幽谷洞奇談(6)

しばらくして、三蔵が洞窟の中に戻ると、悟浄は横たわっていた。
八戒と悟空は側に座って悟浄に話し掛けている。さすがに八戒には悟浄のやせ我慢も通用しなかったらしい。おとなしく寝かしつけられたといったところだろうか。
三蔵は、3人から少し離れたところで足を止め、声をかけた。

「八戒、悟空と一緒に荷物を取って来い」

確かに、荷物はジープから降ろして、崖の下に放置しておいたままだ。ジープでは運べる道ではないから、二人で行った方がいいのは理解できる。が。

三蔵の言葉が発せられた瞬間、悟浄が僅かに身を硬くしたのを、八戒は見逃さなかった。
理由は分からないが、どうやら悟浄は三蔵に対して何かしらの"怯え"の感情を持っているらしい。それが分かっていながら、三蔵と悟浄を二人きりにして良いものか。

「ですが、三蔵」
ちらと悟浄に目を遣りながら三蔵に伺いを立てる。三蔵が気付いていない筈は無いが、返ってきたのは鋭い視線と強い言葉。

「聞こえなかったか?」

有無を言わせぬ口調に、八戒の反論は封じ込められる。いかに普段、八戒の発言力が大きいとはいえ、最終的な決定権は、常に三蔵にあるのだ。

――大丈夫。三蔵が悟浄を傷つけるような真似をするはずが無い。
八戒は、そう自分に言い聞かせた。

「わかりました、行ってきます―――悟空」
「う、うん」

いかにも仕方がない、といった感じの八戒の声に促され、悟空は三人の顔を交互に見比べながら、立ち上がった。
 

 

八戒と悟空が出て行くと、三蔵は悟浄が横たわる場所とは反対側の壁際に腰を下ろした。自分から少し離れたその位置に、思わず悟浄はほっとする。
だが、自分をじっと見つめる瞳に、たちまち居たたまれない気分にさせられた。何もかも、見透かすような紫の瞳。
その視線に耐え切れなくなって、思わず口を開く。
 

「なあ、三蔵‥‥怒ってんの?」
「怒ってないと思うか?」
「じゃさ、何に怒ってるわけ?」
「それも分からんのか、馬鹿が」
「心当たりが多すぎて、どうも‥‥」
「全部だ。お前の心当たり、全部」
「あ、やっぱり」
それきり、また黙り込む。
だが、次に言葉を発したのは、三蔵だった。
 

「俺が、怖いのか?」
「‥‥‥‥!」

いきなり、核心に触れられ、悟浄は返答に詰まる。
しかし、三蔵のそれは決して怒りを含んだ口調ではなかった。ただ、事実を確認する。それだけの、淡々とした質問。
「怖いのか?」
再び問われ、悟浄は諦めたように目を伏せた。

「‥‥‥‥ああ」
「そうか」
「そうかって、それだけ?他に聞くことねぇのかよ、おい」
「そう思うんなら、話したらどうだ」
「う」

話したい訳でも、聞かれたい訳でもないのに、あまりの三蔵の淡々とした反応に、つい文句を付けてしまった。やられた、と思った時には既に遅い。三蔵は相変わらずの視線を悟浄に向けて、話を促している。
ため息とともに、悟浄は観念した。三蔵に変に思われても、これが自分なんだから仕方ない。

「‥‥‥あ‥のさ‥俺、時々‥‥本当に何年かに一度って位なんだけど‥‥その、アレが駄目な時があんだよ‥‥すぐ、直るんだけど‥‥さ」

あんま他じゃ聞かねーだろ、こんなの。と悟浄は僅かに目を伏せ、口元を歪めた。そんな悟浄に、いかにもやれやれといった風体で、三蔵は息をつく。

「やっと言いやがったな」
「あ?」
「まあいいさ、あらかたは奴に聞いた。そういう時期があるらしいな、貴様」
「え。奴って‥‥えっと、キュウキ、だっけ?何?何聞いたんだよ?これ、一体何なんだよ?」
「自分でも、知らなかったのか?呆れたな」
「仕方ねぇだろ、聞く奴もいねぇし‥‥こんなの、俺だけなんだから、原因は大体想像つくけどよ‥‥」

確かに、禁忌の子供がそうそう周囲に居るわけは無い。誰にも言えず、一人で解決してきたのだ。
他人との違いを思い知らされるのが、悟浄にとって幸せなことだったとは思えない。三蔵は僅かに胸の痛みを覚えたが、それは顔には出さなかった。
悟浄は同情される事を最も嫌う。たった一人で、誇り高く生きてきた。それが悟浄だった。

三蔵は、こみ上げる感情――それはおそらく愛しさというものだっただろうが――を覚え、目の前の男に手を伸ばしたい衝動に駆られた。
勿論、実行するわけにはいかなかったが。

「それに、今度はいつもと違うし。今まで、触れられるのまで怖いなんて事無かったのによ‥‥‥‥って、三蔵?」

三蔵を取り巻く空気の、僅かに和らぐ気配に、悟浄は訝しげな声を上げる。心なしか、三蔵の瞳を優しげな光が掠めたような気さえした。

「深いから、だそうだ」
「あん?」
「相手を想う気持ちが深いほど、触れられることに恐怖を覚えるんだとよ」
「‥‥な‥‥」

顔に、血が上るのを感じる。確かに、今までと決定的に違うのはその部分だが。
あんの虎もどき、何余計な事言ってんだよ!と、助けて貰った事など忘れ、悟浄は窮奇に恨み言を言いたい気分で一杯だった。

 
寝返りを打って、三蔵から顔を隠したくて仕方がなかったが、既に自分の虚勢も限界だった。何気ない風で、三蔵と話をするのだけで精一杯だ。気を抜くと体中を襲う痛みに負けて、叫びだしそうになる。とてもじゃないが、体の向きを変える事など不可能だった。
赤い顔を晒してるという恥ずかしさが、こみ上げる。
からかわれるかと思ったが、三蔵はその点には全く触れず、話を続けた。
 

「何故話さなかった?」
「あ‥‥いや、何となく」
どう答えていいのか分からない。

「残念だが、完全に『直す』方法は無いらしい。これから先何度そういう状態に陥るかは分からんが―――その度に逃げ回るつもりか?隠し通せるわけ無ぇだろうが。ちっとはその派手な頭を使ってみろ」
「‥‥‥」
「何だよ」
悟浄は、自分の赤い顔の事も忘れ、思わず三蔵の顔をまじまじと見つめてしまった。
それは、三蔵がこれから先も、自分たちが離れるなんて事を微塵も考えていないという事で。

悟浄は、苦しいはずの体に、何か違うものが満ちていくのを感じていた。
 

 

一方三蔵は、内心気が気ではなかった。

よく見れば、悟浄が微かに震えているのが分かる。窮奇と、この不思議な洞窟に堆積する気によって、かろうじて一命を取り留めたとはいえ、大量の失血とまだ癒えていない体内の傷のせいで、かなり顔色も悪い。
苦しいとも痛いとも言わないこの男は、自分と話している限り、平気な顔を続けるのだろう。三蔵は、悟浄には気付かれないように、ため息をつく。

「‥‥もう、黙って寝とけ。なるべく動くなと奴も言っていた」
三蔵は、自分の法衣を脱いで側に放ってやった。近付けないのが、もどかしい。
「いいよ‥‥汚れちまう」
「今更てめぇの血を吸ったところで、何だってんだ。洗えばいいだろ」

三蔵の言葉に、悟浄は八戒の顔を思い浮かべる。洗濯する事になるはずの親友に、悟浄は心の中で手を合わせた。けれど、今日はせめて三蔵の匂いに包まれて眠りたい。そんな気分だった。

手を僅かに伸ばすだけで、体中がぎしぎしと悲鳴をあげる。回復している証拠だからと悟浄は自分に言い聞かせ、それでも三蔵にそれを気取られないように、法衣を手繰り寄せる。

(ああ、三蔵の匂いだな)

最近はその匂いに包まれて眠る事が多くなった。すっかり馴染んでしまった匂いに、安心したのか、急激に睡魔が襲ってくる。悟浄は思わず苦笑した。

(まるで、ぬいぐるみが無ぇと眠れねぇガキみてぇ)

今夜だけだ。こんな事考えるのは。多分血を流しすぎて自分はどうかしてしまっているのだ。
次第に重くなる瞼を閉じながら、悟浄はうわ言のように呟いた。

「こんなに触れてぇのにな‥‥」
三蔵の匂いはあるのに、三蔵の体温を確認できないのがこんなに寂しいなんて。

「こんなに欲しいのにな‥‥」
三蔵の全てを感じたいのに、それが出来ないのがこんなに辛いなんて。

 

「貴様‥‥死にたくなければ、もう黙れ」

悟浄はクスリと笑みをもらすと、そのまま静かに眠りに落ちていった。
三蔵にしてみれば、堪ったものではない。仮にも自分の想い人が、自分を欲しいと言っているのに、触れることすら適わないのだ。

「この野郎‥‥いつもは言わねぇクセに、こんな時だけ‥‥!」

誘いの言葉を受けるのは珍しい事ではない。だがこんな風に、心の底から自分の存在を求めている、と伝わってくる事は滅多にない。いつも何かを隠した笑みで、誘ってくるのだ。
すっかり寝入ってしまった悟浄に、気配を殺して近付いてみる。眠りに落ちたばかりだというのに、全く目覚める様子が無い。人の気配には聡い悟浄が、今自分が怖がっている相手の接近をここまで許すというのは、かなり参っている証拠でもあった。

「う‥‥」

悟浄が小さな呻き声を上げる。起こしてしまったかと一瞬焦った三蔵だったが、どうやら、そうではないらしい。夢の中で、ようやく苦痛を隠さなくともよくなった悟浄が、痛みと格闘している声だった。

(ヤセ我慢、しやがって)

三蔵は、悟浄の頬に手を伸ばし――触れる寸前で思いとどまった。これ以上は、悟浄を起こしてしまう可能性が高い。しばらく躊躇した後、汗で頬に張り付いた紅い髪を肌に触れないように注意深くどけてやる。
洞窟内に置かれた携帯用のランプの光が、悟浄の顔をほのかに照らし出していた。元々、体調が悪い上、死んでいないのが不思議なほどの重症を負っているのだ。その顔は、痛々しいほどに青白かった。
 

それでも、生きていてくれた。
 

窮奇は「まだ助かるかどうかは分からない」と言っていたが、間違いなく悟浄は回復する。
根拠のないその自信が、間違っていないことを三蔵は知っていた。
誰に笑われても構わない。自分にだけは、分かるのだ。
 

三蔵は、悟浄の姿を見失ってから初めて、安堵の息を漏らした。
 

 

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