幽谷洞奇談(3)

(虎‥‥?)

確かに姿は虎に似ているが、それは虎ではなかった。
虎よりはるかに鋭い爪と牙を持ち、何より決定的に違っていたのは、前足の付け根から翼が生えていることだった。どこかしら幻想的なその姿に、悟浄は自分の状態も忘れて見とれてしまう。

「夢‥‥見てんのかね‥‥すげー‥‥カッコいいじゃん‥‥」

まるで悟浄の声が聞こえたかのように、ぴた、と足を止めたそれは、しばらく悟浄を眺めていたが――再び低く唸り声を発すると、ゆっくりと悟浄に近付いてきた。その声に、悟浄は我に返る。
これは、夢ではない。

(‥‥しゃんとしろよ‥‥沙悟浄)

恐らく自分の血の匂いにつられて来たのだろう。どう控えめに見ても、草木を糧として生きているようには見えない獣だ。このままだと、食われてしまう。そうでなくとも、あまり永くはもたないだろうが、だからといって食われてやる義理もない。
何の抵抗も無しにおめおめと食われたのでは、それこそ三蔵に何を言われるか知れたものではない。何より、自分が許せない。

(うまく‥‥操れるか?)

残った気力を振り絞り、錫杖を具現化した。僅かな妖力で、それでも真っ直ぐに刃を近付く獣に飛ばす。

 

キィン

 

その刃は、獣に届く寸前で跳ね返された。どうやら、気でバリアを張ったらしい。かなりレベルの高い妖怪だ。弱りきった悟浄の妖力ではそれを破るのは困難だった。
 

(駄目か‥‥)

食われるのか、俺は。
どうせ、食うのなら。何も残さないで欲しい。骨も、皮も、髪の毛1本に至るまで。
自分の残骸を見るのは、きっと奴には耐えられないだろうから。
俺がいなくなったという事実だけ、それだけで十分だ。
 

朦朧とした意識の中、悟浄は自分のおかれている状況ですら判別できなくなっていた。
 

何やってんだっけ?俺。ああ、帰らないと。皆を待たせてんだよな。遅くなったら、またあいつらに煩く言われちまう。置いていかれる前に戻らないと。あいつのところへ。あれ?あいつって―――誰だっけ?
不意に、脳裏に金髪の最高僧の姿が浮かぶ。眠りに落ちかけた意識が叩き起こされた気がした。

――――帰らなければ。三蔵のところへ!

ついに、悟浄の側までやってきたその獣が顔を寄せてくる。その顔面めがけ、最後の力を振り絞って拳を叩き込んだ。
まさかこれ以上の反撃があるとは想像していなかったのだろう、その獣は一瞬ひるんだ。悟浄はその隙に立ち上がろうとして―――出来なかった。
実際は、殴りつけた勢いで、前に倒れこんだまま、もう動くことが出来なくなっていた。

背中に、獣の前足が乗るのを感じる。ほとんど、感覚の無いはずの体で、それだけが妙にリアルな感触だった。
獣は、一声低く唸ると悟浄の肩口の傷に顔を寄せ、血を舐め始めた。
もう、抵抗する力は残っていない。どうやら、自分の足掻きもここまでのようだ。

「‥‥ワリ‥‥三蔵‥‥」

落ちていく。一筋の光も無い、暗い闇へ。
悟浄の意識は、そこで途絶えた。
 

 

 

悟浄の足取りを追って、点在する妖怪の死骸を伝い三蔵達が辿り着いたのは、切り立った崖の上。
そこで見たのは、無残に切り刻まれた妖怪の死体と、崖の淵の崩れた痕跡。

「まさか、ここから落ちて‥‥!?」

下を覗き込むが、眼下もまた鬱蒼とした森になっており、下の様子は伺えない。そうでなくても、辺りはもう真っ暗だ。このままでは悟浄を見つけるのは難しい。だが、そんな事を気にする者は誰もいなかった。

「降りましょう、早く!」

三人が、踵を返して崖の下に下りる道を探そうとした時、その声は、響いてきた。
地を這うように低く発せられる、明らかに肉食獣の唸り声。咄嗟に、振り返る。

――その時、急に強い風が吹いた。分厚い雲に覆われていた月が、姿を現す。
三蔵達の立つ崖の向かいには、剥き出しの岩山が突き出ている。
その頂上に、それは、いた。

月の光に照らされて浮かび上がる、一匹の獣。虎の姿に、白い翼。三蔵の口から、思わず驚きの声が出る。

「窮奇‥‥!?」

「キュウキ?」
首を傾げる悟空の問いに、すかさず八戒が答える。
「妖怪の一種ですよ。僕も初めて見ますが‥‥。窮奇は人間を食すると言われています。少しひねくれた性格をしていて、正直者の鼻を食いちぎったり、喧嘩している人たちの所へ行って、正しい方を食べたり」
「‥‥‥‥うげー、性格悪ぃ」
「今はそんなことどうでもいい。行くぞ」

そうだ、今は伝説の獣だろうが何だろうが気にしている場合ではない。
三人が、再び崖から離れようとした時、不意に、風向きが変わった。
悟空が足を止め、もう一度振り返る。
そのまま微動だにしない悟空を不審に思った八戒も、足を止めた。

「どうしました?悟空」
「アイツ、血の、匂いがする」
震える指を、真っ直ぐに指し示す。その先にいるのは、翼を広げた、魔獣。

「ご、じょうの‥‥匂いも、する」
愕然とする三蔵達の目の前で、窮奇はその身を宙に躍らせ、崖下へと舞い降りていった。
 

 

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