あなたの側で眠りたい(10)
互いに一歩も引かず互いを睨みつけていた悟浄と悟空の耳が、どこか遠くから響く微かな音を捉えた。 「おおい。大丈夫かぁ」 大きな音を立ててドアを閉め、悟空と悟浄の方に歩いてくるその顔は、逆光のため確認できない。だが、無意識のうちに悟浄を背に庇う形で立った悟空の耳に届いた声には、聞き覚えがあった。この村に入って最初に出会った、疫病の事を一行に教えたあの男だ。 「おっちゃん?」 光の中を、男が歩み寄ってくる。何か手にしているのを見て悟空は僅かに緊張したが、良く見れば数本の花だ。男の目的を測りかねて悟空が言葉を発せずにいるのには構わず、男はきょろきょろと辺りを見回した。 「そっかぁ‥‥。あのお坊さんたちが谷に‥‥。無事に戻ってこられるといいだがなぁ」 未だ悟浄を背にしたままの悟空が問う。 「ああ‥‥まだ炉に火が入ったままなんだぁ。まぁたあれから2匹が駄目になっちまって‥‥。あいつらがちゃんと灰になるまではもうちっと時間がかかるんでなぁ。んで、これをな」 手向けてやろうと思ってよ。 男は手にした花をひらひらと振ると、やはり少し悲しそうに笑った。 「さ、とにかくこんな所じゃ病人の身体に障る!上に小屋があるから、お連れさんが帰ってくるまでそこで休みな!」 悟空の言葉に、男は苦笑しながら首を振った。 「確かに鱗しか薬はねぇけど、硬ぇ鱗をそのまま食わすってのは無理だって。何せ炉を傷めるほどの強度っていやぁ鉱物並だ。煎じるにしても砕くにしても、道具が無くちゃぁ難しいと思うけんどなぁ」 あ。 悟空は思わず目をぱちくりとさせた。 「小屋には布団もあるし、一通りの生活用具は整ってる。鱗さえ手に入れりゃ、飲ませる方法はどうにでもなるし‥‥。お連れさんには書き置きでも残しときゃええで」 もしかしたら、あの二人も気付いていないのかもしれない―――。そんな考えが悟空の脳裏を掠める。もしそうならば、男の言葉に従う方が―――。 逡巡する悟空の背後の空気が揺らめいた。振り返る悟空の目に、歩み去ろうとする悟浄の姿が映る。 「ドコ行くんだよっ、悟浄!」 覚束ない足取りながら、それでも山道に向かおうとする悟浄の腕を、悟空は再び掴み止めた。目の前で何が行われているのか理解した村の男も、流石に呆気に取られたようだ。 「兄さん、その体で谷へ行くつもりか?!止めときな、死にに行くようなもんだ」 不意に、悟浄の長身がガクリと崩れ落ちた。その鳩尾には、悟空の拳。 「無茶な事する兄さんだなぁ。いつもこうなのかい?」 呆れたような口調で問う男に、慎重な手付きで悟浄の身体を支える悟空は頷いた。但し『けど』と付け加える事も忘れずに。 「こーゆー奴だから、一緒に旅したいって思うんだろ」 口は悪いし、ガラは悪いし。吸うわ飲むわ打つわの上に女好きで、いつも人の事ガキ扱いするムカつく奴だけど。 そう思っているのは、自分だけじゃない事もちゃんと知ってる。 何の前触れもなく鼻の奥がツンとする。悟空は慌てて悟浄を支える腕に力を込め、その痛みを誤魔化した。
「チッ、キリがねぇ―――」 谷では、三蔵と八戒が次から次へと現れる物体に手を焼いていた。 三蔵も八戒も初めて遭遇する、不可思議な物体。 目の前で、うねうねと巨大な体躯をくねらせる蛇の姿にも似たそれは、倒しても倒しても次々と湧き上がって来る。 半透明の身体は月の光を透過して、ある意味この幻想的な風景と相まって美しいと言えない事も無いのだが。目も、口も、透けて見える体の中にも何ら器官の様なものは見受けられない。 地面から、木の幹から。それこそ周りの至る所から。音も無く滲み出ては三蔵と八戒の周囲を取り囲む。 「三蔵、僕が引き付けておきますから!」 静かな谷に低い読経の声が響き、やがて全てが光に包まれた。
「終わった‥‥んでしょうか」 ようやく静けさを取り戻した谷を見回し、ようやく八戒は一息ついた。あれだけ溢れていた化け物の姿は掻き消すように消えている。だが、三蔵は厳しい表情を崩さない。 「そんな時間はねぇ、な‥‥」 途端に踵を返して歩き出す三蔵の背に、八戒が追い縋る。鱗も手に入れた今、一刻も早く悟浄の元へ戻る事に、何の異議も無い。だが、ここの化け物の事に関しては分からない事だらけだ。 「後回しって‥‥まだ死んでいないという事ですか?」 三蔵の声が途切れるのと、八戒が三蔵の前に出たのはほぼ同時だった。鋭い視線を投げかける先には、自分たちが抜けてきた洞窟。 「―――誰です?」 洞窟の中の気配が揺らぐ。 しばらくの沈黙の後、一人の青年が、恐る恐るといった風体で顔を覗かせた。
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