おもひとげねば(6)

「ああぁぁっ!!」
 それは聞くに耐えない断末魔の声で、床に横たえられていた三蔵の口から留まる事なく漏れる。八戒は一度そちらを振り返り、明かり取りから外の悟浄を窺った。伏せろ、と言う自分の指示に従って身体を地に伏せた後、全く動く様子がない。
「悟浄!?」
 呼べど叫べどその様子は変わる様を見せず、居ても立ってもいられずに八戒は踵を返した。合図があるまで開けるな、と言われはしたものの、これ以上は何かあったとしても悟浄の心と身体が耐える事が出来ないし、対応する事も難しい。それくらいならこの場を悟空に任せて自分が側にいてやりたい。悟浄が手を下す事を望んだら、その望みを叶えてやる事は厭わない。けれど、身を守る術がそこにあるだけでも違う、そう思った。
「八戒!」
 扉に向かう八戒を悟空が呼び止める。渡した耳栓を外しているのはどういう事なのだろうか。
「どうか?」
「三蔵、戻った…。」
 たどたどしく単語を連ねて放されたその言葉の内容に目を見張り、扉から身を翻して三蔵に歩み寄れば先刻まで生気がなかった紫電の瞳はいつもの強さを取り戻していた。
「…何が、あった…?」
 掠れた声が問う。指先一つ動かすのも大儀そうな三蔵の額や首筋に手を当てて身体の様子を窺うが、何もかもが通常の状態を取り戻していてあの弱い息を吐き出していただけの状態から脱する事が出来たのだと判る。
「貴方、棺桶に片足どころか腰まで突っ込んでたんですよ。倒れる前に見た、あの半透明な手、覚えてます?アレのせいで。」
 蘇生、と言うのとは少し違うかもしれないが…死地から戻ってきた直後のせいだろうか、今ひとつ回転がついて来ないのであろう頭を軽く振ると三蔵はくるりと周囲を見渡した。次の瞬間、鮮やかに眉間に皺が寄る。
「…悟浄は?」
「…貴方を呼び戻すために、刻苦奮闘してました。迎えに行って来ます、貴方は戻って来たんですもの。」
 身体よりも心に大きな傷を追って。自分が癒せるのは身体の傷だけ。心の傷は貴方に任せるから、だから、僕に行かせて。
 そんな思いを込めて八戒が三蔵の紫電の瞳を覗き込むと動く事すらままならない自分では何も出来ないと判断したのか、溜め息を一つ吐いて三蔵は緩やかに頷いた。
「悟空、三蔵を頼みますね。まだ暫くは動けないと思いますから。」
「判った。」
 大きく頷く悟空ににっこりと微笑んでみせると八戒は常よりもかなり荒っぽい動作で扉を開け、悟浄に走り寄る。漸く身体を動かす気力が戻ったのか緩慢な動作で身を捩る悟浄に手を貸してやり、上半身を自分に預けさせると八戒は悟浄の身体に掌と視線を走らせた。
「大丈夫ですか?怪我とかないです?」
 問う言葉に応えはない。ただ、細い息を吐き出して視線を地に落としている。それは表情を作る事すら出来なくなった彼の最後の壁。暫くそうして自分を奮い立たせて後、いつもの笑みを取り戻すのだろう。
「三蔵、戻りましたよ。良く頑張りましたね…。」
 こんな言葉、何の慰めにも、励ましにもならない事くらい、八戒も十分に自覚している。けれど、何も言わずにいるにはその沈黙は重過ぎた。
「八戒…。」
「はい。」
「今のウチにここを出よう…。」
 訥々と呟かれる声に八戒はゆっくりと、そしてしっかりと頷く。
「華俐が抑えている、今のウチだ。」
「そう言えば、彼女は…。」
「多分、守護者を抑えてる。あの抑えがなくなったら、また同じ事の繰り返しだ。」
 よくよく気を配ってみれば森の聲は一点に向かっていて、その方向で彼女と守護者の攻防が繰り広げられているのだと判る。
「ええ、ここを出ましょう。借りっぱなし、と言うのも少し居心地が悪いですけどね。」
 軽く冗談を交えて少しだけ声を発てて笑う。意識して笑ったのだと悟浄にはバレてしまうかもしれないけれどそれでもいい。この状況で笑う事が出来ると示してやる事で悟浄は安心するし常の笑みを取り戻す事が出来る。悟浄は他者の感情を糧に自分を笑ませているのだ。それは日常が八戒に教えた事。
「さ、行きましょう、立てますか。」
「ああ。」
 未だ俯き加減ではあったけれど悟浄は八戒に肩を借りて立ち上がる。その疲労困憊と言った風情は少し休ませてやりたい気もするが悟浄の言葉通りだとすればここに留まる事は悟浄の身体に負担をかけるだけだ。足を引き摺るようにして前へ前へと進むその姿は先日の三蔵とそう変わりない。五角形の建物の前に着く頃、悟浄は漸く顔を上げた。その口元には常の笑み。少し罅割れているけれどそれでも彼が日常に戻ろうと努力している事は伝わって来る。
「悟空、三蔵を運んで下さい。ジープ、行けますか。」
 建物の入り口で声をかけると白い柱の下からいつの間にか三蔵の傍らによっていた小さな竜が外に飛び出して変化を終える。そこに悟空が三蔵に肩を貸すようにして歩み寄って来た。ジープの助手席に三蔵を乗せ、今度は悟浄に手を貸して悟空が後部座席に乗り込む。
「少々荒っぽくなりますが、しっかり掴まってて下さいよ!」
 少々どころではない荒っぽさに事情の説明を受けていない身であっても事態が急を要している事が判って三蔵と悟浄に目を走らせながら悟空はしっかりとジープの縁に掴まった。木の根に乗り上げてがくんと車体が揺れる度に三蔵の口から辛そうな呻きが漏れたがそれを気に留めている暇はない。辛いのは判るのだが、これ以上事態を悪化させない最善の方法はこの森から出て行く事。それだけなのだ。
「八戒!右だ!」
 突然悟浄の強い声が響いて八戒は指示通りにハンドルを切る。
「悟浄!?」
「まだだ…今度は左!来るぞ!」
 木々の狭間と言う悪条件の中、何を予感して悟浄が指示を出しているのか過ぎ去った箇所をミラーで見て八戒ははっと息を飲む。そこには意識を失った三蔵の周囲と同じ死滅した草木。
「抑えてるんじゃ…。」
「抑えてるからこの程度だ…左2時!」
「はい!」
 この事態に対応出来るのは悟浄だけだ。指示に従う事に否やはない。八戒が指示通りハンドルを切り続ける間、悟浄は助手席に腕を回し振り回される車体から三蔵の身体がずり落ちてしまわないよう支えている。良く見れば、三蔵の目は力を失っていなくとも歯の根が合っていないのかがちがちと音を発てている。本能的に刻み込まれてしまった魂魄を奪い去られる恐怖に似たものが三蔵から身体の力を奪っているのだろう。
「もう少しだからな、三蔵。…八戒、右10時!」
 八戒が指示通りハンドルを切った瞬間、ジープはまろび出るように森から飛び出した。大きな息を吐いて振り返れば、数刻前とはすっかり様変わりした森の姿が目に入る。
「切り抜けられました…?」
「多分。」
 呟きながら悟浄は三蔵から手を離し、ほーっと大きな息を吐いた。日頃豪胆ささえ窺える悟空も胸を撫で下ろす。
「少し休ませてあげないとダメっぽいですねえ…。」
 ジープもエンスト寸前だ。このまま強硬に進めば次の街に着く前に熱を出しかねないと八戒は溜め息を吐く。
「大丈夫だろ。」
 そう言って悟浄はジープから降り、すたすたと森の境目に進んで行く。ぎょっと目を見張るのはそれを見ていた八戒と悟空で三蔵はぐったりとその後ろ姿をミラー越しに見詰めているだけだ。
「…大丈夫か、華俐?」
『ああ、済まなんだな、巻き込んで。』
 森の1歩手前、事もなげに悟浄が呟けば半透明の姿で現れたのはあの緋色の髪の道士。ただ、彼らの知るものとは違う妙齢の女性の姿を持っていた。
「西へ、行きたいんだ。」
 悟浄の囁くような声に彼女はふわりとある一点を指す。進路がズレてしまっている事に気付いて八戒は地図を広げ、悟空は三蔵をジープから降ろし。ジープは白い竜の姿に戻って八戒の肩に舞い降りた。
「アレは、何だったんだ…?」
 呟く三蔵の声。何の説明もなかった事に悟浄は漸く気付いた。自分の事だけで精一杯で、ここから脱出する事が最優先で何一つ説明を受けていないのは最大の被害者である三蔵だ。
『この森の守護者だ。かつてここには街があった。仏教寺院と異なる信仰を持っていた、ただ、それだけで。我らは全てから抹消された。彼らには忌々しかったのだろうな、禁じる奇跡を次々に起こす我らが。』
「で、アンタは…。」
『済まぬな、嘘を吐いた。我はヒトに在らざるモノだ。我はここにかつてあった街であり、この森でもある。』
「化生…。」
 三蔵の小さな呟きに彼女はふわりと笑う。問うた悟浄だけが何か気付いていたのかただ目を伏せた。
『僅かな生き残り達は、この地に住まっていた仏法僧を贄としてこの守護者を作った。…もう、その行き残りもおらぬ…。』
「それが、貴方の師…?」
 八戒の呆然とした呟きに彼女は小さく頷いた。では、あの半透明の腕を持つ守護者は、彼女が大切に思ったヒトの成れの果て、と言う事か。
『あの方が命を奪う事に我が耐えられなかったのだ。…いきなさい、己の意志に示すままに。』
 その言葉は虚ろな意識の中三蔵が何度も聞いたもので、思わずきかない身体を忘れてずるりと足を踏み出す。すぐによろけて悟空に受け止められたが、それでも三蔵の足は止まらない。
『この森で、我はあの方を封じて行く。この森が消え去るまで。この森が消えた時、あの方はまこと自由になられる。それが我の選んだ…そして我の意志の示す道。』
「アンタ、だったのか、あの声は。」
『不躾な事を言ったな。済まぬ。けれど、あの時はああ言うしかなくてな。』
 何かを吹っ切ったような彼女の笑みは深くなって、元から淡かった姿は森に溶ける。
『森に踏み込まぬ限りは守護者がそなたらに危害を与えるような事はせぬ。我がさせぬ。少しは寛がせてやりたかったが…済まぬな…。』
 最後にそう言い残して、彼女は消えた。彼女は森であり、街でもある、と言った。それは命を産み出し、育み、慈しむ場所。女性の姿を持っているのは当り前の事であり、自分達を守り歓待したいと望んだのも当然の事だった。彼女は本当に命をヒトを愛していただろう。
「地図から消えた街ではなくて…この世界から消えた街になったって事ですね…。」
「この森も消える…。」
 あの樹仙の髪や瞳が紅かったのは本来のものなのか、禁忌を破ったからか、それともこの狂い始めた世界がゆえかそれは判らない。けれど、あの緋色の髪の樹仙は己が消えるその時まで愛しい男を抱き締めて生きるのだろう。それが他人から見て幸せな事なのかどうか、そんなコトは関係がなくて彼女が望みまたその強い意志が指し示した道なのだ。
「守りたかったのは、愛した男だったのかもしれねえな。」
「そうかもしれないですね。幸せそうだったじゃないですか、彼女。」
「幸せなんざ、本人にしか判らねえからな。」
「いいよな、大好きなヒトと一緒なんだからさ。」
 楽天的かもしれない。この森が消える事で誰かが被害を被るのかもしれない。彼女が愛した男を選んだ事でこの森に住んでいる命が消えて行く。そんなエゴも彼女は全て背負って、幸せに笑う。それならばそれでいい。そう言って笑うヒトがいて良かった、と悟浄はふわりとした笑みを浮かべた。あの心が壊れそうな苦痛も無駄ではなかったと。
「ま、誰だって我が侭なモンさ。それでいいじゃんか。」
 俺も俺の意志の示すままに。俺の持っている全てを使ってあの命を守って共に生きて行くから。ヒトなんて…命なんて、みんなそんなモンだろ?俺もアンタも自分のためだけに生きて行くのさ。あの、命のために。
 呟きは小さく。誰の耳にも届く事はなかったけれど、目前の森の聲がさわりと笑うように響いた。
 

 


 

 

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