あなたの側で眠りたい(3)

どうぞ、と返事を返す間もなく開かれた扉からひょっこりと顔を覗かせたのは、誰あろう悟浄だった。何故かこそこそと滑り込んできたかと思うと、バツの悪い声で小さく告げる。

「なあ、お前薬持ってない?風邪薬」
「風邪?ひいたんですか?貴方が?」
「何だよその疑いの眼差しは‥‥って、俺も風邪なんて久し振りだから良くわかんねーんだわ、正直。いや気のせいかもしんねーけど」

疑い半分、心配半分の八戒の視線を受け、悟浄はポリポリと頬をかいた。

「本当はアルコール消毒してーんだけどよー。外に出て行こうにも、店が閉まってやがるしなー。喉は渇いてしょーがねーし、賭博場もねーし、ガッカリだぜ」

風邪とは言いつつ、声の調子も顔色も普段と特別変わった事は無い悟浄の様子を見て取ると、八戒は頷いて荷物を探った。
恐らくは、少し熱っぽいとかダルいとか、そういう類のものだろう。かなり前に、八戒がそれを放っておいて悪化させてしまった事があったために、それを笑う事は出来ない。もしそれで出発が遅れでもしたら、それこそ三蔵に何を言われるか知れたものではない。悟浄もそれが嫌なのだ。

「あんまり期待しない方がいいと言ったでしょう?潤った村といっても、殆どが農場ですからね‥‥はい、お薬です」
「さーんきゅ。じゃ、オヤスミ」

くるりと体を翻し、紅い髪を揺らしながら出て行く友人の姿を見送り、自分もそろそろ寝ようかと思案を巡らす八戒の目前で、閉まった筈の扉が再び開く。
薄く開けた扉の隙間から顔だけを突っ込んできたのは、やはり紅い髪の友人だった。

「念のために言っとくけど、あのクソ坊主にだけは絶対ナイショだぜ?」
「いいですけど‥‥‥‥でも悟浄」

言うだけ言って再び閉じられた扉の音で、八戒の返事の後半部分は悟浄には聞こえなかったようだ。
八戒は、今度こそ閉じられたままの扉を眺めながら呟いた。

「‥‥無駄だと思いますよ?」
 

 

 

「熱い」

普段より眉間に二割り増しの皺を刻んだ三蔵が、悟浄を睨み付けている。

(速攻バレてるし‥‥)

八戒の部屋から戻ってきた悟浄は、自室に入るなり、いつの間にか部屋を訪れていた最高僧に壁に押し付けられ、唇を奪われた。
ずかずかと近付いてくる三蔵に悟浄は一応制止の言葉をかけたのだが、勿論それに従う三蔵ではない。悟浄の口内を思う様に貪っていた三蔵だったが、ふ、と体を離すと悟浄の目を覗き込んできた。そして、先程の台詞となる。

そう言えば先刻、去り際に八戒に何ともいえない複雑な表情をされたような気がしたが、こういう事かと悟浄は少しばかり情けない気分になった。黙って治しておくつもりが大誤算だ。

――――ここは、適当に誤魔化すに限る。

悟浄は出来るだけ軽薄に見えるような表情を作って、笑った。

「あれ〜?もしかして、心配してんの?三蔵様?」

三蔵は依然、憮然としたままだ。
 

「だよなぁ。俺ってお前らと違ってすっごくデリケートだし?頭は割れるよーに痛ぇし、あまりの高熱で眩暈はするし、ホントーは立ってるのがやっとなのよ。どっかの鬼畜坊主が毎晩激しいから、疲れが出たんだぜきっと‥‥あああっ、言ってる側から立ち眩みがっ!」

大袈裟に頭を抱えて蹲り、ちらりと三蔵を見上げると、思い切り冷ややかに見下ろす紫の瞳とかち合った。

「‥‥‥お前、もちっと楽しい反応しろよ。ノリの悪ィ奴はモテねぇぞ」
「生憎、てめぇを楽しませるために生きちゃいねぇ」

悟浄のくだらない誤魔化しを許さないとばかりに、無遠慮に浴びせられる鋭い眼光。悟浄は、『あーあ』とつまらなさ気に伸びをしつつ立ち上がると、諦めたようにポケットから小さな瓶を取り出して振って見せた。

「平気だって。八戒に薬貰ったからよ」

それでも、素直に甘えるなんて柄じゃない。目を眇め、自分より背の低い三蔵の瞳を、首を傾げるように覗き込む。

「‥‥‥それともさぁ、お前が治すの手伝う?一緒に汗かいてくれちゃう?」

含みのある色を載せた瞳と口元の笑みが、普段なら三蔵の嫌がるその仕草すらも極上の誘いに見せる筈だ。自分のどういう仕草が相手の眼にどういう風に映るか、今まで外した事のない計算が瞬時に働く。

ぐい、と腕を引かれたと思ったら、ベッドに転がされていた。何だ、ソノ気なのかと悟浄が手を伸ばそうとした矢先、頭から押さえ込まれるように布団を掛けられる。

「わぷっ!」

息苦しさに呻いて、急いで顔だけ布団から抜け出させたのはいいが、そこにある筈の三蔵の姿はなく――――と、横から不意に何かが差し出される。
思わず見上げる悟浄の視線の先には、水の入ったコップを悟浄に突きつけ、やはり不機嫌な表情を崩さない三蔵が立っていた。

「‥‥その薬飲んでとっとと寝ろ。拗らされても、うつされても迷惑だ」

自分の計算が通用しない初めての相手に、不機嫌最高潮な顔で吐かれたのは思いやりの欠片も無い台詞。
だがその中に含まれる別のものをしっかりと感じ取った悟浄は、何かこそばゆく感じつつも素直にコップを手に取った。
 

 

 

 

一夜明けて、宿の食堂。

皿まで食いかねない勢いで朝食を平らげていく悟空と、新聞片手にコーヒーを啜る三蔵と、自分の皿からジープの分を取り分けてやっている八戒と。三者三様のスタイルで、出発前の貴重な朝のひとときを楽しんでいた。

だが、いつまでたってももう一人が姿を現さない。

「ごひょお、おほいな」
「食うか喋るかどっちかにしろ、馬鹿猿」

普段、起床時刻の最下位を悟浄と争っている悟空が、口一杯にデザートの果物をほおばったまま、もごもご言うのを三蔵はにべもなく一蹴した。

「でも確かに遅いですね、悟浄。ちょっと、見てきましょうか」

『起こしてきましょうか』ではないところに、八戒が何を考えているのかが伺える。昨晩、薬を取りに来た悟浄の体調を気遣っているのだ。
薬が合わなくて、効果がなかったのかもしれませんねと言いつつ、三蔵に伺うような視線を投げかけてきた。当然、悟浄の体調不良など三蔵にバレているのを前提とした八戒の言動である。
三蔵は新聞から目を上げないまま、極力無関心を装う。頬に八戒の視線を感じるが、目を合わせるといらぬ事まで見透かされる気がしたため、口だけで返事した。

「‥‥もし鼻水でも垂らしてやがったら、殴っとけ」
「嫌ですよぉ、風邪っぴきさんに接触するの」

そんな三蔵に苦笑すると、八戒は席を立ち食堂を出て行った。
 

 

 

だが三蔵は、やはり自分が様子を見に行くべきだったかとすぐに後悔する事になった。

「煩せぇ!そんなに気になるんならてめぇで見に行け!」
「何だよ、んな怒る事ねーだろ!」

何やかやと忙しなく悟浄の体調について問いかけてくる悟空に、三蔵の苛立ちが募る。つられて大声を出した悟空だったが、すぐに小声でこっそりと付け足した。

「‥‥‥自分だって悟浄の様子が気になって仕方ないくせに」
「何か言ったか?」
「ベーつにーだ!」

べーと、舌を出す悟空をもう一度怒鳴り付けようとした時、三蔵は悟空の表情が変化したのを見咎め言葉を飲み込んだ。

「‥‥‥?」

良く見れば、悟空の視線は自分を捕らえてはおらず、しかも、その表情には全く普段の悟空らしくないものが浮かんでいる。

困惑か、それとも狼狽か。
複雑な表情で、ただじっと、三蔵の後方にある何かを見詰めている。

何かの予感に苛まれながら、三蔵は悟空の視線を追い、振り返った。食堂の出入り口のところに、緑の瞳を持つ旅の同行者が佇んでいる。その顔は蒼白とも言える程に青ざめていた。
色を失った唇が、ゆっくりと開かれる。

「悟浄が――――」

三蔵は、思わず立ち上がっていた。その拍子に椅子が倒れたが、誰も気に留める者は居なかった。
 

 

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