幽谷洞奇談(2)

「三蔵‥‥」

口に出してしまって、悟浄は薄い笑みを浮かべる。夕べ、驚いてたな、あいつ。
そりゃ、そうだ。今まで、アイツを拒んだ事なんて無かった。いつだって、拒みたくなんか無いと思っている。あの時だって、抱かれたかった――心では。

いつの頃からか、時々こういう状態に陥る。人と体を重ねる事に、堪らなく嫌悪を覚える時期がある。頻繁に起こる、というわけではない。実際、前回そうなったのは、三人と出会う以前の事だった。その期間は、長くても4、5日。その間を誤魔化せれば、またいつもの自分に戻れる。
この事は、恐らく自分が禁忌の子供である事に関係している―――と思う。
この髪が赤いのも、この瞳が赤いのも、『まあいいか』なんて思えてきた。

せっかく、思えてきたところだったのに。
 

三蔵には、知られるのは嫌だった。
あいつは、こんな事きっと気にしない。それは分かってる。
ちゃんと、俺に触らないように気をつけてくれて、元に戻ったらいつもと同じように求めてくれるだろう。もっとも、待たせた分だけ、少し激しいかもしれないが。
 

(冗談じゃねぇな)
つまりそれは、三蔵に気を遣わせるということだ。
どうして俺が三蔵に気を遣われなくちゃならねぇんだ?
あの高慢チキな生臭坊主にそんな事をさせるなんざ、自分のプライドが許さない。

そして、もうひとつ。
どうしても自分が他の連中とは違っていると、三蔵に再認識されるのが嫌だった。
 

 

だから、わざと喧嘩を吹っかけた。

4、5日の喧嘩なら、そう珍しい事ではない。その間、三蔵に触れなければ不審に思われる事は無いはずだった。

だが、やはりそう上手くはいかないものだ。三蔵が部屋を訪ねてきたとき、本当ならそこで追い払うべきだったのだ。実際、そうするつもりでドアを開けた。辛辣な言葉の一つでもかけてやるつもりで。

だが、三蔵の顔を見た途端。
もしかしたら、三蔵なら大丈夫かもしれない。
そう期待する気持ちが、湧き起こってしまったのだ。

部屋に招きいれた時点で、行為を了承したと思われるのは当然だ。しかし、結局は駄目だった。それどころか、今まで以上に湧き上がる嫌悪感。
恐怖さえ、感じた。
三蔵に触れられることすら、今は怖い。おまけに体まで変調をきたしている。
こんな事は、初めてだった。
 

―――初めて、本気で拒んでしまった。

嫌われたとは、思わない。もしそうだとしたら、自分はもうこの旅からは外されている。
ただの仲間には戻れないほど、近くにいると思うのは自惚れではないだろうから。
 

さすがの三蔵も、今回は知らんフリはしてくれないらしい。もし、そうされたらそれはそれで、ちょっとショックかもしれねぇな、等と身勝手なことを考えたりもする自分に嫌気がさす。
三蔵が聞き出そうとしているのが気配で判ったが、逃げ回っていた。
とにかく、理屈じゃなく三蔵が怖い。いっそのこと話してしまえばいいんだろうが、問い詰められて話すなんてなんだかみっともない気がした。
自分でも、妙な意地を張っていると自覚はしていたが。
 

 

 

 

ゴホッと咳き込むと、口から溢れる鉄の匂いのする液体。

(あー、本格的にヤバいな、こりゃ‥‥)

このまま三蔵と会えないのだろうか。あんな別れ方をしたままで。そして、大切な親友ととかわいい弟分と。あの二人にも、もう会えないままなのか。

あんな意地、張らなきゃ良かったな。天罰かね、やっぱ。
天罰なんてモン、誰が下すのかは知らねぇけど、と悟浄は一人呟き、笑った。
 

 

 

 

静かだ。
 

 

ぼんやりと、空を見上げた。今日の妖怪の襲撃は夕食の後だったために、今はすっかり辺りは夜の帳に包まれている。本当なら満月のはずだが、生憎厚い雲に覆われてその姿を見ることは出来ない。
意識が朦朧としてくる。既に体の痛みは感じない。
ここで気を失ったら、多分、終わりだ。

突然、低い唸り声のようなものに失いかけた意識を揺さぶられる。
徐々に霞む視界の中で、悟浄の目は自分に近付いてくる何かを捉えようとしていた。
 

 

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