おもひとげねば(2)

 口で言われるほど狭い建物ではないそこは、随分と特殊な建築様式らしくあまり見かけない建物だった。幾重にも取り巻くのは全て五角形を基調とした図案と鮮やかな色彩ばかりであまり長い事見ていると目が回りそうだ、と悟空が零す。建物に着いてすぐ案内された小さな廟もまた五角だった。その真ん中に長椅子が配されている。材質はどうやら藤か何からしい。自然に恵まれた森の中らしいそれに三蔵をそっと横たわらせると皆で話したい事もあろうと一言言い置いてここまで案内して来た人物は消えた。彼の人には彼の人なりに遣るべき事がここであるのだろう事は宗派こそ違え、三蔵を見て来た彼らならばすぐに察する事は出来た。
「ところで、どういう事なんですか?」
 口火を切ったのは八戒。訊きたい事は山ほどあって、うずうずしていたのは悟空も同じだ。
「誰だか判んねえけど、あれはきっちり行を積んだ道家…道術士だ。」
「あの手のようなモノは、道術なんですか?」
「ああ。」
 きっぱりと言い切られる言葉に悟空は小首を傾げる。そうかもしれない、と言うなら判る。自分達は自我を失い暴走している妖怪とは言え、何度となく戦っていてその中に今回のようなモノ---その時は幻術だったが---を操る者もいた。それと今回と何が違うと言うのだろう。何が悟浄をここまで断言させる材料になったと言うのか。
「庇ったろ、俺。」
「ええ。」
「あん時、ココにアレが入って、判った。あれは道術だ。しかも、結構高度な。」
 とんとん、と先刻腕のようなモノが吸い込まれた胸を親指で突きながら悟浄は溜め息を一つ零す。胸から背中に突き抜けて三蔵に触れた時、どう変化していたのかまでは見えなかったから良く判らない。けれども、胸を突き抜けていくそのイヤな感覚とほんの僅かな彼の人の説明である程度理解出来た。アレがなんであるのか、という事。
「三蔵の魂魄は根刮ぎ持って行かれちゃいない。だからアイツはこの部屋を貸してくれたし、俺に手を貸せって言ってきたんだと思う。」
「…待って、だってあの人…。」
 守護者は根刮ぎ魂魄を攫って行って、殺してしまうのだ、と言った。だからあの人物が敵だと認識したのに。悟浄が信じると言ってしまったから、真っ正面切って敵対する事が出来なくなってしまったけれど、何かが判るまではここは敵地のど真ん中で何があっても三蔵を守らなくては、と決心したのに。
 そんな悟空の混乱を言葉にされぬままでも理解したのか、悟浄は笑う。実際、この混乱は悟空だけのものではなく八戒のものでもあろうからだ。
「魂魄を根刮ぎ奪われたら一発であの世行きだ。息だって心臓だって一瞬で止まっちまう。意識はなくても、三蔵の身体がまだ生きてるって事は魂魄が残ってるって事だ。…多分、一魂一魄ぐれえだろうけどなあ、残ってんのも。俺の身体じゃそれが限界だったな。」
 最後の一言は限りなく独り言で、悟浄くらいに知識がなければ何を言っているのかさっぱり判らない。いくら博学と言っても八戒の知識にも限界はあったし---五行大義の大雑把な理論くらいは知っているが---悟空に至っては一般教養の中にも怪しい部分があるのだ。おそらくこういった事に関しては今現在意識のない三蔵くらいしか判るまい。
「貴方…何をしたんです?」
「そんなつもりがあったわけじゃねえがな。俺の身体を通過する事で三蔵の魂魄全てを奪うだけの力が発揮されなかったんだ。」
「じゃ、三蔵はまだ大丈夫なの!?」
「魂魄さえ取り返せればな。この部屋は失われた魂魄の箇所を補って三蔵の命を繋ぎ止めてくれる。少なくとも残った魂魄を失わない限りは……目は覚めなくても、生きてはいる。」
 目が覚めていなければ、死んでいる事と変わりはない、と思う自分もいるにはいるが。戻る器が死んでしまってはどこにも戻る事も出来ず、奪われた魂魄はただ彷徨うばかり。そんな幽鬼に三蔵を貶める気は欠け片もない。
「貴方が辛いって言うのは…。」
「そこまでは判んねえよ。」
 これ以上踏み込ませない。そんな意味を込めて呟かれた言葉と反らされた視線に八戒も悟空もそれ以上問う事は出来なかった。本当は問い詰めたいのだ。どうしてこんな事を知っているのか、だとか、どこで知ったのか、だとか。あまりにもこの道の造詣が深過ぎやしないか、と。
「兎も角、三蔵は助かるんですね?」
 けれど問いを全て飲み込んで八戒はそう結論を投げる。これ以上この居心地の悪い沈黙に耐える気はなかったし、答えさえ見付かれば後はその答えに辿り着く方法を見付ければいい。望む答えは三蔵の無事。それだけなのだから。
「ああ、助かるさ。」
 悟浄の低い呟きに、扉を叩く音が被る。一斉にそちらに意識を向けた彼らに先刻席を外し、更に前にここまで連れて来た人物が苦笑を浮かべた。
「話は済んだか?失礼して構わないか。」
「ああ、大体はね。後はアンタに説明して欲しいトコばっかりさ。」
「いいえ、後一つ、あります。」
 二人の間に八戒が口を挟む。専門的な話になればまた入る事は出来なくなる。その前にこれだけは訊いておかなくてはならない事。
「なんだ?」
「悟浄はなぜ、貴方を信用する気になったのか、です。」
 特別言葉を交わした様子はなかった。全ては自分達の目前で行われた事で判断する基準になるような物は何もなかったと言える。自分達はこの人物を信用するに足ると確信出来るだけの材料を提示された覚えはないのだ。
「…この法衣のせいだろう?違うか。」
「アンタ、誰か亡くしてるだろう?あの、守護者とやらのせいで。」
「ああ。師であった。仏法僧でありながら道家にも造詣が深く我に相手を理解せよ、と様々を与えて下さった。」
 言葉は淡々としているが、どう見てもその面は幼く、その外見から推測される年齢からするに師と言う人物を亡くしてからそう年数は経っていないのだろう。けれど、どうして悟浄がそれを理解出来たのかが判らない。八戒が軽く小首を傾げると彼の人物はくすりと小さな笑みを零した。
「この袖を抜く着方は喪に服している者だけがする。我は生涯この袖を通す事はない。守護者から命を守るためならば。」
 つ、と細い指に摘ままれるのは墨染めの衣。それは誓いの言葉。生涯を賭けて成し遂げるべき事のある人物の。同じように傷を負い。それでも真正面を睨むように生きる人の。不意に悟浄はその姿がどこか三蔵と重なった理由が判った気がした。
「アンタは、泣かないの?」
 ぽつ、と呟くように言われた言葉にはっと視線を向ける。会話の糸口が掴めなかったからなのか理解出来なかったからなのか、その判別は付け難いが、それまでずっと黙っていた悟空の言葉。それを聞き、その人物はふわりと微笑む。
「嘆く事はない、と仰しゃられた。我の命は我のための物で、我が思うように生きれば良いと。それゆえ我は命を守る事を選んだ。…御坊の魂魄は我が責任持って守護者から解放しよう。ただ、その先はそなたらに頼む事にはなろうが。」
「どういう事です?」
「守護者から直接取り戻す事は出来ぬのだ。あの手から無理に離させる事までは出来ても。解き放たれた魂魄は肉体に戻ろうとする。その折に散った魂魄同士が互いに凌ぎを削り合う。…強い魂魄は器と同じ形を取る。最後まで残ったモノが、新しい器になるからだ。」
 淡々と紡がれる言葉に八戒が眉を寄せる。悟浄はきゅ、と唇を噛み締めた。
「…ペルソナの交代劇に似てますね、主人格、副主人格…。」
「この器のこの三蔵を取り戻したければ、そのそっくりさんを倒せって事か…。」
「そうなる。だが、その同じ姿を持つ者も同じ御坊だ。血すら流れよう。耐えられるか。」
 幻や土塊の人形とは違う。それは魂魄の欠け片とは言え三蔵自身。それを容赦なく打ち倒す事が出来なければ本来の三蔵を取り戻す事は出来ない。そういう事だ。だからこそ辛い事と何度も繰り返したのだ。
「…もし、その三蔵を倒せなかったら…どうなるの…?」
「その肉の器は新しく力を得た魂魄に奪われて、そなたらの知る御坊ではない御坊が生きる事になろうな。」
 正しく人格交代だ。下手をすれば記憶すらも失われるかもしれない。同じ『三蔵』とは言え自分達の見知った姿を持った全くの別人になってしまう可能性もある、と。
「アンタ、どうしてそれを俺達にさせようって言うんだよ!?」
 簡単に出来るものか。口で言うほど優しくはない。自分達を確かに繋ぎ止めていたのは三蔵で惹かれ導かれ---彼は嫌がるだろうが、ここまでついて来た。それをいくら守るためでも同じ存在である彼を打ち倒す事がどうして容易だ。
 そんな思いのせいか思わず口を突いて出るのは責めるような声音で。俯いてしまった横顔から微かに見える緋色の瞳に悟空は自分が酷い事を言ってしまったような気分にさせられた。けれど、ここで退く事が出来ないのも事実だ。ちらりと横目で様子を伺えば八戒は難しい顔で青ざめ、悟浄は真っ直ぐに正面を見詰めている。
「…耐えて、やろうじゃねえか…。」
 ぼそり、と呟かれた言葉と。見えない何かを見据える眼光。そして握り締められた拳が悟浄の胸の内を語る。おそらく最も辛いのは彼だ。特に隠す様子もなかったし、突っ込む事もしなかったから誰も口に出した事はないが、三蔵と悟浄が互いに惹かれ合った事も求め合った事も知っている。悟浄はその求めた人物を、自分を求めてくれた人物を打ち倒すと言う事に対して何の感慨もなく機械的にこなす事の出来る人物ではない。
「で、どこまで散るんだ、魂魄は。」
「この迷境の中だ。我が閉じ込める。魂魄の揃った御坊には破られたが…欠け片ならば破れまい。それに…魂魄はここに集う。」
「じゃあ、俺達はこの道観にいればいいんだな?」
 こくり、と頷く彼の人は何を思っているのだろう。何よりも雄弁に物を語る緋色の瞳は長い髪に隠されて彼の人の表情を一切読めなくしていた。
「では、我は行く。」
「待て、後一つ。」
「…何だ?」
「アンタ、名前は?」
「……華俐。」
 くるりと踵を返し様名乗られた名に3人が目を見張っている間に彼の人物はすたすたとその建物から姿を消してしまった。
「女の子ですかい…。」
「師匠と言うより、恋人さんとかじゃ…僕、お父さんみたいな人、想像してたんですけど…。」
「いや、恋人じゃロリ……ああ!!」
 やるべき事が見えてきたせいかほんの少しいつもの軽口が戻って来て、たすっと軽い裏挙で八戒にツッコミを入れた悟浄が不意に何かに思い当たったように大声を上げる。当然、悟空と八戒は驚きのあまりきょとんとした目を向けてしまった。
「アイツー…時間、止めちゃってんのかも…。」
「そんな事まで出来るんですか、道家って!?」
「いや、詳しい事はちょっと…でも、そういうのがあるってのは、聞いた事ある…。」
「…何かさあ…それって、何か…。」
 上手く言葉には出来ないけれど、それは酷く悲しい事のような気がして。大切な人を失ったその瞬間のままずっと長く生き続ける事は本来人は出来ない。思い出は美しく変化し、掠れ、どこか消えて行くのだ。宛ら劣化してしまったフィルムのように。それなのに彼女は永遠にその鮮やかな瞬間を己に身の上に留めているのだとしたら。
「そら、ガキの方がいいって言うけどよー…。」
「ああ、子供の方が神に近いから神聖性が、とか言うヤツですよね。初潮が来た女の子は巫女になれない、とか、そう言う…。」
「そう。で、禁忌の子は道家に向いてるんだって。陰陽合わせ持ってるから。」
「じゃ、あの人、自分が一番強い状態でいられるようにしてるってコト…?」
 3人の上に重い沈黙が落ちた。
「たださあ…なーんか、まだ話されてない事があるような気がすんだよなあ、俺…。」
 かりかりと頭を掻きながら沈黙を破ったのは悟浄だった。もそもそと腰を上げ三蔵が横たわる藤の長椅子から離れて行く。
「どこ行くんです?」
「いや、折角場の力を強くする呪いかかってるんだからそれに従ってみようかと思って。」
 すとん、と腰を降ろした背後にあるのは漆黒の柱。きょろ、と周囲を見回した八戒も理解を示したように頷いてその場から立ち上がる。訳が判らない、と三蔵の傍でおたおたしているのは悟空一人だ。つくづく自分は限られた世界しか見ていなかったのだと痛感する。悟浄にしても八戒にしても三蔵にしても、どうしてそんな事を知っているのかと思うような事に詳しかったり何の説明もなしに理解したりするのだから。尤も、こういった大事に巻き込まれた時くらいしか悟空の頭にそれは浮かばず、普段は適度な好奇心さえ満たせればそれでいいのだけれど。
「ええと、僕は木の性だから青…っと。悟空は地の性だから…黄色で…ジープは…金の性だから白ですね。」
 八戒に示されてきょろきょろ周りを見ればちょうど背後に当たる辺りに黄色に塗られた柱がある。しかし、こんなに離れてしまってはろくに話しも出来ないではないか。まだまだ訊きたい事は山ほどあるのに。
「そういやさ、八戒。」
 その場を離れる前に言ってしまえばいい、とばかりに歩き始めた八戒を悟空が引き止めると八戒が足を止めくるりと振り返った。ことんと小首を傾げるのは彼が話し始める事を促す仕草。
「あの手、悟浄を突き抜けて紅くなったよな?」
「…そう言えば。パニックしてたんですねえ、華俐さんに訊けば良かった。悟浄、判ります?」
「紅く〜?判んねえよ、そんなん。俺、見てねえし。それよか、少し大人しくしとけ。長丁場になるぞ。」
 怠そうに手をひらひらと振って目を閉じてしまった悟浄はそれ以上答える様子もない。確かにこれから長い時間緊張を強いられるのだからほんの少しでも、せめて身体だけでも休ませておかなくてはいけないだろうと言う判断は正しい。悟空と八戒は顔を見合わせて薄く苦笑するとそれぞれ柱の側に座って悟浄と同じように目を閉じた。
 紅く染まった、手、ねえ。
 答えないまま目を閉じた悟浄は悟空の言葉を反芻していた。学んだ言葉ではなく本能が知った事なら幾つかあって、それを語る気にはならなかった。もしもそれを口にしたならおそらく三蔵の『欠け片』を打ち倒す役目は自分には回って来ないだろう。
 ここに集う…か。当り前だ、俺が目印ってわけだ。
 あの半透明の手が纏ったと言う緋色は悟浄の持つ色彩。それは魂の纏う色。水の性でありながら宛ら紅蓮にも似た色彩を纏うのは禁忌ゆえか。おそらく悟浄の身体を突き抜けた際に悟浄の纏う色彩を纏ったがゆえにあの術式は多少変形したのだろう。弱める効果以外にも何か齎したのかもしれない。だからこそ、ここにあの術式の影響を受けている三蔵の魂魄の欠け片は集い、本体と、そして悟浄を打ち倒そうとする。そこには不可視のそして完成された術式では考える事も出来ないような繋がりが出来上がっているのだ。そこから先の予測は全くの不可能になる。
 

 だから、俺が辛い、ね…。
 彼女が何度も口にした言葉はその予測出来ない事態の精一杯の警告だったのだろう。実際、下手をすれば共倒れだ。そんなぞっとしない事態になる気はさらさらないが。それでも最悪、三蔵だけでも。そう思う自分もいて。仮定だけでここまでの覚悟が決められる自分に腹が立つやら呆れるやらで悟浄は内心苦笑を浮かべる。今の所何もかもが予測と仮定の範疇でしかないのだ。
「ま、何とかしてみましょ…。」
 小さく呟かれた言葉は幸い部屋の隅々に散っていた旅の道連れ達の耳には届かなかった。
 

 

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