どれほどの時が経ったろう。大した長さではなかったかもしれないし、随分長くも感じた。それぞれが建物の外に気配にぴくりと耳を欹てる。それは確かに見知った三蔵のもので思わず部屋の中央に横たわっている三蔵の姿を確認してしまったほどだ。
「悟空、三蔵見てろ。八戒、俺が表に出たら扉の閂降ろして。俺から合図があるまで絶対開けるな。」
いつの間に扉の前に立ったのか、観音開きの扉に手をかけながら悟浄がちらりと室内を振り返る。悟空は三蔵の傍に、八戒が悟浄の背後に立つのを待って悟浄は薄く開けた扉から転がり出るように表に飛び出した。他の魂魄と凌ぎを削る前にここに辿り着いてしまったのだろう三蔵の『欠け片』は本来よりもずっと動きが鈍い。対峙するなり悟浄は腰の辺りを狙って強かな回し蹴りを入れてやる。体勢を崩した所を追うように錫杖を召喚し一気に畳み掛けた。ざしゅ、と鈍い音がして血に良く似た液体のような物体が悟浄に降り注ぐ。それは一瞬悟浄を常よりも紅く染め上げて、あっという間にどろりとした土の色した何かに変わって行った。
「悟浄!」
小さな明かり取りの窓越しにその光景を見詰めていた八戒の悲痛とも言える声が呼ぶ。それは悟浄本人よりも傷みに撓んでいるように思えた。だから悟浄は何でもないように笑う。
なんでもない、これはただの土塊なんだから。
その言葉が自分に言い聞かせるような響きを帯びている事に悟浄はすぐに気付いたがまだ最初の1つ目だ。始まったばかりで堪えていてはこれから先何も出来ない。
「三蔵の様子は?」
八戒の顔が辛うじて見える明かり取りから室内を覗き込めば悟空の表情が幾らか明るくなっている。それが三蔵の状態が良くなっている事を知らせて来て、悟浄は軽く息を吐いた。
「今、少し指が動いたよ。」
にぱ、と笑う悟空は本当に嬉しそうで、悟浄も八戒も思わずつられて笑った。この調子で行けばそれほど長引かないで済むかもしれない。そう思って八戒に扉を開けるよう指示を出そうとした、次の瞬間。悟浄は弾かれたように振り返った。そこには酷くイヤな笑みを浮かべた三蔵の姿がある。
「んだよ、一服する時間ぐれぇ、くれっての。」
人を見下したような視線は過去に良く見たもので、三蔵の中でも案外表層に近い部分なのだと判った。もしかしたらついさっき打ち倒したモノよりも手強いかもしれない、と悟浄は錫杖を握る手に力を込める。日常の刺客との戦闘と同じように相手を打ち倒す事を目的とした足運びで踏み込んだ悟浄の間合いから三蔵の『欠け片』はあっという間にまろび出た。とっさに錫杖を振り回し、三日月型の白刃を飛ばし、その鎖で搦め取る。上手く背後に回り込んで逆端の白刃でその白く細い背を一閃した。1体めと同じように血に良く似た何かを撒き散らしながら『欠け片』は土に帰る。
…結構、クるかもしんねぇわ、こりゃ…。
肺の奥底から全ての空気を吐き出してしまったような溜め息を一つ吐いて顔に纏わりついた土色を腕で拭い去るとポケットから煙草を取り出して咥える。三蔵の意識がなくなってから全く口にしていなかったそれは肺に酷く馴染んだ。
「八戒、俺、ここで一服するわ。中だと捨てらんねえし。…三蔵に耳栓してやんな。後、悟空にも渡しとけ。必要なら、お前もな。」
「悟浄?」
「多分、これから来るのは今までとちょっと違う。聞きたかねえだろ?」
三蔵の、断末魔の声なんざ。
飲み込まれた悟浄の言葉に八戒は青ざめて頷いた。明かり取りから八戒の姿が消え、室内で何か遣り取りしているのが聞こえる。ずきずきと胸と背中が痛んだ。それはあの半透明の手が突き抜けた痕。悟浄の身体に残った術式の名残だ。
「あ、八戒。お前、ここから見てねえで悟空と一緒に三蔵押さえとけ。下手すりゃ暴れるぞ。」
もがく、と言うべきだろうか。『欠け片』が大きな力を備えていればそれだけ本体への影響も大きい。切れ味は決して鈍る事なく、一瞬にして人体くらい切り裂ける錫杖を持ってしても全く苦痛なしで命を絶てるわけではない。上手く急所に入って瞬殺出来ればいいがそれも保証出来る事ではない。実際、たった今間合いを外されたばかりだ。
もがき苦しむ事によって三蔵の身体に影響が出る事も頂けないが、この光景を見続ける事によって八戒や悟空の心に影響を及ぼす事も同じくらいに頂けない。自分の心や身体はもう捕われてしまっているのだから、それは仕方がないとしても、だ。
「でも悟浄…。僕が出ますから、悟浄が押さえていて下さい。」
八戒の声と視線から逃れるようにして悟浄は明かり取りの真下にしゃがみこむ。八戒が気遣ってくれている事は判る。けれど、これだけは譲れない。否、譲らない。あの命を奪うのも、守るのも、自分でありたい。
「さーんきゅ。」
ぼそりと見えない位置から呟かれた言葉に八戒は溜め息を吐いた。交代する気はないのだ。自分の心にどれだけ負担がかかったとしても。例え、意識を取り戻した三蔵に罵られたとしても。それは滅多に吐き出される事のない悟浄のはっきりとした意志表示。それが例えエゴの固まりだったとしても八戒にはそれ以上かける言葉はない。ゆっくりとした動きで悟浄の背中が八戒の視界に戻って来て今度は明かり取りのフレームから横にスライドしてしまう。そのフレームの外側から微かに見える空を舞う白刃。鎖が擦れる甲高いイヤな音。金属同士が当たり合う鈍い音が、一合、二合。立て続いて聞こえる銃声に良く似た響き。
「三蔵!」
外に意識を向けていた八戒の耳に飛び込んで来る悟空の悲痛な声と、物をひっくり返したような場違いに鈍い音。振り返れば、部屋の中央、音にならない声をあげて床をのたうち回る三蔵の姿。伸し掛かるようにして悟空が取り押さえはするが力の差がどれだけあろうとウェイトと死に物狂いの抵抗は翻しようがなく、悟空の手はあっという間に振り解かれてしまう。慌てて走り寄り悟空と共に取り押さえれば、見開かれた紫電の瞳に生気はない。あの『カミサマ』との初戦直後、幽鬼のように寝台を彷徨い出ては悟浄に取り押さえられていた時の姿と似ているような気がして、八戒は背筋が薄ら寒くなるのを感じた。
「早く…っ。早く何とかしてくれよっ…。」
呻くような悟空の声はおそらく強引に付けさせた耳栓のために悟空自身の耳には届いていない。それでも三蔵の荒い吐息に混じって八戒の耳には確かに届き、悟浄がこの室内に自分と悟空を残した理由が判る。
『貴様ぁっ!』
建物の外、壁越しにくぐもった『欠け片』の叫びが響き。八戒は思わず目を閉じた。凄まじい、と形容出来そうな怨嗟の声。肉体と言う殻がない剥き出しの魂は聖も邪も善も悪も全てをダイレクトにその身に示す。あの怨嗟は真っ直ぐに悟浄の胸に届いているだろう。大切だと思う人の、愛しいと思う人の深く暗く強い怨嗟は悟浄の強く脆い心に新しい傷を作るのだろうか。
びくり、と押さえていた三蔵の身体が大きく跳ねて。暴れる事ですっかり着乱れてしまった法衣の襟足から覗く白い肩に緋色の線が一筋描かれる。それからもう一度、一際大きく跳ねた細い身体が身動ぎ一つ取らなくなった頃、建物の壁が強か叩かれるような音が響いた。
「悟浄!?」
明かり取りにへばりついて様子を伺ってもどうしてもフレームから飛び出してしまった位置にいるらしい悟浄の姿は見えない。ただ、微かに見え隠れする悟浄の腕はそれが『欠け片』に付けられた傷が元なのか、『欠け片』のものなのか判別がつかないほどに真っ赤に汚れていた。
「…後少しだから…耐えて…。」
呟かれた声は誰のモノか。誰に向けられたものか。
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