「このっ…!」
後一欠けらなのに、それが取り戻せない。その一欠けらがなければ、人は生きて行く事は出来ず、魂魄は完全な形に戻らないと言うのに。
「戻れと言うのが、判らないのか!」
言葉は通じる様子を見せず、その場にはただふわふわと光る小さな玉が一つ。これを取り戻してやるというのが、自分が見た小さな子供達との約束だと言うのに。力が足りないのだと漠然と思う。人の手が入る事がなくなった森に住まう小妖なぞ大した力を保つ事は出来ない。物の怪は人と共にあってこそ、その力を維持する事が出来るのだから。日に日に弱って行く力に焦れて、禁呪とされる時を止める呪法を用いてからどれほどの時が流れたか。いつの頃からか、この身を養っていてくれた様々の力のバランスが狂い、気が付けば人々が禁忌と忌む髪と瞳の色を手に入れていた。それは命の色と良く似ていて美しいと思ったから己では気に入っていたけれど、人々は益々自分から遠ざかって、今では何も知らぬ旅人が時折訪ねる程度。あの道観も今になくなってしまうだろう。それでもいいと思ったのだ。この森と命を守る事さえ出来れば。それなのに、いざとなると力が足りないとは。古のアヤカシのように人を食らっておればそれでも幾らかはマシであったのか。
「否!」
己の内なる声を否定する。
「否!己が守るべきものを食らうなど、出来るものか!」
どれだけ忌まれようと、蔑まれようと。己の身と命にかけた誓いを破る事だけは出来ない。顔を真っ直ぐに上げ、頭を垂れず、己に恥じぬ生き様を貫く事が出来なくて、何の生か。どれだけ猛省しようとも、幾度過ちを繰り返そうとも、後悔しない生き方をする。それが出来なくては、己の命に何の意味もない。
「戻れ、玄奘三蔵!己が弱さから目を逸らしたとて、決して強くはなれぬ!」
己が強くない事など誰もが知っている事だ。強くないから、強くなろうとするのだ。それが傍目から見て無駄な足掻きに見えようと結果は自分にしか見えないのだ。黄泉路に旅立つその瞬間に、己の生きてきた道を振り返って、漸くその答えが見えるものなのだから。弱さを見据える事も、また、強さだ。
「戻る意志があるのなら、我が力を貸してやるから!」
欠け片の力など微々たるもので、たったそれっぽっちの力では守護者の手から逃れる事は出来ない。動けないからそこに留まっていると言うのなら動けるようにしてやるために力くらいは持ち合わせている。彼女は守護者の腕の内に捕われるようにして留まっている小さな光に手を差し伸べる。ちかり、とその光が少しだけ強くなった気がして彼女は薄く笑った。
そうだ、戻りたくないわけがない。弱い自分は誰もが捨てたい部分だけれど、弱い自分も認めてくれる人がいるなら。求められているその手を無情に振り払う事など、してはいけない。
「いきなさい、玄奘三蔵。己の意志に示すままに。」
何度もかけた言葉をもう一度かけてやる。掌に精一杯の力を込めて光に手を差し伸べる。
我はそなたを求めているわけではないけれど。その命を求めているから。出来る精一杯をしてあげるから、生きて。例えどんなに苦しくても、辛くても、生きて、生きて。
「エゴだがな。」
小さく呟いて彼女は守護者に向かって身を踊らせる。力任せにその小さな光を掻き抱いて身体を捻ると守護者の外に放り出した。これ以上守ってやる事は出来なくてもここで守護者を足留めする事は出来る。二度と誰かの命を奪わないように。
「導きに従って行きなさい!」
ただ息をするのも苦しいような濃密な術の気配の中で彼女はただ真っ直ぐに魂魄が飛翔するべき方向を指した。守護者が魂魄を捕らえる触手を伸ばしたと同時、彼女の体から溢れたのは深緑の輝き。中空に延ばされたその腕は、宛ら木の枝のように見えた。森の木々が変形しその枝葉をするすると延ばして、緑の牢獄が彼女と守護者を閉じ込めてしまうまで大した時間はかからなかった。
気付けば、再び悟浄の前にいた。涙すら流しながら自分を覗き込んで来る金色の瞳も辛そうに撓んだ深緑の瞳も決して視界からなくなりはしないのにその緋色の姿だけが見えたり隠れたりする。
「かえして…。」
小さく呟く自分の声が酷く遠く、けれど耳元から聞こえて来る。森の聲はざわめきを増し、つい先刻まで聞こえていたはずの女の声を掻き消して行く。
「かえりたい…?」
「かえして…。」
問う声にバカみたいに同じ言葉を繰り返す事が出来ない自分に苛ついた。そうじゃない、言いたい事はあるんだ。呼びかけたいんだ、俺を呼んだのはテメェなんだと知らしめたいんだ。それなのにどうしてこの口は同じ事しか言えない?
「かえしてあげる。だから、一度眠りな。」
悟浄の声は酷く優しくて深く頷いてしまいたくなるけれど、ここで頷いてはダメだと自分ではない自分が叫ぶ。過ぎてしまった痛みを身体が思い出してどういうわけか脅えたように竦み上がるのが判った。
「三蔵を傷つけたりしないから。でもアンタは眠らなくちゃ。」
ふわりと笑んだ悟浄の手には白銀の錫杖。日の光を反射してぎらりと光る。
「すぐに済むから。」
風に踊る緋色の髪が悟浄の表情を隠してしまう。鎖の擦れる甲高い音が耳について鬱陶しい。
「ご、じょう…。」
漸く絞り出して呟く事が出来たのは、たった一言。その声が届いたのかがしゃん、と耳障りな音を発てて錫杖が地に転がった。
「なんで呼ぶんだよっ!」
悲痛な声が森を裂く。煩くざわめいていた森からまた大きな聲。どうやら周囲にいた獣や鳥が悟浄の声に驚いて去って行ったようだ。
「呼ぶな!じゃなきゃ俺は、アンタを…っ!」
悟浄の声がどこから聞こえているのか判らない。すぐ目の前で噛み付くように叫んでいるのか、どこか遠い所で泣きながら呟かれているのか。強く弱く響くその声は微かに震えて掠れて痛ましい。
けれど悟浄。俺がお前を呼ぶのではなくて、お前が俺を呼んだから応えているだけ。だから俺をお前のところにかえして欲しい、ただそれだけなんだ。なのにどうしてお前がそんなに痛々しい声で俺を拒絶する?
「…どうして……俺は、アンタを拒めない…?」
向けられた顔に表情はなく、瞳だけが今にも涙を流しそうに潤んでいた。寄せられた眉が痛ましい。どうにかしてやりたくて、歩み寄り、手を伸ばす。拒む事が出来ない弱いお前を、受け入れる事が出来る強いお前を、これ以上苦しめたくなくて、慰めたくて。それなのに伸ばした手は振り払われて身体を捻ると悟浄は数歩後ろに飛びすさった。
「ど…して?」
「拒まなくちゃ…俺は、アンタを拒まなくちゃ…だって…俺にしか出来ないなら、俺がやらなくちゃ…。」
消え入りそうな小さな声。どうして俺を拒む事がお前にしか出来ない事なんだ?何がお前にそうさせている?お前が俺を拒む事で何が起こる?俺のするべき事はなんだ?お前のするべき事は?
「伏せて、悟浄!」
二重映りの視界の中、いつの間にか消えていた深緑の瞳が違う位置から視界に飛び込んで来る。翳された掌から溢れるのは、鋭い光。避けなくてはと思うのに身体が思うように動かなくて。
どうして八戒が、と思う間もなく、視界が白に包まれた。
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