おもひとげねば(4)

 何があったのか良く判らない内に空を漂うような感覚に捕われた。半透明だったはずの何かが悟浄の身体を通って緋色に染まって行くのを視界の端に捕らえたような気もするがそれすらいつあった事なのか把握出来ない。自我を保つという事がどれだけ難しいのかと言う事を唐突に理解した、そんな気がした。
「…そこな御坊。」
 知らぬ声が耳に飛び込んで来てそちらに視線を向ければ見知った物と良く似た---こちらの方が若干暗いかもしれない---緋色の髪が見えた。
「御坊をお助けしたい。どうか、我を信用なさってこちらに手を伸ばしてはくれまいか。」
 囁く声音は静けさの中、思いの外強く響いて。けれど、真っ直ぐに手を伸ばして来るその人物に覚えはない。墨染めの衣を片袖を抜いて纏い、艶やかな真紅の髪を長く延ばした妙齢の女性はこの場に不似合いなほど穏やかに微笑んだ。
「生きたいか?」
 問われてすぐに頷くのは難しいその言葉に沈黙で返せば、女はふわりと笑みを濃くする。死にたいと思った事はない。けれど、率先して生きたいと思った事もない。ただ、目的を果たさないまま、腐り落ちる事だけはしたくない。求めたものを手放したくない。
「このまま腐りたくないなら、戻れ。あの緋色が導いてくれるだろう。」
 示された先、淡い光を放つ紅。呼ばれている。なぜか漠然とそう感じた。けれど、身体が上手く動かせない。光から目を離し、今一度女に目を向ければ、女はいつの間にか子供のような容姿を持った人物に変わっていて。それでも視線の意味を悟ったのか手を真っ直ぐに天に翳す。
「いきなさい、玄奘三蔵。己の意志の指し示すままに。」
 呼ばれ、どこか霞がかかったようだった紫電の瞳に光が戻る。四肢を捕らえ動きを鈍くしていた何かが四散して行くのを三蔵は感じた。それから女の掌から溢れた不可視の光に弾き飛ばされるようにして自身が呼ばれたと感じた光に向かって動き始めた。そこからまた、彼の意識は瞬間途切れる。

「行ったか。ここからが正念場だぞ…。」
 呟く声は甲高く、年端も行かない子供のもののようであり。ふ、と吐かれた息は長い事生きてきた者のもののようであった。
「師よ、我は命を守らねばならぬ。」
 囁きながら翳していた掌を半透明の巨大な手に向けた。その根源にあるのはすっかり死蝋と化した男の亡骸。微笑んでいるようにも見えるそれに彼女はゆったりと微笑みかけた。
「己の意志が指し示すままに。我はもう、貴方に捕われぬ。」
 もう守護者はいらない。自分にも、この先の消えた街にも。最高僧の称号を持つ者すらが知らない、歴史にすら残らず葬り去られたここにこれ以上何の意味もない。おいて行かないでと嘆いた涙ももう枯れた。現実を直視する事も出来ず、逃げ惑うだけだった弱い女ももういない。
「我が師よ…我らは何に捕われていたのであろうか…。」
 祈ったとて、神は助けてくれない。そもそも、人間は誰に祈りを捧げるのか。仏法を尊ぶ者は仏に祈る。自然に祈る者も、神々に祈る者もある。人間達は信じるものが違うと言うたった一つの事だけで愚かに殺し合い、蔑み合う。では、我々は何を信じればいいのだろう。姿なき神は何もしてはくれないのに。隣人を信じる事も出来ず。
「師は御仏に縛られておったな。…我は師に縛られておった…。」
 貴方の笑みが見たくて。貴方を失ってしまう事が怖くて。貴方を失った事実が怖くて。だから私は時間を止めてまで貴方の傍にいる事を望んだけれど。貴方であったものは今はなく、ただ、命を奪うための道具にされて。どうして私は自分の時間ではなく、貴方を止めなかったのだろう。
「師よ、我は今こそ、貴方と言う呪縛から離れよう。」
 今以って魂魄に向かって細い触手を伸ばし続けるそれに掌を強く押し当て彼女は小さく呪言を唱え始めた。そして、蔓草の蔦のようであった触手は少しずつ、千切れて行く。彼女は呪言を途切れさせる事なく、三蔵の魂魄が飛翔した方向を見詰め酷く優しく笑んだ。その姿は小さな子供のものではなく、三蔵が見た妙齢の女のものでもなかった。

 途切れた意識が戻る頃になるとなぜか酷く悟浄が辛そうな表情を浮かべて自分の前に立ち塞がったような、そんな気がした。震える唇が動き、何か呟く。聞き取れないその声を聞き返そうとした途端に身体そのものを揺さぶるような衝撃を感じて全身に言葉には出来ぬ激痛が走る。目の前の画像が二重写しになっている。覗き込んで来る、金色と深緑の瞳。それは何か辛そうに歪み、全ての感情を押し殺した無表情の緋色の瞳が見詰めている。
 何が起こってるんだ、どういう事だ!?
 そう問おうとしても意味もなく口が開閉し、荒くなった息を吐き出し、音にならぬ悲鳴にも似たものが喉を震わせるだけ。
 なのにどうしてだろう。自分の声を遠いどこかで聞いた気がした。自分の前に立ち塞がる緋色が憎くて。目的に場所に辿り着かせぬとばかりに錫杖を揮い向かって来るその姿が忌々しいと思う自分がどこかで彼を罵っている。見覚えのない天井と建物の外観。それは同時に見えるはずのない風景。
 おかしい。俺の身に何が起こってるんだ!?俺は一体どこに向かおうとしている!?

「いきなさい、玄奘三蔵。己の意志の指し示すままに。」

 先刻聞いた女の声が耳に蘇る。否、実際聞こえているのかもしれない。その声に意識を一瞬逸らした、その次の瞬間だった。左肩から右の脇腹にかけて激痛が走る。叫び出しそうなそれは焼けつく灼熱のようだった。
 目の前にいた三蔵の身体がずるずると悟浄に縋るようにして崩折れて行く。べったりとへばりつくのは血に良く似た液体。それは悟浄の身体を紅く染め上げ決して取れないもののように汚して行く。それは幻だけれども、確かに三蔵の血液を同じものの匂いがした。顔にかかった返り血をぺろりと舌で舐め取れば微かにある塩っぽさと錆びた鉄の匂いと生臭さが口の中に広がって行く。最初に倒したモノが撒き散らしたのはただの泥水だった。だんだんに血の色と匂いが濃くなって行くのは三蔵自身にその魂魄が戻っている証拠。おそらくは後1回。その後1回、自分の心が平静を保っていてくれれば。その後どうなろうと知った事か。悟浄は些か捨て鉢気味にそう思い、その考えを振り払うように頭を軽く振る。どこかが荒んで壊れて来ている。愛しい命を摘み取って正気でいられるわけがない。けれど、正気を保っていなければ、これから先がなくなってしまう。
「後少しだから。」
 呟いた途端、膝が笑い、腰が砕ける。一瞬にして土に帰る事のない土塊の人形が限りなく本人に近い事を教えてくれてその光景が自分から力を奪っているのだと悟浄は自嘲を浮かべる。事実はきちんと理解している。それなのに幻に脅え、宛ら自分が彼を殺してしまったかのような恐怖感を抱え込む。判っているのに寒くもないのに歯の根がかたかたと鳴り始め、全身が脱力したように崩れて思わず建物の壁に強か腕を突っ張った。
「悟浄!?」
 八戒の声を遠く聞いた気がして、悟浄はまた笑みの形を変える。見えるワケではないだろうけれど、いつもと同じ斜に構えて皮肉げな笑み。これを浮かべる事が出来る限り大丈夫だと己に言い聞かせてゆっくりと体勢を立て直した。
 

 

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