにそうしている。
奴はそんなに弱くない。必ず、自分の力で立ち上がる。願わくば、その場に居合わせるのは自分でありたい。

だが、日に日に膨らむ悟浄への欲望。
二人きりで部屋にいると、後から後から湧いてくるある種の衝動と闘いっ放しだ。

あの医師の話をした時、悟浄は笑った。今まで見た事もない暗い笑み。そんな顔ですら他の男がさせる事が許せなくて、つい歯止めが利かなくなった。抑えていた箍を全て外しそうになった。

「情けねぇ‥‥」

三蔵は、自嘲的に呟いた。
 

 

 

 

 

「‥‥んぞ、おい三蔵ってば、遅れるぜ」
「‥‥ん‥‥?」
「ほら、コーヒー入れ直してやっから目ぇ覚ませよ。飛行機の時間、来ちまうぞ」

悟浄の言葉に、三蔵はようやく現状を認識した。ここは悟浄の部屋で、自分はつい転寝をしてしまったらしい。ここのところ、仕事が立て込んでいてろくに眠っていないツケが回って来たようだ。

ここに来る時は気を張っているつもりだった三蔵は、迂闊な自分に舌打ちしそうになった。悟浄が妙な気を回さなければいいのだが。この男の事だ、自分が疲れているなどと思われでもしたら、『もう来るな』『俺なんかのために無理するな』と騒ぎ出すだろう。

衝動を抑え切れなくて口付けたあの後、どういう風に悟浄に接したらいいのか、正直迷った。だが、結局は普段通りにしか振舞えなくて。そして、悟浄の態度も変わらなかった。
その時に感じたのは、安堵かそれとも落胆だったのか。今となってはもう思い出せないまま、前と同じように悟浄を訪ねる自分。

何も変わってはいない。少なくとも、表面上は。

だが、今はそれだけでいい。時間がかかるのは覚悟の上だ。

「なぁ、さんぞー」
「何だ」

台所から悟浄に呼ばれ、三蔵は煙草に火を点けながら返事を返した。悟浄の口調が軽かったために、油断していた事は否めない。次の悟浄の言葉に、不覚にも煙草を取り落としそうになった。

「もう、無理すんなよ。こんなこと続けてたら、お前の身体がもたねぇぜ?」

チッ、と心の中で舌打つ。やはり気取られてしまった。次の台詞は『俺にそんな価値は無い』か?ならば、これからどうこの馬鹿を言いくるめるか――――。

「無理じゃねぇよ。てめぇもやってた事だ」

それはまだ、奴が義母の入院費用を稼ぐのに必死だった頃。会いたいという想いが、こいつに無理をさせていた。――と、以前叔母にも指摘された事がある。だが、自分が同じ立場になってみて初めて分かった。
全然、無理じゃない。惚れた相手に会うために必要なら、何の辛さも感じない。

「あん時とは違うだろ。俺は都内に住んでたしさぁ」
「違わんさ」

会いたいと思う心は同じ筈だ―――そう考えながら、三蔵は妙な違和感を覚えていた。何かが、違う。一体、何だ?
しばらく考えて、三蔵はこの違和感の正体に思い当たった。

悟浄の反応だ。

「相変わらず、自己主張激しいねぇ。三蔵様は」

三蔵が考えを巡らす間にも、悟浄の軽口が台所から流れてくる。
自分が想像していたのと違い、悟浄は三蔵に『帰れ』とは言わない。『自分のせいで』という悲壮な空気を発していない。
思わず、台所の方に目を向ける。マグを洗っているらしい悟浄の背中が目に入る。

「んじゃあ、お疲れの三蔵様に提案でーす」

あくまでも、軽い口調。
何を言うつもりだ?くだらねぇ事だったら、殴ってやる。

「今度来た時はさ―――」

カチャカチャと陶器のぶつかる音と水音が、耳障りだ。悟浄の声が、良く聞こえない。
 

と、悟浄の背中が大きく上下するように動いているのが目に入った。まるで、そう、まるで深呼吸でもしているような。続きの言葉はなかなか出てこない。

何だ?

業を煮やし、三蔵が続きを促す声をかけようとした時、一際大きく悟浄は息を吸い込んだ。

 

そして。

 

「ここに泊まってけば?」
 

その瞬間、三蔵を取り巻く全ての音が、無くなった。
 

 

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