あなたの側で眠りたい(9)

草木を掻き分け、崩れる道を越え、転がる岩を避け、ようやく三蔵と八戒は目的地への一歩手前まで辿り着いた。
切り立った岩盤にぽっかりと空いた空洞。此処を抜ければ、村人たちに教えられた薬のある場所に出る筈だ。たった一つの、悟浄を救う可能性。
 

――――もしも、俺が。

洞窟を前に三蔵は、ついさっき悟浄が零した言葉を考えていた。
悟浄が言おうとして、自分が言わせなかったその台詞の続き。
 

言わせたくない。聞きたくない。

考えたくない。
 

――――もしも、悟浄が。
 

ふざけるな。
 

そんな事。誰が考えてやるものか。
あいつはこれからも、俺と――――。
 

三蔵は思考を振り払い、性急にその洞窟に足を踏み入れた。
 

 

 

八戒の手にする懐中電灯の明かりが、殺風景な岩肌を照らし出す。そんなに長い洞窟では無いと村人たちには教えられたが、それでも悪路で疲れた身体には結構な距離に感じる。

「水源があるようだな」

静かな洞窟の中で、どこからか微かな水音が響く。どこに水脈があるのか、良く見れば壁面を水が幾筋も伝い流れている。

「ええ、この山から湧く水で村は生活してるらしいですよ。ほら、ずっと下流で水飲んだじゃないですか。結構大きな川になってましたね」

答える八戒には、何ら変わった様子はない。
三蔵は僅かに汗ばんでいた。ずっと感じ続けていた不穏な気配がこの洞窟に入ってから急激に強くなっている。間違いなく、『それ』はこの洞窟を抜けたところに居るのだ。

「どうかしましたか」

流石に三蔵の様子に不審なものを感じたのか、八戒を取り巻く気が引き締まる。

「気をつけろ。―――近い」

それだけで、八戒には十分だ。頷く端正な横顔に、勘のいい奴は助かると思いながら三蔵は出口を睨みつけた。
 

 

 

「すごい‥‥‥ですね」

洞窟を抜けた八戒の口から漏れた、感嘆の台詞。三蔵の忠告もあって、かなりの警戒心を持って外へと一歩を踏み出したのだが、目前に広がる光景に思わず目を奪われた。

『きれー』

金色の瞳の少年がこの場にいたら、素直にそう表現しただろう。

 

―――――確かにな。

三蔵も、一瞬自分が何所に立っているのかを忘れそうになった。
四方を囲む山に切り取られた空。中央には朧に霞んだ丸い月。

だが何よりも。二人の目を奪ったのは。
 

光の花だ―――――。と八戒は思った。
 

一帯の木に、光の花が咲いている。

淡い月の光を受け、鮮やかに木々を彩る緑のイルミネーション。時折風に揺られた拍子に、はらはらと煌きながら舞い落ちる様は、季節外れの蛍を思わせる。
幻想的な光の花の正体は、口にしなくとも二人には分かっていた。

鱗だ。

焼かれず捨てられた緑竜鼠の鱗が、そこら中の木々に付着してきらきらと月の光を反射しているのだ。

三蔵は目の前の木を見上げた。高く高く、聳え立つ大木。ざっと見渡すと、ここらで目立つのは二本。目の前のこれと、僅かに離れたところにもう一本。同じ自然環境にありながら、その二本だけ、他の木とはかけ離れた成長を遂げていた。かと思えば、辺りには枯れて朽ちている木や、ぽつぽつと草花の全く生えていない部分と、逆に地面が見えないほどに雑草が覆い繁っている部分とに分かれている。どことなく違和感のある光景だった。
さらに見上げれば、崖上に建物があるらしく光が灯っているのが見える。

「あれが焼き場ですね。という事は、あそこからここに落とされてるんでしょう」
「‥‥‥落とすのは、鱗だけじゃねぇみてぇだがな」

三蔵の言葉に八戒が視線を巡らせると、そこには焼け残った骨やら塊やらが無造作に散乱している。やたら木が白っぽく見えると思ったら、上から撒かれた灰が葉や枝に降り積もっているのだった。
八戒は塊が集中している場所へ近付いてみた。

「なんですか、これ‥‥。こっちは完全に骨になってますけど、こっちのは全く焼かれた形跡すら‥‥‥?‥‥‥‥うわっ、これなんか生の部分が腐ってますよ」
「‥‥‥‥」

村人たちの話では、元々疫病にかかった緑竜鼠の処分は山に捨てるだけだったのだという。伝統に則って清めのまじないを死骸に施し、そのまま山へ返す。最近では数が多くなり、また世代が代わったという事もあるのだろうが――――焼却という手段が用いられるようになったのだと。
だが、この有様を見る限り、どうやら今も村人の中には、隠れて昔ながらの処分方法を取る者がいるらしい。ある意味、信仰心の表れなのかもしれないが。

「よく考えたら、ここ、病原菌の巣ですねぇ‥‥‥‥。僕らにもうつっちゃいますかねぇ」
「うつるなら、俺たちはとっくに発病してるだろ」

悟空に悟浄の感染を告げた時には言葉を濁したが、今までずっと悟浄と行動を同じくし、同じ食べ物を口にしていた自分たちが発症していないのだ。今更、『人間にも妖怪にも感染しない』事を疑う気はない。
かく言う八戒も、実はそんな心配は全くしていないという事が、どこか間延びしたような口調から伝わってくる。

「特に貴方は、でしょ」
「るせぇ」

八戒はもう一度ぐるりと辺りを見回した。
不ぞろいな木。微かな水音。辺り一面に転がる朽ちた肉塊。舞い散る鱗。

視線をずらせば、どこか現実離れした光景を前に、三蔵がただ静かに佇んでいた。何事を考えているのか、難しい顔をしている。

「三蔵?」
「いや‥‥‥」

そう答えながらも、三蔵は目前の木々から目を離そうとしない。

「とにかく急いで鱗をもって帰りましょう。なるべく新しいものを選んで悟浄に‥‥」

三蔵の様子に不審を感じながらも、屈みこんだ八戒が散らばる鱗に手を伸ばしかけた時。

「伏せろ、八戒!」

静かな谷に、銃声が響き渡った。
 

 

 

 

 

 

 

 

「始まった、な‥‥」

遠くで響く銃声が、悟空と悟浄の元へも届いていた。銃声は一発で途切れる事無く、何度も繰り返されている。
悟浄は、悟空の視線が銃声のした方角に据えられて動かない事に気が付いた。

無理もない、と思う。
本当は、悟空は三蔵と行きたかった筈だ。見も知らない場所で、妖怪だか何だか得体の知れない化け物が出る事が分かっていて、それでも黙って二人を送り出さねばならなかった悟空の心情は察するに余りある。
悟浄は自分が動けば足手纏いになるのを知っていたが、悟空はただ留守を命じられたに過ぎない。動けない自分のせいで、三蔵と八戒を危険に晒し、悟空の自由すら奪っている現状。
自嘲的な思考が溢れてくるのを、悟浄は止められなかった。

(俺、相当情けねぇ‥‥)

いっそこのまま、眠ってしまえればどんなに楽だろうと思う。
発熱による体の痛みも、自分の周りだけ何故か薄い酸素に喘ぐ苦しさも、間断なく襲う胃の底がせり上がるような嘔吐感も、何もかも忘れて眠る事が出来たら――――。

そうすれば、誰の手を煩わす事もないのに。

 

――――もしも、俺が。

続けられなかった問い。拒まれた返答。
 

――――もしも、俺が、このまま‥‥。

そしたら、オマエはどうするんだろうな、三蔵。
 

暗闇に沈み込みそうになる悟浄の意識の端が、再び響いた銃声と、恐らくは八戒の気孔によるものだと思われる爆裂音を捕らえた。

(あ‥‥)

闘っている。三蔵と八戒が。

今まで散々反芻していた筈の事実が、実際は少しも現実として認識されていなかった事に悟浄は驚く。今頃になって悟浄の全身に浸透してくる、三人の行動の意味。

(俺のために。俺を生かすために――――)

どうやら熱のせいで、思った以上に自分は狂っていたようだ。
朦朧としていた思考が、一瞬で振り払われた。

「‥‥行けよ、悟空」
「?」
「行って‥‥三蔵に‥‥蹴り、入れて来い。‥‥ちんたら、やってんじゃねーって、‥‥よ」

悟浄はようやく覚醒した気分だった。

「俺も、行くから‥‥。後から、きっちり、行くから‥‥。お前、先に‥‥」
「‥‥‥‥悟浄」

もしも、だなどと。

何故、あんな事を三蔵に言おうとしたのだろう。三蔵が止めてくれなければ、とんだ醜態を晒してしまっていたところだ。一体、何を考えていた?
馬鹿らしい。ただ待つ事など受け入れていたなんて。最期の最期まで、自分の命は自分で面倒見る―――――それが「沙悟浄」の筈だ。まだ、自分は動ける。転んでも這ってでも、前に進む事が出来るうちは。

例え三蔵にでも、てめぇの命を委ねるには早すぎる。

悟浄はよろめきながらもジープを降り立った。

「おい、悟浄!無理だって!」
「いいから、先、行けって‥‥」

必死に伸ばされる手に悟浄が顔を上げると、苦しそうに歪められた悟空の顔がそこにあった。死を間際に自棄になったとでも思っているのだろうか。悟浄は何だか可笑しくなって、くしゃり、と悟空の髪を掻き混ぜた。

「ばー、か。‥‥死なねぇ、よ」

こんな所で。

「‥‥死んで、たまるかよ‥‥」

あいつを残して。
 

悟浄の目に自棄の光がないのに気付き、悟空の表情がほっとしたものに変わる。が、すぐに厳しい光を瞳に宿し、悟浄を支える腕に力を篭めた。その力強さに、歩を進めようとする悟浄を制止する意図が伝わる。

「俺は、行かない」
「‥‥悟空」
「お前も、行かせない」

いつの間に変化を解いたのか、ジープも悟空の肩に止まり、くいくいと悟浄の服を引っ張っている。ジープなりに必死で止めようとしているのだ。

「三蔵と約束したから」
「‥‥何も言って‥‥」
「聞こえたから」

確かに三蔵は何も言わなかった。ただ、『悟空』と短く名前を呼ばれただけ。

けれど。

 

確かに聞こえたから。

悟浄を頼むと。

 

だから自分は確かに、約束したのだ。

悟浄を守ると。

 

悟浄がいくら悟空の腕を振り払おうともがいても、その制止は些かも緩められる気配は無い。
こいつはこんな顔をする奴だっただろうか。
急に大人びた空気を纏った少年と、悟浄は睨み合う様に対峙した。
 

 

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