あなたの側で眠りたい(14)
月明かりだけを頼りに山道を疾走していた悟空が、眼下に谷を見下ろせる地点に差し掛かり、ふと足を止めた。三蔵と八戒が、鱗を得るため足を踏み入れた時には誰もいなかった筈のその場所に、今は大勢の人間の気配が、松明と共に揺れている。 目が覚めたら、取り合えず朝メシをかきこんで。 そんないつもと変わらぬ朝が来るのだと。 一日前には疑いもしなかった夜が、今明けようとしていた。
夜露を避けるために張られたテントの中。 今でこそ落ち着いた呼吸で眠っているが、ついさっき、悟浄は二度目の血を吐いた。
「あの〜。鱗の方はあと少しかかりそうなんで、とりあえずお水、持って来ました。‥‥‥‥で、どうです?患者の様子は‥‥って、寝てるみたいですね」 ひょっこりとテントの布を掻き分け顔を覗かせたのは、例の青年。 「水‥‥?」 三蔵の眉根が顰められるのに臆した様子も無く、青年はどかどかとテントに入り込んできた。 「大丈夫ですよ、ちゃんと向こうの山の湧き水を汲んできて貰いましたから。ええと、確か‥‥悟空君でしたっけ?足速いですねぇ、彼」 感心した風に頷きながら、青年は手にした水瓶を下に置いた。見慣れない水瓶を追う三蔵の視線に気が付いたのか、ああ、と瓶の肌を撫でる。 「村の人が用意してくれたんですよ‥‥。ほら、さっき一人大声で泣いてた人がいたじゃないですか」 目線で同意を求められ、三蔵は頷いた。忘れるはずも無い。昨日、いやもう一昨日になるが―――ここに来て最初に出会った村の男。あの男が悟空を騙し、悟浄に直接危害を加えようとした事は、さっき悟空から聞かされていた。 「あの人が、色々手伝ってくれたんです。本当は、村のお医者様も呼んでくれるって言ってくれたんですけど、どうも体調が悪いみたいで‥‥」 罪滅ぼしのつもりなんじゃないですか。そう呟き目を伏せた青年の表情は心なしか固い。 「‥‥‥‥」 黙ったままの三蔵の胸中を他所に、青年は「あ」と手を打った。 「そう言えば村の人たち‥‥。谷を、焼き始めたそうですよ。―――あなたの指示通りに」 ぴくりと三蔵の眉根が上がる。 「指示した覚えはねぇな。連中が勝手にやってるだけだろ」 俺には関係ないと、にべも無く吐き捨てる三蔵に青年は苦笑した。 「けど、教えてあげたんでしょ?疫病の発生する原因」 傍らでなだらかな曲線を描く毛布から零れる長い髪を一筋手に取り、金髪の僧侶は大切なものを扱うように丁寧に、指を滑らせた。その紅は煤に塗れ、幾分薄汚れてはいたが、青年の目を奪うには十分の鮮やかさを持っている。 青年が生まれて初めて目にした、禁忌の証。 一度は見たいと思っていた。いわゆる希少種に対する獣医の卵としての好奇心。あと、災いを呼ぶ存在という風評が、何だかドラマチックに聞こえたから。 だが、そんな自分を、今、青年は心から恥じていた。 青年にそう思わせたのは、未だ燃え盛る小屋の炎に照らされ、くっきりと姿を浮かび上がらせたこの僧侶の発した言葉。 「残念ながら、こいつはただの役立たずでな。図体ばかりデカくて、酒と煙草と博打と女をエネルギーに動くゴク潰しだ」 自分が言ったくせに、『女』という部分で僧侶の機嫌が悪くなったような気がしたのは、気のせいだろうか。 「災いどころか、虫一匹呼ぶ力すらねぇよ。―――あんたらと同じだ」 ―――『同じ』 青年は、横っ面を張り倒された気がした。 髪の色が違うけど。 その時初めて青年は、自らの意思でここに残る事を決めたのだ。
それでも尚、疑心暗鬼に陥った村人たちは悟浄に対する敵意を捨てない。つい一昨日、この村にふらりとやってきた旅人に、遥か昔からの『災い』を押し付けて、一体どうしようというのだろう。
「嘘だ‥‥」 誰かの呟きが耳を打つ。 「嘘をついても始まらねぇよ。あの化け物の本体は、毒によって歪んだ谷の植物―――草花や樹木の『気』のかたまりだ。谷の植物を見た事はあるか?異常にデカイのがあると思えば枯れたものやら不自然に枝を伸ばしてるものも多い。完全に環境が狂っている」 村の因習として緑竜鼠の骨や鱗を捨て始めてからの長い間。時間を掛けて死骸が風化し、雨に打たれて染み出した薬効と―――病原体を含む毒素。それらはやがて地中にじわじわと浸透し、水脈を侵していく。汚染された水は川となり、周辺の大地を腐らせながら下流へと進むのだ。 「あいつの様子がおかしくなったのは、ここからかなり離れた下流の水を飲んでからだ。あんな所まで病原体を垂れ流してんだよ、てめえらは」 恐らく、一度に捨てられるのはほんの僅かな頭数だったはずだ。 ―――やがて臨界点を、超えた。
疫病の大量発生。 抜け出しようの無い、永遠の悪循環。 「変化が目に見えるのは、直接的に遺骸の毒素を浴びる谷の植物だがな。‥‥恐らく、この山から湧き出る水を摂取して生きるものは、大なり小なりその影響を受けている筈だ。人間に感染しなくて幸運だったな」 「そんな‥‥」 水と土と植物と。恐らくは人生の大半を捧げてきた大切な家畜と。 「あの化け物は、人間を見ると無条件に寄ってくる。‥‥本体は植物だが、僅かに鼠の思念が憑着してるんだろう」 余計な事だと思ったが、三蔵は付け加えた。 「‥‥それでも動物の本能からすれば特異な行動だ。余程、人間に可愛がられてたらしいな」 村人たちを恐怖に陥れていた化け物の行動は、害を成す為にではなく、ただ思慕の表れだったのだと告げる三蔵の言葉は、もしかしたら残酷なものだったのかもしれない。 誰かが、大声で泣き出した。
村人たちが肩を落として去り、既に幾許かの時が過ぎた。外では二人の仲間が、鱗をすり潰す作業に追われていることだろう。 青年は、目の前の僧侶を見つめた。 「どうなるんでしょう‥‥これから。この村は」 例え谷を土ごと焼いたとしても、侵食された環境を元に戻すのは容易ではない。一度、潰れた環境を元に戻すのは、気の遠くなるような年月が必要なのだ。 「‥‥‥‥さあな」 やはり視線は動かさぬまま、三蔵は呟いた。
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