あなたの側で眠りたい(17)

再び逗留していた村の宿屋から一歩を踏み出して、三蔵は空を仰いだ。
雲ひとつ無い、抜けるような青が一面に広がっている。

「いいお天気になりましたね」

三蔵の隣に立つ悟空が、八戒の言葉にこくりと頷くと急に駆け出した。道を越えた植え込みのところまで辿り着くと足を止め、しゃがみ込む。三蔵と八戒は急ぐわけでもなく、ゆったりとした足取りで悟空の元へと歩み寄った。
植え込みの奥に視線を落とすと、他より少し高く盛られた土に大ぶりの石。

特別な加工を施された訳でもなく、名のひとつも刻まれた訳でもなく。

何がしかの意味を持たせるにはあまりにも質素なそれは、立ち上る線香の香りに包まれていなければその存在を見落としてしまいそうなほどに、ひっそりと佇んでいた。

「あれから、一週間、か‥‥」

石の前には見慣れたバンダナ。誰が供えたのか、その上には小さな花弁の花が手向けられていた。放埓なあの男からはかけ離れたようで、どこか似合っているかもしれないと思える、清楚な純白の花。
脳裏に浮かんだ残像にも似た感傷を振り切るかのように三蔵が目を閉じると同時に、背後に人の気配が近付いてきた。あの、と遠慮がちな声が掛けられる。

ゆっくりと振り向けば、今ではすっかり見慣れた青年が、ごくりと唾を飲み込んで三蔵の視線を受け止めていた。

「本当に、僕でいいんでしょうか。‥‥僕なんかじゃ、あの人の代わりなんてとても‥‥」
「駄目なら最初から誘いやしねぇよ」

そんな青年の狼狽を一瞥した後、三蔵は言下に言い捨て、再び青年に背を向ける。

「別に、あいつの代わりって訳じゃねぇが―――嫌なら、来なくてもいい」

時間だ、と歩き出した三蔵の背を放心したように眺めていた青年は、隣から聞こえてきた声で我に返った。

「まったく‥‥。素直に『一緒に行きましょう』って言えないんですかね」
「ムーリムリ。三蔵にンなこと期待する方がどうかしてるって。な?」

悟空に同意を求められるように覗き込まれ、青年は苦笑した。
突き放すような言葉に、そっけない態度。数日前の自分なら、向けられた背中と冷たい物言いを額面どおりに受け取って早々に逃げ出していただろう、と青年は思う。
そんな青年の様子に、八戒が緑の目を細めて微笑んだ。

「ちなみに本当は、『最後まで悟浄を診てくれてありがとう』って言いたいんですよ、三蔵は」
「ついでに言うとさ。『銃で脅してごめんなさい』てのもあると‥‥」

「貴様ら!余計な事抜かしてねぇで、さっさと来い!」

苛立ちも露な三蔵の不機嫌な声に呼ばれ、思わず三人は肩を竦める。

「あーコワ。撃たれねーうちに行こーぜ。‥‥ホラ、センセーも」

ぺろりと舌を出す悟空に、青年と八戒もつられて笑って。
少し先で待つ黄金の元へと、歩き出した。
 

 

 

 

と。

 

 

「くぉ〜ら〜。テメェ〜ら〜」

不意に背後からずりずりと何かが引き摺られるような音と共に、地を這うような―――いや実際に這っていたのだが―――低い声。

「あ。ミノムシだ」
「ちっ。もう目ぇ覚ましやがったか」
「やはり一服盛るべきでしたねぇ」

そこに登場したのは、シーツに包まれ、その上から紐でぐるぐる巻きにされた哀れな紅い髪の男だった。宿の部屋から必死に這ってきたらしく、汗だくである。
冷静な三蔵たち三人を他所に、「駄目ですよ!そんなに急に動き回っちゃ!」と青年一人だけが焦った声を出していたが、悟浄を含め誰も気に留めてはいない。

「テメェら俺を置いて行こうたぁ、どういう了見だ、コルァ!?そもそも呼ばれたのは俺!主役はこの悟浄さんだろうが!」
 

―――せめてもの償いの気持ちと、これから自分たちが挑む闘いへの決意の証として。

村に残された数少ない緑竜鼠のうちの一体をどうしても賞味願いたいと、村から申し入れがあったのは昨晩だった。宿に訪れたのは悟浄に刃物を振るった男で、突然床に額をこすり付けながら懇願した。男を含む村人の悟浄への仕打ちを許したという訳でもないが、三蔵たちが否を唱える暇もなく悟浄が頷いていたから仕方が無い。
実はこれから三蔵たちはその男の家へと向かう所であった。

感染を免れた僅かな緑竜鼠を山ひとつ超えた裏の谷に移し、これから種の保存を目的とした飼育に力を注ぐのだと、その男に聞いた。僅かな環境の違いにより、大規模な繁殖は望めないらしい。だが、いつか再び緑流鼠の里として村が復活する日まで。飼育に適した村の環境を取り戻すための長い闘いが、これから始まるのだ。
悟浄を宿に移し、今また貴重な家畜を差し出したのは、彼らなりの精一杯のケジメの付け方なのだろう。
 

「懲りない人ですねぇ、自分が何で死にかけたのか忘れたんですか?」
「だってよー。いつまでもレトルトの粥ばっかじゃ、治るモンも治らねえっつの。なー、いい加減にコレ解けって。煙草返せー、ビール飲ませろー」
「肉よりそっちが目的か‥‥」

ごろごろとでかい図体を転がしながら子供のような駄々をこねる悟浄を、三蔵たちは呆れるように眺めていたのだが。

「何だコレ!?」

ふと、植え込みの奥に不自然に鎮座する石に目を留めた悟浄が、大きく仰け反るように首を擡げた苦しい体勢ながらも声を上げる。

「あ、それは村の人たちが自分達の過ちを忘れないようにって。そのうち、ちゃんとした供養塔を建てるそうですけど、とりあえず間に合わせにって」

素直に自分の疑問に答えてくれる青年に、だが悟浄は大きく頭を振った。

「んなコト聞いてんじゃねぇよっ!誰だ、人様のバンダナ勝手に供え物の下敷きにしやがったのはっ!?ったく縁起でもねぇ!」
「直に置くのもなんだしな。まぁ気にすんな」
「気にするわっ!」
「冷てーなぁ、悟浄。同じ鼠体質仲間の供養じゃん、ケチケチすんなよ」
「鼠体質言うなっ!」
「という事は、つまりは共食いという事に‥‥?悪趣味ですねぇ」
「ともぐ‥‥って、あのなぁ‥‥」

この三人に何を言っても無駄だと今更ながらに悟ったのか、悟浄はがくりとうなだれる。追い討ちをかけるように、青年が遠慮がちに、だがハッキリと悟浄に告げた。

「あのう‥‥お酒と煙草はまだ駄目ですから‥‥」

止めを刺された巨大イモムシは、しょんぼりと身体を丸める。

「はぁ〜い、センセ‥‥。いい子でお留守番しときます‥」
 

 

 

 

 

「なーんつって」

晴れて自由の身となった悟浄は言いつけどおり宿の部屋に戻り、ベッドに横になった―――と思ったら、ベッドの下からガサゴソと何やら包みを取り出した。中からは、いつの間に調達したのか、ビールと煙草が転がり出る。
村人のせっかくの申し出ではあったが、元から悟浄は緑竜鼠の肉にはあまり執着していない。疫病に対する抗体は出来ているはずだから食べる事にはさほど抵抗はないのだが、いかんせん酒と煙草の魅力の比ではない。
ただ、一人除け者にされるのが何となく癪に障ったから一応の抗議はしてみたものの、よくよく考えてみればこ煩い連中の目から解放され、酒も煙草も満喫できる機会をみすみす逃す手は無いではないか。

勢い良くプルトップを引き起こし、息もつかずに一気に飲み干した。乾いた砂漠に水を落としたように、アルコールが体中に染み渡っていく。

「ん〜!留守番サイコー!」

多少ぬるまってはいたが、一週間ぶりの酒は何とも言えぬ格別の味だった。

「んなこったろうと思った」
「!?」

悟浄は完全に『一人で酒盛り』の喜びに浸りまくっていたために、迂闊にも人の気配に気が付かなかった。扉の方向に驚愕の視線を向けると、その声の主はのそりとベッドに近付いてくる。
しまった鍵を掛けてなかった、と後悔した所で後の祭りだ。

「三蔵!?おま‥‥何で!?」
「八戒に頼まれた。目ぇ放すとじっとしてやがらねぇガキがいるからな。『たまには保父さん、代わってくださいね』‥‥だそうだ」
「げーっ!サイッテー!!」
「それはこっちの台詞だ!世話掛けやがって!」

思い切り蹴り飛ばされた悟浄は、あえなくベッドに撃沈した。

 

 

 

「あの、良かったんでしょうか‥‥、これって一応快気祝いですよね?なのに本人置いて来て‥‥」
「いいんですよ。あの二人は二人で、楽しくお祝いするんですから。ね、悟空?」

緑竜鼠の丸焼きを始め、目の前に山と積まれた料理の数々に圧倒される青年を他所に、猛烈な勢いで料理をかき込み始めた悟空に八戒は茶を差し出してやっている。
当の悟空は料理を咀嚼するのに忙しく、コクコクと頭だけで返事をした。

「さ、僕たちも頂きましょう。‥‥まず乾杯しましょうか、一応お祝いですし」

八戒が酒の入った器を近付けてくるのを見て、慌てて青年も側の酒器を手にする。

「将来有望な獣医さんに。ついでに、悟浄の生命力にも」
「ゴキブリ並の生命力に、だろ?」

いつの間にか横から悟空が、料理からは目を逸らさず、それでも手にした湯のみを伸ばしてきている。
どうやら素直じゃないのはあの僧侶だけじゃないらしいと、青年は内心可笑しく思う。
陶器の触れ合うやや低めの音が、それでも皆の本心を告げているかのように弾んで響いた。
 

 

 

 

 

 

 

「てめぇっ!何しやがる!」

三蔵に思いっきり蹴り倒された悟浄は勢い良く跳ね起きると、三蔵に食って掛かった。が、病み上がりで弱った身体への一週間ぶりのアルコールは、想像以上に効きが良かったらしく、たちまちベッドに突っ伏す羽目になる。

「馬鹿が。暴れるからだ」
「誰がさせんだ、誰が!」

ふらつく身体を必死に起こそうとしたところで、上から圧し掛かってきた三蔵に阻まれうつ伏せにされた。ぐるぐる回る頭で思いつく限りの悪態を並べてみたものの、完全に酔いが回った体では反撃もおぼつかず、見る間にシャツを剥ぎ取られてしまう。す、と背中を撫でる三蔵の指先の冷えた感触に、悟浄は身体を震わせた。

「消えた、な」
「何が――」

肩甲骨の下辺りを滑る三蔵の指に、悟浄は自らの問いを飲み込んだ。自分は直接見てはいないが、確かそこには、疫病に感染した証である黒い死の花が咲いていた筈だった。

「実は、刺青とか燃えるタイプ?」

漏らされた三蔵の呟きが名残惜しげに聞こえた気がして、悟浄は意地悪く口元を吊り上げる。突っかかってくるかと思いきや、いや、と意外にあっさりと三蔵は否定した。
不意に三蔵の気配が揺れた―――と思ったら、背中にチクリとした刺激。数度にわたり与えられる痛みと、三蔵の髪が肌を擽るこそばゆい感触に、上がった体温は酒のせいだと悟浄は自分に言い訳してみる。

「やっぱり、こっちの方が似合うな」
「‥‥‥この生臭がっ‥‥」

恐らくは、自分が付けた赤い印をなぞっているのだろう三蔵の指と満足げな声の響きに、悟浄は自分の頬がますます熱くなるのを自覚した。時々、三蔵は悟浄が居た堪れなくなるくらい恥ずかしい事を堂々とやってのけるのだ。

振り向く事も出来ないまま、枕に顔を埋める。そんな悟浄の反応を楽しむかのように、三蔵は指を滑らす範囲を徐々に広げていく。その感触に漏れそうになる声を必死に抑えていた悟浄だったが、ついには後ろから抱きすくめられるように覆い被さられた途端、火がついたように暴れ出した。

「病人相手に盛ってんじゃねぇよ!放しやがれ、クソ坊主!」

こんな時に『病人』を持ち出すのは我ながら卑怯だと思うものの、しばらくぶりに触れられた肌の異常な熱さが悟浄にある種の恐怖心を起こさせていた。このままなだれ込めば、酔いも手伝って、自分はすぐに理性を保てなくなる。
隠していた本音を。自分の弱さを。余計な事を口走りそうな気がして怖かった。
 

「悟浄」

だが、三蔵は手を緩めない。代わりに耳元に唇を寄せ、囁くように名を呼んだ。

「まだ、俺の側で眠るのは嫌か?」

その瞬間、暴れていた悟浄の動きが止まる。

「俺は、側にいたかった。‥‥‥てめぇのためなんかじゃねぇ。俺のためにだ」

決して、死を看取りたい訳ではなく。
悟浄が目覚めた時、最初にその目に写すのは自分の姿でありたかった。最初に自分の名を呼んで欲しかった。―――ただ、それだけのために。
エゴと言われても構わない。自分には、それが必要で当然だったのだ。

 

何の迷いも無く言い切る三蔵の言葉に、悟浄は正直拍子抜けする。

(敵わねぇよなぁ)

きっと、自分もそう思う。もし逆の立場だったら、自分だって離れたくないと願う筈だから。ただ、それを弱さだと恥じる必要は無いのだと、率直に言動で表す三蔵の強さを、羨ましいと思うだけだ。

あの時、三蔵の前で死んでしまう事を恐れたのは紛れもない本心。けれども、それとは裏腹に片時も離れないで欲しいと願う自分が心のどこかに確かにいた。

離れて欲しくて、居て欲しくて。

三蔵の事を思うなら取るべき行動はひとつしかなく、自分はそれに従った筈なのに、心のどこかが悲鳴を上げていた。それを弱さとしか思えなくて、気付かない振りをした。自分の弱さを三蔵に気取られるのが嫌だった。それなのに。

自分がそれなりに悩んで言い出せなかった事をあっさりと言葉にされ、悟浄は何だか馬鹿らしくなり考える事を放棄した。どのみち、この酔った頭ではマトモな思考など働かないのだから。

 

「なぁ、三蔵」

だから、酔いのせいにして。

「覚えてるか?あん時さ、今度俺の言う事聞いてくれる、っつったよな?今でもいいよな?」

今なら、言える。

「‥‥‥‥言ってみろ」

三蔵は、悟浄を抱きしめたままだ。
大人しくなった身体を抱き込む腕の力は些かも緩まらないけれど、三蔵の緊張が指の先から伝わる気がして、悟浄は少しばかり可笑しくなった。『さっさと手を放して出て行け』と言われるとでも思っているのだろう。
僅かな笑いを見咎めたのか、三蔵がムッとしたのが悟浄にも分かった。悟浄は笑いを収めて、その言葉を呟く。

小さな声で、だがありったけの想いを乗せて。

 

 

「‥‥!」

悟浄の言葉に、三蔵は虚を突かれた様だった。少しの間、身じろぎひとつせず固まっていたが、直ぐに背中越しに伝わる気配が柔らかいものに変わる。
同時に、きつく回されていた腕が緩み―――再び、ゆったりと深く抱え直された。

久し振りに感じる温もりに包まれて、悟浄は笑みを浮かべながら瞳を閉じる。

 

ずっと言いたかった言葉を、ようやく言えた。
その充足感に浸りながら。
 

 

 

 

『お前の側で、眠りたい』
 

 

 

 

 

 

「あなたの側で眠りたい」完

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