幽谷洞奇談

(あーあ。‥‥ドジっちまったなあ‥‥)

夜の暗闇と、鬱蒼と繁る森が作り出す闇。二つの闇が交錯する中、聳え立つ切り立った崖に身をもたせかけながら、悟浄は荒い呼吸を繰り返していた。
崖から落ちた時に、左足と、肋骨を何本かヤっているらしい。呼吸をするたびに襲う激しい痛み。おまけに、肩口から流れ出る血は止まる気配が無い。妙に寒さを感じるのは、暗闇がもたらす気温の低下だけではないはずだ。

(ヤバいかな‥‥これ。三蔵達、怒ってるだろーな‥‥)

殆ど日課と化している、妖怪たちの襲撃。いつもなら、なんという事もない敵であったが、今日の悟浄は変だった。
いつもと違うキレの無い動きに攻撃が集中し、いつの間にか仲間たちと引き離されたあげく、最後の妖怪を戦った時のはずみで、崖の下にまで落ちてしまった。

崖から足を滑らせ、落下しようとする悟浄に妖怪が勝利の笑みを浮かべた瞬間、ヒュッと風を切る音が妖怪の耳に届き―――そして、それが何の音か認識する間もないまま、妖怪はバラバラの肉塊と化していた。

咄嗟に飛ばした鎖を、妖怪ではなくその辺りの木にでも絡ませれば、落下は防げたはずだった。
しかし、悟浄は妖怪を倒す事を選んだのだ。
 

(ナメられたまま終われるかってーの)
 

落下の途中、少し張り出した岩に錫杖の鎖を絡ませようとはしてみたが、弾みのついた体重を支えきれず、それは落下の速度を少し弱めただけの結果に終わった。
いや、それでもこの高さから落ちてまだ生きているという事からすれば、その行為も無駄ではなかったと言えるのかもしれないが。
 

やけに静かな森の中、自分の荒い呼吸音だけがやたらと響く。
他の連中が、心配しているだろう。

(いや、三蔵は心配しているかどうかわかんねぇよな)

自嘲的に、悟浄は嘲笑った。
なにせ三蔵と自分は今、喧嘩中なのだから。
 

 

 

「ったく、どこ行きやがった、あの馬鹿!」
「こっち、妖怪が倒れてる!」

三蔵たち三人は、自分たちを襲う妖怪たちを倒した後、悟浄の後を追っていた。戦いの間にどんどん悟浄が自分たちから引き離されていくのには気付いていたが、数を頼みとばかりの妖怪たちに、思うように動けなかったのだ。

三蔵の苛立ちは、最高潮に達していた。普段なら、別に心配などしない。だが、ここ最近の悟浄は明らかに変だった。先程の戦闘にも、それが現れていた。
 

「そんなに心配なら、さっさと仲直りして下さいね」

全身から、不機嫌なオーラを発する三蔵に、八戒は内心の心配を隠しながら、努めて普段どおりに話し掛ける。ここ数日三蔵と悟浄の間に流れる空気が不穏なものであるのには気付いていた。どうせ、またいつもの喧嘩だろうと悟空と話していたのだ。
 

 

喧嘩などではない、もっと深刻なものだ。
三蔵は八戒の思い違いを訂正しようとして、止めた。

2日程前から、悟浄の様子がおかしい。急に絡んできたかと思うと、ワザと自分を怒らせるような真似をしてみたりする。ついには自分もキレて、いつものように罵り合いに発展したのだが、どう考えても悟浄のあの絡み方は普通ではなかった。

そして極めつけは、夕べの出来事。泊まった宿で、いつものように悟浄の部屋を訪ね、抱きしめた。大抵の喧嘩なら、そこでなし崩しに終わってしまう。
だがその時、初めて悟浄は三蔵を拒んだ。
――滅茶苦茶に、抵抗された。
 

俺が、嫌になったのか?
ばーか、俺たち喧嘩中じゃん。
 

目を合わせようとしない悟浄に苛立ち、こちらに向けようと肩を掴んだ。いや、掴もうとした。
だが、それは適わなかった。
三蔵の手が触れる寸前、悟浄に払いのけられたから。
 

「‥‥あ」
 

無意識の行動だったのだろう、悟浄はバツが悪そうに自分の手を見つめた。
だが、別に言い訳をするでもなく、近付く様子も無い。
「‥‥わかった」
そして三蔵は、悟浄の部屋を後にした。
 

口では、『喧嘩中だから』などと言っていたが、組み敷いた時、悟浄の瞳に一瞬浮かんだのは、間違いなく怯えの色。悟浄が自分に怯えている。
想像以上にショックを受けた自分に驚いた。
怒りなのか戸惑いなのか、自分でも判断できない感情が胸の奥で渦巻いている。それを悟浄にぶつけてしまいそうだった。あのまま悟浄の部屋にいたら、自分は悟浄に何をするか分からなかった。

そして今日、三蔵は悟浄と口を利いていない。明らかに悟浄に避けられている。
 

何故、急に?
 

本当に自分に嫌気がさしたとは思っていない。もしそうなら、奴はそう告げるだろう。だが、問いただしても誤魔化されるだけだ。
一方的に持ちかけられた喧嘩が、行為を避けるためのものだったということは、既に明白だった。
 

自分に知られたくない何かを、奴は隠している。普段なら、本人が言いたくない事を喋らせる気は起こらない。
話したければ、話すだろう。今回も初めの頃はそう考えていた。
だが、触れることも出来ない。ろくに話も出来ない。こんな事が一体いつまで続くのか。
 

このままでいくと、近いうちに自分の理性がキレるのは確実だ。夕べのように、自分を抑えて悟浄から離れる事が出来なくなる。奴を、滅茶苦茶にしてしまう。
その前に。

―――必ず、聞き出してやる。

そう決意した矢先、妖怪たちに襲われたのだ。
悟浄の動きがいつもより鈍い事に、他の三人はすぐ気が付いた。当然、敵の妖怪たちも同様だった。攻撃が悟浄に集中するのを何とか防ごうと奮闘したが、いかんせん敵の数が多すぎる。
最近は、質より量で襲ってくることが多くなったのだが、今回に限ってはそれが功を奏したらしい。

三人が妖怪を全て遠い世界へ送ってやった時には、悟浄の姿は何処にも無かった。
 

 

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