あなたの側で眠りたい(16)
(やーっぱ、ダメだったか‥‥) テントに入ってきた人物が纏う嗅ぎ慣れた煙草の香りを認め、悟浄は内心あーあ、とため息をついた。 やはりと言うべきか、当然の結果と言うべきか。 戻ってきたのは青年ではなく、不機嫌なオーラを漂わせた最高僧だった。 あからさまに落胆の色を見せた悟浄の表情を冷ややかに一瞥し、枕元に腰を据えると手にしていた湯飲みを殊更に乱暴に、悟浄の顔の前に置く。 「ヤツに俺が止められると本気で思ったか?とうとう熱が頭に回ったらしいな」 すっかり聞きなれた容赦の無い物言いに、悟浄はほんの少し安心した。先程よりは苦痛が治まって、僅かながら精神的に余裕があるせいだろうか。
それにしても、と悟浄はよく回らない頭でぼんやり考える。 「悪ぃ、コト‥‥、しちまった、な‥‥」 暗に、『謝る相手が違うだろう』と責められて、悟浄は何も返せなかった。突然喉奥からせり上がってきた咳を無理矢理飲み込んで、口元を引き上げる。今更、笑って誤魔化せるとも思わないけれど。 ―――あくまでも助かれば、の話だが。
無論、悟浄は自分の死など望んでいない―――けれども。
生き延びてみせると思う、信念にも似た強い意思の影に、万一を恐れる自分がいる。 三蔵の目の前で、苦しんで苦しんで苦しんだ挙句―――。もし自分が目覚めなかったら? きっと三蔵の心に、根深い傷を残してしまう。 薬を飲んでしまえばあとは自分の運と体力の勝負で、誰が側に居ようと居まいと結果は変わらない。だが、恐らく三蔵は己を責めるだろう。救えなかったと、悔やむだろう。 だから付き合いの浅い青年に、悪いと思いつつも頼むしかなかった。薬は一人で飲むから、ある程度の時間が経ったら一人で様子を見に来て欲しいと。もし自分が死んでいたら、連中の目に触れさせる事無く、跡形も無く焼いて欲しいと。 (‥‥そんな事、こいつらが了承するはず無ェ、か) 今思えば可笑しくて。悟浄は再び、笑った―――つもりだった。
すっかり憔悴しきった青い顔で、それでも笑おうとする悟浄を、三蔵は痛ましい思いで見つめていた。いつもより表情をうまく取り繕えていない悟浄の考えていることなど、三蔵には手に取るように理解できる。 悟浄の言動が、自らの死を前提にしている事に三蔵は気付いていたが、それを弱さだとは思わなかった。悟浄は今でも、生きる事を諦めてはいない。ただ、自らが辿る結末のひとつとして、最悪を想定しているだけだ。 ―――だが。 悟浄の想いを優先して、自らの想いを押し殺す事など出来はしない。誰に何を言われようとも、ここは譲れない。今、悟浄の側から自分を遠ざけようとする奴は容赦なく殺す。 「薬だ、飲め」 胸中に渦巻く様々な想いを表情には出さず、三蔵は湯飲みを悟浄の鼻先に押し付けた。 そうして、何ひとつ気付かない振りをする。 今までもそうしてきたし、これからもそうするだろう。 「‥‥た、まに‥ゃ‥、俺の、頼みも‥‥きーて、くれ、たって‥‥」 三蔵の目の前で薬を飲む事を余儀なくされた悟浄が、恨みがましい視線を投げかける。 「次の機会に、聞いてやる」 口元に湯飲みを近付ければ、諦めたように悟浄が息を吐く。だが、湯飲みの中に淀むドロドロした緑色の液体を見た瞬間、盛大に顔をしかめた。 「‥‥げ。マズ、そー」 つ、と湯飲みを押し止める仕草に三蔵は眉を顰めたが、素直に手を止めたのは、心のどこかに残る躊躇いのせいだろうか。この薬の作用によっては、自らの手で悟浄の命を奪う結果となるのだ。 なるべく呼吸を乱さないようにと今も努力しているであろう悟浄は、黙って三蔵を見上げている。本人は、気付かれていないつもりだろうが、その視線は僅かに三蔵の中心を外していた。もう、見えていないのだ。 神になど祈らない。 ただ、信じるだけだ。 「や、ぱ‥‥ヤ‥‥だ、ねぇ‥‥」 三蔵の腕の中、悟浄が小さく呟いた。
やがて、テントから抑え切れない苦しげな呻き声と、のたうつような音が聞こえてくると、青年はぴくりと身を竦ませた。 ―――彼の前だというのに隠す事の出来ない程の苦痛と、あの人は闘っている。
『貴方が側に居ると、患者が無理をします!』 何もかも見抜いた上、鼻で笑う僧侶の瞳を覆う翳りに気を取られ、一瞬、脇を抜ける彼の動きに遅れそうになる。それでも、なけなしの勇気を振り絞って僧侶の前に立ち塞がった。が。 『死にたいか?』 突き付けられた銃口よりも、射抜くような彼の目が怖かった。
結局それからは指一本動かせず、患者の元へと去る僧侶の背中を見送るだけで。 「‥‥ああっ!患者の意思を尊重できなかった‥‥。僕は、僕は‥‥これから医者として生きていく自信がっ‥‥!」 大袈裟に頭を抱え悲嘆にくれる青年の肩を、悟空がぽんと叩く。その軽い口調とは裏腹に、場の空気はどこか不自然に重い。 「‥悟空ってば、そんなミもフタも無い事を‥‥」 すかさず調子を合わせた八戒の台詞も、いつになく上滑りしていて。 「僕は医師としての心構えを言ってるんです!もう直ぐ卒業ですし、そしたら獣医としてバリバリ働くんですからねっ!」 テントからは、絶え間なく悟浄の呻き声が漏れてきている。時折、悲鳴じみた叫びが混ざっても、あからさまに目を向けるものは誰もいない。 「はいはい。けどその前に、無事卒業できるといいですねぇ」 だが、全員の神経はテントの方向に集中していた。 「あー、ガッコ出られなきゃ、せっかくの心構えも無駄だよなー。けどさぁ、こんな所で油売ってるぐらいなんだから、余裕?‥‥実は勉強が嫌で、逃げてきてたりして」 誰一人、耳を塞がず。場を離れず。駆け出して側に行きたい衝動を、ぐっと抑えて。 「‥‥論文のテーマに、ジープ君研究したいんで、僕にください」 上辺だけの、取り留めの無い会話を。
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