あなたの側で眠りたい(15)

「‥‥‥‥」

横たわっていた患者から、微かに声が聞こえた気がした。
目が覚めたのかと青年が視線を向けるが、患者は身じろぎひとつせず、僧侶も取り立てて様子を伺う気配もない。

「鱗の方、ちょっと見てきますね。そろそろ‥‥‥」

気のせいだろうと腰を浮かせかけた青年を、三蔵は自らが先に立ち上がる事によって制した。

「俺が行く。‥‥‥少しの間、頼む」

ちらりと視線を紅い髪に落とした僧侶は、早口に告げると青年に頷く暇も与えずテントから出て行った。その性急な行動に、しばし呆然とする。

「どーしたんだろ、トイレかな‥‥?」
「‥‥煙草、だろ」
「うわっ!」

不意に聞こえた声に、青年は飛び上がった。眠っていた筈の病人が身を捩ったかと思うと、ごほごほと咳き込む。どうやら起こしてしまったらしい。

「すみません、煩くしちゃいましたね」

僅かに首を振る間にも、横たわる患者―――悟浄は身体を丸め、ますます激しく咳き込んでいる。合間に漏らされる浅い呼吸に僅かな呻き声が混ざり、その苦痛の程が伺える。
青年は一瞬だけ躊躇うと、脈を取るため汗の光る首筋に手を伸ばし、愕然とした。

熱が、引いてる!?

手から伝わる冷たさが、背筋まで凍らせるような気がした。
この状態で、治ったなどと考える人間はまずいないだろう。何せ照らし合わせる症例は何処にもないのだ。どんな事態も起こりうる。

取り合えず仲間の人たちに知らせよう、と立ち上がりかけた青年の腕は、どこに残っていたのか強い力で引き止められた。思わず見下ろした青年の視線の前に、焦点の定まらない紅い瞳が揺れている。

(わ‥‥)

こんな場合であったが、青年は思わずその色に見とれてしまった。が、それも束の間。すぐに激しく咳き込む音により我に返る。

「ちょっ‥‥!大丈夫で‥‥!」

水を、と苦しげな呼吸の合間に求められ、慌てて自分の運んだ水を器に移し、悟浄の口元に運ぶ。余程喉が乾いていたのか、一気に飲み干し、何度もお代わりを求められた。
喉の渇きが潤され幾分落ち着いたのだろう、荒い呼吸はそのままに、初めて悟浄は青年に向かい笑いかける。お医者サマ?と尋ねられ、青年は曖昧に頷いた。自分がまだ学生でしかも専攻は獣医学だなんて事は、この際言わない方がいい。

「アイツ‥‥、アンタ、に、‥‥我侭、言ったんだ、ろ?悪ぃ、ね」
「いえ、そんな‥‥。寝ててください、もうすぐ薬が出来ますから」

もう少し待って、と青年が言う前に、悟浄は『なぁ』と呟いた。

「その、‥薬、って‥‥キツい、かな。‥‥気ィ‥‥失う、ぐれぇ」
「え?」
「‥‥キツい、ん‥‥、だろー、なぁ‥‥」

悟浄の質問の意図するところが掴めない青年は、少々戸惑った。悟浄が『薬を飲んだ後に苦しむのか?』と問うていることは分かる。だが問題はそんな事ではなくて、薬自体が効くか効かないかという部分であるはずだ。鱗に含まれる毒素によって、命を失う事を心配するのならまだ理解できるのだが。

まさか、分かってない‥‥?

緊張で乾ききった唇を、青年は思わず舐めた。

「お、推測ですけど、多分‥‥」
「そ、か」

青年の一旦は決めた筈の覚悟が、足元から揺らぐ気がした。
 

まさか、薬を飲めば無条件に助かると思っているのだろうか。
だから『苦しいの嫌だなぁ』とか漠然と考えているのだろうか。

この患者だけではなく―――ひょっとしてあの僧侶も、緑の眼をした青年も、患者の為に水を汲んできてくれた少年も、もしかしたら、みんな。
だから僧侶は取り乱した様子もなく、あんなに穏やかに過ごしていられたのだろうか。

――――――どうしよう。どうしよう。正直に告げるべきか?それとも、知らせないままの方が。助からないとは限らないし。

けど。
獣医の、しかもまだ勉強中の自分に、彼を助ける事など出来るのだろうか?
いや、確率から言えば果てしなく分が悪い。
鱗の成分を分析する時間もない今、例え自分に出来た事が、鱗を丸まま摂取させるという決断を下してすり潰す指示を出しただけだとしても、‥‥‥‥‥‥このままもし彼が死んでしまったら。

僕のせいになるんじゃないか?

だとしたら、タダでは済まないかもしれない。
僧侶に銃口を突きつけられた時の恐怖が、まざまざと思い出され、足が震える。
何とか彼が薬を口にする前に逃げ出したいと、正直思った。

 

 

「あ、の‥‥さ」
「あ、はい」

掠れた声で呼ばれ、叫び出したいのを何とか堪える。努めて平静を装った声は震えていなかっただろうか。研究室に篭りっきりで、動物の死体を見ても具合を悪くする自分にも、こんな意地があったなどとは意外な事実だった。

「薬、出来、たら‥‥。俺が、飲む前、に。アイツ、らと‥山、降りて‥く、ね?」

一瞬、見透かされたのかと思い、息を呑む。

「特、に‥‥アイツは、近付け、ね‥‥で、欲しいん、だわ」

アイツ。

それが誰を指しているかは、聞かなくても分かる。短い彼との会話の中でも、常に中心に存在する金髪の僧侶。この患者が炎から転がり出てきてからの彼の行動を考えれば、二人の間に何があるかは想像に難くない。無論、命が惜しいので突っ込まないけれど。

「な、何故です?」

恋人―――だろうと青年は推測しているが―――に離れて欲しいという理由が図りかねて問い返すと、今度は悟浄が曖昧に笑う。
ほんの今しがたまで青年も下山を望んでいたはずなのに、何故だか素直に頷く事が躊躇われ、つい精一杯の虚勢を張った。

「こ、これでも、医者の端くれです。そんな状態の貴方を一人になんて、で、出来ませんよ。理由‥‥そう、理由を、教えてください」

カラカラに乾いた口内に舌がもつれて上手く喋れない。そんな青年の様子に苦笑しつつ、数度の咳に身体を折り曲げ、悟浄は微かな声を絞り出した。

「‥‥の、前で、‥‥眠りたく、ね、カラ」
「え?」
「カッコ、悪ィ‥‥、だろ。喚く、かも、‥‥しんね、ぇし」
「‥‥‥‥な」
「意識‥‥トんで、る時、の行動‥‥まで、責任、もてねぇ、って」

そう告げると、口元を押さえて大きく肩を震わせる。青年は背中を擦ってやりながら、言葉を失っていた。
つまるところ、自分が苦しんでいるところをあの僧侶には見られたくない、と彼は言っているのだ。

そこで青年は気がついた。
逆に言えば―――意識がある間は、苦痛を見せないですむ、と?

(‥‥‥そう言えば)

思い当たる節がある。
さっき彼が目を覚ましてからというもの、それまで眠っていた時とはうって変わって呼吸は乱れ、苦しげな様相を呈している。いくらなんでも、急激に容態が悪化しすぎだ。

いや、正確には『目を覚ましてから』ではない。彼が―――金髪の僧侶が、側を離れてから、だ。

「‥‥‥ずっと、寝た振りしてたんですね?」

俄かには信じ難い事だった。だが、これまでの経緯から推すに、この患者は自らの苦痛を我慢していたとしか考えられない。そう、呼吸すら乱れぬように、意識して。

意地か。それとも信念か。
それを下らないと哂うほどには、青年はスレてはいなかった。

答えず再び緩ませようとする口元の血を丹念に拭ってやれば、すまなそうに眼が伏せられる。

「‥‥‥色々、と、‥‥どー、も‥‥」
「お礼を言うのは早いでしょう。‥‥‥だって、まだ」

助かるかどうかも分からないのに―――。
流石にその言葉だけは口には出さなかったが、何かを察したのか今まで青年が見たどの表情よりも柔らかく、悟浄は笑んだ。
その笑みは、悟浄が何もかも知っているのだという事を真っ直ぐ青年に伝える。知っていて、少しでも青年の気を楽にするためにと笑っているのだ。

「だ、からさ、―――今の、うちに、‥‥言っとか、ねー、と‥‥‥」

ゴホゴホと咳き込み、言葉が切れ切れとなる。それでも、悟浄は笑ったままだ。

「あり、がと、な‥‥‥センセ」

 

助けてあげてください。青年は思わず祈っていた。
通りすがりにも等しい自分の為に笑い、自分の大事な人の為に苦痛を隠す。この優しい人を、どうか。
先程浮かんだ不安など、既に忘れ去っていた。ただ、この人が助かって欲しいと、青年は心から願った。
 

 

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