あなたの側で眠りたい(6)

「悟空、医者呼んで来い!今度は引き摺ってでも担いででもいい、無理にでも連れて来い!」
「わかった!」

勢い良く部屋を飛び出して行った悟空を見送り、八戒が呆然と呟く。

「一体、何が‥‥?」
「わからん、が‥‥風邪じゃねぇ事は確かだな」
「‥‥まさか」

短く呻く悟浄の声に、二人の会話は中断する。歯を食いしばり極力声は抑えているが、身体中が小刻みに震え、歯の根も合わぬ状態だ。

「汗を拭きましょう、服も替えないと。とにかく、このままでは体温が奪われるばかりです」

二人がかりで悟浄の身体から、湿ったシャツを脱がせていく。同時に八戒は、タオルで悟浄の顔や身体にこびり付いた血液も拭ってやった。

「汗も拭きますからね。横にしますよ?」

悟浄が何かを呟いたのが聞こえた。恐らくは「悪ぃ」とか「さんきゅ」とか、そういう類の言葉だろう。どうやら意識ははっきりしているようだ。のろのろとした動きだったが、自分から横臥の体勢に身体を動かした。剥き出しの背中が、三蔵の目に晒される。
その時、悟浄の身体を支えていた三蔵の顔が、明らかに険しくなった。

「三蔵?」

八戒の訝しげな声にも、三蔵はその表情を崩さず、自分に向けられた悟浄の背中の一点を見詰めている。もう一度八戒が声をかけても、三蔵は動かなかった。

「どうしたんです?何か‥‥」

不審に思った八戒は、三蔵の立つ悟浄の背中側へと移動する。
そして、三蔵の視線の先を巡り――――。

「こ、れは‥‥」

八戒は、それ以上の言葉を失った。

悟浄の肩甲骨の下辺り。引き締まった自慢の体躯に、刺青かと見紛う程鮮やかに散る黒い花弁。日に焼けていない薄い色の肌に幾輪も咲き誇る、美しい漆黒の花。
墨を落としたような花芯の周りを、緩やかに波うつ花弁が幾重にも取り囲む様は、まるで薔薇か牡丹を髣髴とさせる艶やかさだ。

八戒は思わず息を飲み、その怪しい美しさに目を奪われた。

 

だが、それも一瞬の幻想にしか過ぎない。

突然何かをひっくり返したような大きな音が響いて、三蔵と八戒は弾かれたようにドアの方向を見た。
慌てた悟空が開け放したままだった部屋の扉の向こうに、宿の主人の姿がある。その足元には、洗面器と、それに入れられていただろう氷が散乱していた。恐らくは、医師の家を尋ねでもした悟空の様子に病人の具合が芳しくない事を知り、気を利かせてくれたのだろう。
自らが運んできた氷に足を滑らせながら、宿の主人はよろよろと二、三歩後退し、廊下の壁に背中をぶつけて止まった。その顔を、恐怖に引きつらせながら。

「ついめいかはん‥‥」

酸素を求めて喘ぐ魚のように口を忙しなく動かす主人が漏らした言葉。
それが「終命花斑」だと八戒が知るのはもっと後の事だが―――、ああ、これにも名前があるんですかと、どこか薄ぼんやりと八戒は思った。目の前の現実から、目を逸らせようとしている自分に気が付いていた。

だから、反応が遅れたのかもしれない。

今までの鈍い動作が嘘のような俊敏さで、主人は部屋の前から駆け去る。八戒が我に返り、制止しようとした時には既に遅かった。
主人の後を追わなければと思ったが、足が動かなかった。八戒は遠ざかる足音を聞きながら、慌てて転んでも知りませんよとやはり場違いな事を考えていた。
 

 

「‥‥マズい事になりましたね」

主人の消えたドアの奥に視線を向けたまま、どこか放心したような八戒の声。

「どのみち、隠していても治す術は見つからん‥‥仕方ねぇだろ」

感情の読み取れない抑揚のない声で呟くと、三蔵は再び悟浄の汗を拭い始める。とりあえず今やるべき事を思い出したようだ。恐らくその胸中は、表面に見せている程には冷静ではないだろうけれど。
八戒は黙って三蔵に手を貸した。手元に目を落とせば嫌でも悟浄の背中が目に入る。

見紛うはずのない、艶やかな黒い花。

比べようも無く大輪ではあったが、それは確かに、昨日村で見た緑竜鼠の鱗に咲いていたのと同じものだった。
 

疫病に感染した証だと、村の男は言った。
感染したものの命を養分に咲き誇る、死を招く花なのだと。
 

「緑竜鼠特有の病気だということでしたが‥‥」

昨日聞かされた話を思い出しているのだろう、八戒が僅かに目を細めた。三蔵の脳裏にも、手塩にかけて育てた家畜をむざむざと病気によって失う男が見せた、悲しい顔が浮かんでいた。

『対抗策はない』

今となっては無情でしかないその言葉までもが蘇った。
 

そんな筈は無い、何かしらの手段がある筈だ。あの男は、他に何と言っていただろうか。
三蔵は必死に男の言葉を思い出そうとしていた。だが、浮かんでくるのは絶望的なものばかりで、思考が絞り込めない。それほどに動揺しているのだ、この自分が。

八戒ばかりではない。三蔵もまた、受け入れ難い現実と向き合うのに必死だった。
上手く働かない頭に、昨日聞いた声が容赦なく繰り返される。
 

『血を吐いて、もがき苦しんで』
 

思い出したいのは、そんな言葉ではないのに。
 

『死ぬ』
 

焦る三蔵を嘲笑うかのように、男の言葉が頭の中で踊り狂っていた。
 

 

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