そして全ては始まった(2)

「三蔵」
 

声をかけられて、俺は自分がぼうっとしていたことに気が付いた。一気に自分の胸のうちを吐き出して、気が抜けていたらしい。
座ろうぜ、と促されるままにそれぞれのベッドに腰掛ける。

そんな俺を見て、悟浄は笑みを浮かべた。穏やかな笑み。吸い寄せられるように見つめると、ふっと視線を外された。今更ながら、自分が奴に告げた事の意味を思い、知らず、鼓動が早くなる。

「今なら、まだ大丈夫だけど」
視線を外したまま、悟浄が口を開く。

「?」

言われた意味が理解できず、訝しがる俺の視線を感じたのか、奴は言葉を続けた。
「今なら、聞かなかったことにできるぜ?もし、勢いで、つい言っちまったってんならさ」

‥‥‥何だと。俺は静まっていた心が再びざわめき立つのを感じた。

気持ちを受け入れてもらえないのは仕方がない。嫌がるこいつに無理矢理自分の気持ちを押し付けるつもりは毛頭ない。(だからといって、すんなり諦めるつもりもないが)

だが、今こいつが言った事はそうではない。俺の気持ちを拒否する以前の問題だ。
それが、お前の答えか?何も無かったことにしたいのか?

「‥‥ふざけんな」

怒鳴り散らしたい心を抑えて、ようやく搾り出した声は、怒りのあまりか自分でも滑稽なくらい震えていた。

悟浄は目を閉じ、ひとつ大きく息を吐き出した。相変わらず笑みを浮かべている‥‥‥何笑ってやがんだ、こいつは。何笑いながら‥‥。
俺が思わずついたため息は、幸い悟浄には聞こえなかったらしい。変わらぬ口調で話しかけてくる。

「お前、自分が何を言ってるかわかってる?」
「当たり前だろうが!」

気持ちが伝わっていないのか?どう言えば本気だと信じてもらえるんだ?
さっきから俺の心は疑問だらけだ。

俺の心の葛藤を余所に、悟浄がゆっくりと目を開けて俺へと向き直る。
「三蔵はさ‥‥どういうつもりで言ってんの?この旅の間だけお付き合いしましょーって意味?それとも‥‥」
言いよどむ悟浄に、俺はようやくこいつが何を言いたいのかわかったような気がした。

「悟‥‥」
「お前は、最高僧だ」
遮るように言葉を発する。
「‥‥」
「俺は、禁忌の子だ‥‥‥それがどういうことかわかるよな?」

「そんなことは‥‥‥」関係ない、と続けようとした俺を片手を上げて奴が制した。

「旅してる間は、まあいいよな。‥‥時々宿に泊めて貰えなかったりするぐらいで、別段支障はねーよ。けど、この旅が無事に終わったとしてどうよ?お前は寺に帰って三蔵としての責務を果たす。だよな?まあ、それでも時々会うくらいは何とかなるよな、寺のじいさん達の目を盗んでさ」

けど、と悟浄は続けた。

「いつか必ず来るんだよ、俺か、『三蔵』の称号かを選ばなきゃならない時が。上から命令があるかもしれねぇし、寺の坊主たちや、下手したら檀家から突き上げを食うかもわかんねぇ。あ、そうだ。お前の縁談なんてのもあるかもな。檀家の有力者の娘とかとさ。ああゆーのって、結構本人の意思お構いなしじゃん?」

捨てられないっしょ?お師匠様から貰ったものだもんね。
そう告げる悟浄の口調は軽いものだったが、そこに込められる奴の気持ちを読み取ろうと、俺はただ黙って聞いていた。

「誤解すんなよ。別に自分のことを卑下してるつもりはねーし‥‥お前の本気を疑ってる訳でもねーよ。けどな」
ふ、と一呼吸つき、額にかかる長い髪をかきあげる。
 

「それが、現実だ」

続けられた声が、静かな部屋にやけに大きく響いたように感じた。
 

 


「‥‥‥で?」

俺は奴から目をそらさずに、ようやく口を開いた。
「だから何だ?何時くるかわかりもしない別れの為に、俺の気持ちを受け入れられねぇってのか?、貴様は」

さっきから悟浄の話を聞いていて、気付いたことがいくつかあった。一つ目は、こいつが自分の気持ちを口にしていない、ということだ。
もし、全く俺の気持ちに応える気がないのなら、こいつの性格からして「ワリ、俺その気全然ないわ」と速攻で返答するだろう。
その気もないのにはっきりした答えを与えないほど、こいつは馬鹿でも冷たくもない。

長々と自分たちの立場についての話をしたのは、こいつもある程度俺と同じ気持ちであって、踏み込むのに躊躇いを感じているからだ。
できれば、自分の気持ちには触れずに今の関係を維持したいってトコか‥‥。悪いが、俺はそれじゃあ満足できねーんだよ。

「それでどっちを選べばお前は満足なんだ?お前か?『三蔵法師』の称号か?」

笑みを浮かべていた奴の口元が、わずかに揺れる。
奴を追い詰めることを言っているとわかっている。だが、もう引く気はない。奴も俺を想っていると確信しているからこそ、わざと傷口に踏み込んでいくことが出来る。
その仮面を剥がして、素顔を引きずり出してやる。もう笑うな、本音を見せろ。

「笑わせんな。例えてめぇを選んだところで、どのみち俺から離れるつもりなんだろうが。自分のせいで俺が『三蔵』でなくなったのを気にしてな。自分の弱さ、人のせいにしてんじゃねえよ!」

今でも鮮明に思い出せる。自分が何よりも大事にしていた、守れなかったあの人。

「‥‥確かに俺にとって『三蔵』は特別の意味を持つものだ。先代の形見だからな。だがな、それを枷にして今大事なものを見失うほど、落ちてねぇんだよ!甘く見んな!」

悟浄の顔に張り付いていた笑顔が、すっと消える。
残されたのは、表情を作ることを忘れた、迷子の子供の顔だった。
「何で‥‥そーゆー事、言うかな‥‥」
消え入りそうな声で、つぶやく。

「悟浄、俺を見ろ」

二つ目に気付いた事。こいつは恐れてる。おそらくは俺と同じ痛み。大きすぎる、喪失への恐怖。手にしてしまえば、失うことが何よりも怖くなる。
だが。それを超えてでも手に入れたいと思う存在。‥‥お前にとっては、違うのか?

「人がせっかく、我慢してんのに‥‥諦めようと思ってんのに‥‥」

こいつもかなり混乱しているらしい。自分が何を言ってるのか気付いてない。ほとんど、というよりまんま告白じゃねーか。
だが『諦めようと思ってる』ってのは聞き逃せねぇな。現在進行形ってのが許せん。

「悟浄‥‥」
「違う!違う違う!そうじゃねぇ!三蔵のことなんか好きじゃねぇよ!」

言ってるじゃねーか‥‥。ようやく自分の発言の意味に気付いたらしい悟浄は、全くフォローになっていないことを言い出した。馬鹿だな‥‥こいつ、深みに嵌ってやがる‥‥。
それでもしつこく『好きじゃない』、とうわ言のように繰り返す奴の肩を掴み、こちらを向かせた。

本当は、気付かないふりをしてやりたかったが。

「なら、何故泣く?」
「え?‥‥‥なにコレ‥‥マジ?」

初めて自分が泣いていたことに気が付いたようだ。ゴシゴシと顔を擦る。
そう、こいつはずっと涙を流していた。その顔に、笑顔を貼り付けたまま。これが、こいつの気持ちを俺に確信させる決め手となったのだ。

「起こるかどうかもわかんねえ先のことなんざ、気にしてんじゃねぇよ」
俺の言葉に弾かれたように顔を上げる。
涙を見られたことで腹が決まったのか、隠しても仕方がないと思ったのか‥‥堰を切ったように悟浄の気持ちが溢れ出す。

「先のことじゃねぇよっ‥‥!今だって‥今だって怖ぇよ!毎日妖怪たちと闘って‥もし、お前に何かあったらって思うとどうしようもなく怖ぇんだよ。今でさえこんななのに、これ以上お前の存在がデカくなっちまったら、俺はどうすりゃいいんだよ?お前がいなくなったら俺は壊れちまう!怖えんだよ!お前をなくすのが!もう、沢山だ!大事なものを失うのはもう嫌なんだよ!もう‥もう‥!」

‥‥‥‥‥‥今、嬉しいと言ったらきっとこいつは怒るだろう。
初めて聞いた、こいつの本心。何を取り繕うわけでもなく、直接俺の心に届く。
もっと聞きたい。ずっと聞いていたい。俺だけに聞かせて欲しい。

「それで‥‥お前はどうしたいんだ?俺から離れたいのか?言っとくが、今までどおりの関係で旅を続けるのは無理だ。もう、お互い自覚しちまったモンを元には戻せねぇだろ。選択肢は2つしかない‥‥離れるか、受け入れるかだ」

そして静かに、悟浄の出す"答え"を待つ。
肩で息をしていた悟浄は、呼吸を整え終わっても顔を上げなかった。ただ刻々と時間が過ぎていく。だが俺は急かすつもりはなかった。俺の気持ちは決まっている。後は、奴が自分で結論を出さねば意味がない。

 

どのくらいそうしていたのか、悟浄がゆっくりと顔を上げ俺を見据えた。何かを決意した光を眼に宿している。

「三蔵。お前はどうなんだよ?俺は、お前を失うのは嫌だ。けど、自分から離れるなんてことも、もう出来そうにねぇ。三蔵、俺は覚悟を決める。俺はお前の隣に立っていたい。対等に生きていきたい。だから俺はもう自分の出生のことでお前に遠慮すんのは止める。たとえどんなことがあっても、離れねぇ。そのリスクを背負う覚悟がお前にあるのか?それが無いなら中途半端な気持ちは迷惑だ、二度と俺に近づくな」


俺は自分の口の端に笑みが浮かぶのを止められなかった。これが、悟浄だ。心の痛みを強さに変え、自分に誇りを持って生きていく。気高いその魂の色は、きっと燃えるような深紅だろう。俺からの返答を待つ悟浄の眼は鋭く輝き、生気を放っていた。
俺を惹きつけて止まない、その紅い瞳。

「馬鹿が。そんなこと今更確認するまでもねえんだよ。‥‥‥大体な」
「‥‥?」
「てめぇはさっき『これ以上俺の存在が大きくなったら、失った時壊れる』とか言ったな?」
「あ、あぁ」
「俺なんか、今お前を失っても壊れるんだよ」
「なっ!!」
「もう、手遅れってことだな」
「!!!!」
あまりの俺の発言に驚いたのか、ぱくぱく口を動かしながら奴は俺の顔を見つめている。その顔は耳の先まで真っ赤だ。ふん、ざまあみろ。

俺だって驚いてるさ、自分がこんなに他人に執着する日がくるなんてな。

 

 

「悟浄」

口調をあらためた俺の呼びかけに、奴はがらりと表情を変えた。真剣な面持ちで俺の言葉を待っている。本当に飽きない奴だ。

「俺は今まで失いたくないと思った人は一人しかいない‥‥先代の光明三蔵‥‥俺の師匠だ。だが、お前は、お前とは‥‥失いたくないというよりも、共に生きていきたい、と思う。俺は、自分のままにしか生きられない。前にしか進めない。悟浄‥お前には共にあって欲しい。俺と共に、お前自身のままでな。お前が自分を曲げないと隣にいられないと言うなら、必要ない。俺が欲しいものこそ、そんな中途半端なものじゃない。お前は、俺の側で自身の生き方を貫け。誰に何を言われようと、何をされようと。例えそれがどんなに辛い事でもだ」

悟浄の眼が眩しげに細められ、今まで聞いたことのない、柔らかな声で名を呼ばれた。
「三蔵‥‥」
「何だ」
「はじめて見た、三蔵の涙‥‥」

気付けば、俺の頬も濡れている。人のこと言えねぇな、俺も。けど、伝わったか?俺の本気。お前の涙が、俺に伝えてくれたように。
じっと俺の頬を見つめていた悟浄が指を伸ばしてきて涙を拭った。俺はその手にそっと自分の手を重ねる。
どちらからともなく額を寄せ合って、俺たちは笑いあった。お互いに、素顔のままで。
 

 

「覚悟決めろよ?馬鹿河童」
「こっちの科白だっつーのよ、生臭坊主」
 

 

もう、迷わない。

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