あなたの側で眠りたい(5)

僅かな物音と、同時に何かが動いた気配に、八戒は目を開けた。
窓辺で本を読んでいた筈が、日だまりの暖かさについ、ウトウトとしてしまったようだ。手にしたままだった本を置き、物音の方向に目を向けると、悟浄が水を取ろうと不自然な体勢で手を伸ばしていた。

「ワリ‥‥起こした?」

八戒が近付くと、バツの悪そうな掠れ声。
必死で平静を装ってはいるが、荒い呼吸の中で紡がれるその言葉は、悟浄の体調が少しも回復していないという事を八戒に知らしめるに十分なものだった。

「声を掛けてくれればいいのに」

悟浄の手にした水差しには、殆ど水が残っていない。しまったなと内心舌打ちをしながら八戒は悟浄から水差しを取り上げる。その拍子に手が触れ―――八戒は眉を顰めた。

「冷たい水、貰ってきますね」

負けじと平静を取り繕った声を出す。軽く悟浄の布団を叩き、八戒は部屋を後にした。
 

 

「丁度良かった、三蔵」

悟浄の様子を覗いてみようと自室から出た途端、食堂からの戻りらしい八戒に三蔵は呼び止められた。

「この氷と水、悟浄に持っていってあげてくれますか。僕は、お医者様にもう一度いらして頂けるようお願いしてきます」

「悪いのか」

途端に表情を険しくする三蔵に、八戒は小さく息を吐き出す仕草で肯定の意を表した。

「‥‥本人は、平気なフリをしてますけど」

カラン、と氷が崩れる音が、やけに大きく聞こえた。

「熱が、下がらないんです」
 

 

 

三蔵が八戒から託された水と氷を手に部屋へと入ると、今は眠っているらしい悟浄の姿が目に入る。だが、僅か二、三歩近付いただけで、既に三蔵には悟浄の変調が伝わってきた。呼吸がやけに浅く荒い。
思わず駆け寄り、乱暴に手にした盆をテーブルに置く。悟浄の頬に手を触れて驚いた。八戒に聞いてはいたが、熱い。額を氷嚢で冷やしていたのだが、既に氷も溶け切り何の役にも立っていない状態だった。シャツも絞れそうな程に汗で湿っている。
医師の残した薬はちゃんと飲ませてある。なのに、熱が下がるどころか上がっているのは何故なのか。

――――ただの風邪‥‥の筈だ。

頭に浮かんだ不穏な予感を振り払い、意味を無くした氷嚢を取り外す。とにかく新しい氷を、と動こうとした三蔵の法衣の裾を、不意に悟浄が掴んだ。

「悟浄?」
「み‥ず‥‥」

起きているのかと思ったが、どうやら意識があるわけではないらしい。苦痛に顔を歪ませ、うわ言で水を求める悟浄の様子に唇を噛み締める。思えば、昨日からずっと悟浄は喉の渇きを訴えていた。その頃から、体調を崩していたという事だろう。
再び水を求める悟浄の呻き声で我に返った三蔵は、運んだ水差しから水を自らの口に含み、口移しで悟浄に与えた。こくりと嚥下するのを確認しては、何度もそれを繰り返す。
与えられた水分に満足したのか、悟浄の表情が穏やかなものに変わる。汗で額に張り付いた髪を除けてやると、僅かに瞼が震え、うっすらとその紅い瞳を覗かせた。

「さんぞ‥‥‥‥?」

朦朧とした様子で視線をさ迷わせる悟浄に、もう一度水を含んで口付ける。今度は、水を流し込み終えても、三蔵は悟浄の唇を解放しなかった。
伝わる熱さに眉根を寄せながらも悟浄の口内を軽くなぞり上げ、最後は熱のせいで乾ききった唇を湿らせるように舐め、静かに離れる。
悟浄の口から、繰り返す荒い呼吸とはまた違う、切なさの混じったため息が漏れた。

「‥‥‥しらねーぞ‥うつっても‥‥」
「馬鹿の風邪なんかうつるかよ」
「‥やっぱ‥‥かわいく、ねーの‥‥」

この熱では相当に辛いはずだが、それでも笑おうとする悟浄が痛ましい。

「いいから寝ろ」

そう口にした三蔵だが、窓から差し込む日差しの明るさに気付き、何気なく窓へ向かおうと一歩を踏み出した。

「あ‥」

それはもしかしたら聞き違いかとも思えるような、ほんの微かな、微かな声。聞き咎めて振り向いた三蔵の見たものは、こちらに伸ばしかけた手を慌てて引っ込める悟浄の姿。

「あ、や‥その‥」

咄嗟に声を漏らしてしまった自分を恥じるように、悟浄は寝返りを打って三蔵の視線から逃れようとした。が、一瞬早く三蔵の腕に動きを封じられてしまう。

「カーテンを閉めるだけだ」
「べつに、俺‥」
「何処にも行かねぇよ」
「ちが‥‥」

悟浄の反論を封じるかのように、ふわりと唇に温かいものが降る。自分を見下ろす紫の瞳に、今まで苦しかった筈の呼吸が心なしか楽になった気がするのは何故だろう。現金なもので、急激に悟浄の瞼が重くなる。

「眠れ。‥‥ここにいてやるから」

その声を、悟浄はどこか遠くで聞いていた。

――――こんな時ぐらい、素直に『側にいて欲しい』と言ったらどうなんだ。

そんなため息交じりの言葉も聞こえたような気がしたが、湧き上がる睡魔に身を委ねた悟浄には、良く分からなかった。
 

 

 

 

悟浄はそれから眠ったり目覚めたりを幾度となく繰り返したが――――結局、夜になっても熱は下がらなかった。医者を呼びに行った八戒も、村の外れで怪我人が出て手が離せないとかで、あの老医師を連れてくる事は出来ないままだった。一応、手が空いたら来てくれるようにとは頼んできたらしいのだが。

―――尤も、村で唯一の医師があの頼りなさでは、もう一度呼んだところで何の役にも立たない事は目に見えているが―――。
 

「三蔵!八戒!」

どうするかと三蔵が思案し始めた時、突然悟空の大声が隣室から聞こえてきた。今は悟空が隣で悟浄の様子を見ているのだ。

自分たちを呼ぶその声に只ならぬ物が含まれているのを感じ、三蔵と八戒は咄嗟に顔を見合わせた。弾かれるように部屋を飛び出す。

「悟浄、悟浄!おい、大丈夫かよ!」

乱暴に悟浄の部屋の扉を開けた二人が目にしたのは、激しく咳き込む悟浄と、声をかけながら必死に背中をさすってやっている悟空の姿。
悟浄は大きな体を折り曲げ、苦し気に顔を歪めて、それでも声を漏らすまいと必死に手で口を抑え、苦痛を飲み込もうとしている。

「悟浄!」
「へー‥‥き‥‥」

何とか声を搾り出したのが限界だったのか、再び口に手をやり大きく体を丸めた悟浄の背中を、駆け寄った八戒が悟空に代わりさすってやった―――その直後だった。
 

ごぽりという音を聞いた。

鉄の匂いを感じた。

悟浄の指の間を伝う、赤いものが見えた。
 

手から腕へと、幾重にも流れる紅い筋。
悟浄の髪が腕に絡み付いているのだと、三蔵は思った。
 

―――――それが悟浄の吐いた血だと認める事を、頭が拒否していた。
 

 

To be continued...

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