半透明な巨大な腕が真っ直ぐに伸びて来る。凄まじい勢いをもって突き付けられるそれから庇うように三蔵の前に八戒が気で障壁を張る。薄青い火花が散ったように見えたのは一瞬の事。気付けばその腕は障壁はおろか、八戒までもすり抜けて、なお三蔵へと向かう。戦闘が始まったと同時に空中に逃れていたジープの甲高い鳴き声がどこか女の泣き声じみて森に響いた。
「なんなんだよ、ソレ!?」
狙いがなんなのか判らずに一瞬対応が遅れた。そもそもそれがなんなのかすら、今でも良く判らない。けれど、ソレは遮二無二三蔵に向かって来るから。兎に角、得体の知れないモノを三蔵に触れさせるわけにはいかない。
悟空の如意棒は物理攻撃の類いを一切無効にしてしまうらしい半透明の腕には何も齎す事が出来なかった。大概のモノは弾き返してしまう八戒の気さえもすり抜けたのだ、当然と言えば当然であったろうが。
来る!
来るだろう攻撃を覚悟して三蔵が衝撃を軽減するため背後に向かって飛びすさろうとした瞬間、目前に翻る緋色の髪。あるはずの衝撃は悟浄の身体で遮られていた。
「「「悟浄!?」」」
それぞれから驚愕の声が上がり。他の何ものでも防ぐ事の出来なかった巨大な腕は悟浄の身体の内側に吸い込まれるようにして消えていた。
「早く、行けっ…。」
ひゅっ、と気管の悲鳴のような音と共に悟浄の小さな声が漏れる。じゃらりと金属の擦れる音が辺りに響き、錫杖の三日月型の白刃が空に溶ける巨大な腕を辿って見えないつけ根に向かって走る。
「そのまま抑えておれ!」
どこからともなく響くのは聞き覚えの全くない声。年端の行かぬ子供のような甲高さを持ったそれは成熟した大人の深みも備えて4人の耳に届く。新たな者の存在に4人の警戒は強まるばかりで、その場にはギリギリと緊迫した空気が流れた。
玲瓏とした声が聞き覚えのない呪文のような言葉を詠唱し始めた時、悟浄の身体と半透明の腕に変化が起こる。
ずず………
何か大きな物を引き摺るような低い音が高く低く周囲に漏れて悟浄の身体を完全に貫いた形で半透明な腕が伸びる。否、ソレは宛ら悟浄の色を映したかのような紅に染まり。ソレが三蔵の身体に触れた途端、三蔵はその場に崩折れるように意識を失った。
「「三蔵!!」」
八戒と悟空の声に反応したかのように半透明な腕は消え、錫杖の白刃が耳障りな音を発てて地表に叩き付けられる。悟浄自身も体勢を崩し、それでも背後で起こった事に反応して慌てて振り返った。ふわりと降り立ったジープが八戒の肩口から三蔵を覗き込む。
「三蔵!?」
弱々しい吐息を吐き出すばかりの三蔵にぞくりと背筋をイヤなモノが駆け抜けた。
「…間に合わなんだか…。」
それは途中で聞こえて来た、第三者の声。三蔵が倒れた事で一瞬頭から消えてしまっていたが、その声の主が姿を現した事でまた彼らは警戒心を顕にする。意識のない三蔵の身体を守るようにしっかりと抱え込み、片手で如意棒を握り締める悟空に目をやって、その二人を守る壁のように悟浄と八戒がその人物の前に立ち塞がった。
「…敵ではない。」
だから、警戒するな。
その声はまるで手負いの獣にかけるもののように穏やかさだけを伝えて来る。しかし、現れた悟浄の胸辺りまでしかない背丈の人物は全身をフードのような物で覆っており、正体が全く知れない。しかも、つい一時前まで敵と思しきものと戦っていたのだ。彼らが警戒を解く事はなかった。
「まあ…仕方がないか。当然の事だろうからな。」
溜め息混じりのぶっ切ら棒な物言いがどこかたった今倒れた人物に似ているように思えて悟浄は思い切り眉間に皺を寄せる。剣呑な視線が向けられる中、その人物はふぁさりと全身を覆っていたフードを取り去った。彼らの眼前に現れたのは悟浄と同じ、けれど、ずっと長い緋色の髪。そして、零れ落ちそうなほど大きな緋色の瞳だった。纏う服は墨染めで他はきっちりしているのに片袖を抜いているのだけが酷い違和感を醸し出す。
「…道家か、アンタ…?」
ぼそり、と呟かれた悟浄の言葉に緋色の大きな瞳を細めて目前の人物は笑う。それは無言の肯定で三蔵の意識を奪ったモノがなんだったのか、朧げながら悟浄には理解出来た。
「余計、信用出来ねえな。さっきのあれは、アンタの仕業か。」
「否。我はアレから旅人を守るためにこの辺りを巡回している。」
「アレは何なんです?」
「この先の地図にはない街を守る守護者だ。」
二人の問いに淡々と応える様はあらかじめ質問に対する答えを準備していたかのようで今ひとつ信用に足らない。そう思っているのを見抜いたかのようにその人物は目を眇めた。
「この先には、仏教寺院によって地図の上から消されてしまった異教の街がある。それゆえ、この辺りには仏法僧に狙いを定めた魂魄を根刮ぎ攫う守護者があるのだ。」
それはおそらく正義の名を振り翳した弾圧によるものか。決して異教を迫害するわけではないはずだけれど、それは今の社会だからであってかつての宗教対立の時代ではその原則も守られていないのが歴史が語る所の真実だ。しかし、そんなコトよりももっと重要な言葉をこの人物は口にした。
「魂魄を根刮ぎ…って、死ぬじゃねえか!」
「ああ、死ぬな。身体は全くの無傷だろうが。」
「三蔵は!?ソイツ、三蔵を殺したってのかよ!?」
背後から悟空の声が空を切り裂く。抱き締めた身体はまだ暖かく、吐息さえ紡いでいるというのに死んだと言うのか。意識はないとはいえ、生きている状態と何も変わりなく、状況さえ知らぬ者から見ればただ眠っているだけのようにしか見えないと言うのに。
「周りをよく見ろ。…草木が枯れているだろう?」
鋭い響きを帯びた悟空の声に全く動じる様子も見せず、その人物は穏やかに言葉を紡ぐ。言われるまま、周囲に視線を巡らせれば、確かに自分が座っている---三蔵の周囲---辺りはいっそ見事なほどに命が死滅していた。
「あの手は、命を連れ去る術を施されているのだ。…それゆえ、我がこのような事にならぬようこの辺りに踏み込む事情を知らぬ者を惑わせ、道を逸らしている。…偶々、今回はその御坊の法力が勝っておられたようだがな。」
確かに、何か結界のようなものがある、とここに踏み込んだ折り、三蔵が呟いていたのを皆揃って聞いた。それに惑わされる事なくここを抜ける事が出来るのは三蔵だけという事実のために、三蔵が道案内をするように先頭を歩いて。そして、あの半透明の腕と戦いになったのだ。
「助ける方法は、ないんですか?」
深緑の瞳が鋭さを増して。すい、と一歩踏み出した。その人物もつかつかと歩み寄って来る。森の中、半端に開けた木立の間で下草がかさかさと音を発てた。暗い迫力さえ漂わせる八戒を無視して悟浄の目前に立つとその人物はぺたりと先刻半透明の腕を受け止めた胸に手を当てる。
「そなたもあの御坊をお助けしたいのだな?」
「ああ。」
「ならば手を貸してくれはしまいか。…そなたには、辛かろうが。」
「…どうして、俺だ?」
方法も、罪科も、問うたのは自分ではなく。それなのにわざわざ自分に対して宣言して来る目前の人物の意図が判らない。自分達の共通点は禁忌とされる緋色の髪と瞳を持つと言う事ぐらいだ。
「…では、我も問おう。そなた、道家にいた事はないか。」
己の姿を見るなり問うてきた悟浄をその人物はきっちりと把握していた。この衣類に違和感を覚える者は少なくない。けれど、一目でそうであると判る者は少ない。仏法僧ですら己と異なる開祖を持つ者かと勘違いする者さえあるのだから。
「我を信用してくれなくとも構わぬ。が、守護者がゆえに人命が失われるは我が本意ではない。それだけは信じてはくれまいか。」
「信用しろって事じゃねえの?ソレって。」
「守護者から旅人を守る。それはこの法衣に誓った事。」
道家に関りを持った者ならば判る、着崩された法衣の意味。煌めく緋色は決して偽りないと訴えて来て、その無言の迫力に悟浄は乾いて行く口の中を誤魔化して唾液を飲み下した。
「判った。アンタを、信じる。」
「「悟浄!?」」
基準が判らない八戒と、遣り取りそのものが判っていないだろう悟空の鋭い声に悟浄は二人には追い追い説明すればいい、と口元を歪めて皮肉な笑みを作って見せる。
「では、その御坊を我が道観へ。手狭でむさ苦しい所ではあるが暫し辛抱されよ。」
くるりと踵を返す人物に付き従うように悟浄が歩を進めると説明を求めて八戒が見詰めて来る。それにともあれ続くようにと顎で先を行く小さな背中を示しながら悟空に向かって来いと手を差し伸べた。
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