あなたの側で眠りたい(12)

(悟浄―――)

ふと誰かに呼ばれた気がして、悟浄は目を上げた。
辺り一面に漂う霧の中、悟浄は一人佇んでいる。手にした錫杖の刃から滴り落ちる鮮血が、今が戦いの最中である事を示していた。だが、どうしても自分が何と闘っていたのか思い出せない。
自らを包む霧にも似た、ぼんやりとした感覚。

『どうした?俺はここだ』

いつの間に現れたのか、目の前には純白の法衣を纏った最高僧の姿。

『来い、はぐれるぞ』

差し出された手に、穏やかな微笑。そして悟浄も、素直に手を伸ばす。普段ならありえない互いの言動も、今は不思議と当然のように感じられた。
あと数センチで手が触れる、という所まで近付いた時。

三蔵だったモノは、悪鬼に変わった。

 

 

 

 

 

(な‥‥?)

何が何だか分からぬまま、悟浄は眼前の男を見上げる格好となった。

―――――何故、見知らぬ部屋で自分は膝をついているのだろうか。

目の前には、自分たちを小屋に誘った村の男がいる。確か自分は三蔵たちの元へと向かったはずではなかったのか。男に出会った時からの記憶は曖昧で、悟浄を心もとない気分にさせる。

(そ‥だ、猿のヤロ‥!)

微かに腹が疼く感覚に、不意に記憶が蘇る。どうやら自分は、男の言っていた小屋に連れてこられたらしい。では何故、悟空はここにいないのだろう‥‥?

頭痛と眩暈で頭が上手く働かず、今ひとつ思考が纏まらない。
だが、半ば朦朧とした意識の中、一つだけはっきり認識出来る事があった。男は、簡素なベッドに刃物を突き立てていた。恐らくは、今まで自分が横たわっていただろう場所に。
三蔵に化けた悪鬼に襲い掛かられ、それをかわしたのは夢の中の出来事の筈だったが――――。

そこで悟浄は、自分が男の殺気に反応して寝台から飛び起きたのだと思い至った。

「‥‥人違いとかだったら、洒落に‥‥なんねー‥‥ぜ?」

男が刃物を引き抜こうと躍起になっている姿は目に入るが、逃げようという気は起こらなかった。勿論身体が動かないという事もあったが、何より襲われる心当たりがない。

「―――お前のせいだ」
「あ?」

ぎりりと歯軋りの音が聞こえるほどに歯を食いしばった男が、ややあって口を開いた。

「お前のせいで、俺の可愛いあいつらが死んだんだ!お前さえ、村に来なければ!」

 

「ああ‥‥そゆコト、ね」

さて、どうしたものか。
悟浄は上手く回らない頭で考え始めた。
被害妄想に陥っているこの男に何を言っても、恐らくは無駄だろう。だからといって、このまま黙って殺されてやる義理もない。

「最初は‥‥カミサマ‥‥のせい、だっけか」

刃物を抜き、構え直した男の身体がぴくりと震える。

「んで、次は、俺のせい‥‥?‥‥で、俺を殺して、次は‥‥誰のせいに、する、わ、け?」
「うるさい!お前だ!何もかもお前のせいだ!」

悟浄は内心ため息をつく。どうやら口で話してもこの状況は打開できそうもない。

「‥‥ひとつ、聞くけど‥‥悟空‥‥俺の連れ、は?‥‥」
「あの子にゃ、何もしねぇ‥‥。ぼうずには関係ないことだからな」

男の答えに安堵の笑みを浮かべた悟浄は、何とか意識を集中して錫杖を取り出した。
 

 

 

 

 

 

「八戒!もう少しスピード出ねぇのか!?」
「これでいっぱいですよっ!これ以上はジープがもちません!」

谷から合流地点まで駆け戻ってきた三蔵たちを出迎えたのは、落ち着きなく飛び回るジープだった。残れと言われたものの悟空たちの事が心配で、彼らの後を追うか、三蔵たちの元へ行くかで頭を悩ませていたらしい。

「ジープ君かぁ。いやぁー、これも変わった生き物だなぁー。いいなぁー、欲しいなぁー。研究してみたいなぁ」

きらきらと目を輝かせながら後部座席で車体を撫で回すのは、谷で三蔵たちが出会ったあの青年だ。ジープを一目見たときから興味を示していたが、車に変身するのを目の当たりにして感極まったあたり、獣医の卵というよりはどこかのアブない研究者である。

「ピ〜ッ‥‥」

隙あらば解剖でもしかねない青年の様子に、ジープが心細げな抗議の声を上げている。

「何で、てめぇまでついて来てるんだ!」
「あんな恐ろしいところに置いて行かれるなんて真っ平ゴメンです!」

つい先程三蔵にも恐ろしい目に遭わされた事は忘れてしまったのか、間髪入れず答える青年には三蔵も呆れて口を噤むしかない。

「二人とも、黙ってないと舌噛みますよ!ジープ、もう少しですから頑張って!」
「ピィッ!」

今度は力強く返事をしたジープに感謝しつつ、八戒はスピードを緩める事無くハンドルを捌いた。
 

 

 

 

 

悟浄は正直、男の攻撃に手を焼いていた。
闇雲に刃物を振り回し、ひとつ間違えば悟浄どころか男自身も傷付けかねない程無茶苦茶に攻められては、なかなか反撃の機会が掴めない。
これがもし相手が敵意を持った妖怪だったのなら、もう少し早く決着が着いていたことだろう。無論、相手が人間であっても、自分に殺意を持つ相手に手心を加えるなどという寛大な心の持ち合わせは無いつもりだが―――。

悟空には危害を加えないと言った男。自分が大切に育てた家畜をあっけなく失い、失意と悲しみの中で、やり場の無い憤りを抱え続けていた男。

例えどんなこじつけにせよ、何がしかの理由を付けて誰かに怒りをぶつけるしか、自分を保つ術が無いのだろう。
事あるごとに見せた男の悲しげな表情が目の前をチラつき、只でさえ重い悟浄の動きを益々鈍らせていた。

手にした錫杖は振るわれず、悟浄の身体を支えるために使われている。狭い部屋の中では、錫杖の動きは直線的なものにならざるを得ないため、そのまま武器として使えば、男を傷付けることになるからだ。
普段なら、素手の格闘に持ち込めば何という事も無い相手だが、今の悟浄にはそんな力は何所にも無い。鋭い刃で威嚇しつつ、悟浄は錫杖を杖代わりに、男の攻撃を受け止め、かわし、その場を凌いでいた。まるっきり防戦一方である。

(そろそろ、諦めてくんねぇかなぁ‥‥)

どうしても男を傷付ける気にはなれないし、自分も殺られる訳にはいかない。だが、このまま長引けば少々マズい事になりそうだ。
悟浄は何とか狭い小屋から外に出ようと、男の攻撃を受けながらも自分の位置を変え始めた。
外に出れば、もう少し自由に錫杖を扱える。一振りくらいなら、まだ何とかなる。鎖を操り男の動きを封じる事も出来るだろう。

男の顔に焦りの色が浮かぶ。例え半分妖怪だとはいえ、病に蝕まれロクに動けないだろうと高を括っていたのである。興奮していた男には、悟浄が自分の攻撃を軽くいなしているとすら感じられていた。
自分に向けられる紅い瞳が、何か得体の知れないもののように映り、恐怖が益々強くなる。
耐え切れなくなったのか、悟浄が戸口へ進む前に男は身体を反転させ、自らが外へと向かった。

「あいつらと同じ目にあわせてやる!」

浴びせられた捨て台詞を追おうとして、悟浄は外にいる複数の気配を感じた。男の攻撃をかわすのが精一杯で、外の様子にも気付かなかったとは迂闊だった。
ヤバい、と本能が訴える。

男が戸口から飛び出すのと同時に、開いた戸から何かが投げ入れられる。床で割れた瓶から飛び散る液体―――独特の匂いが鼻に付く。
油だ、と悟浄が認識した瞬間には、続いて投げ込まれた松明の炎から一面が火の海と化していた。すぐさま閉じられた扉に外から火がかけられる気配。そこから出るのは自殺行為でしかない。すかさず窓という窓から続けざまに、油と炎が投げ入れられる。
 

前からも、後ろからも、迫りくる炎。
熱気と煙で目を開けていられない。
ゴホゴホと咳こむ度に、更に煙を吸い込んでしまう。
息が苦しい。
出口を求めて数歩歩いたところで、限界が来た。
悟浄はもう動けなかった。壁に縋るようにずるずると崩れ落ちる。

あついじゃねーか‥‥馬鹿野郎。

こんな時にさえ、気の利いた事を考えられない自分に苦笑する。動かなければと思う頭に反して、身体はぴくりとも反応してはくれない。
 

案外あっけないなと他人事のように思った。
 

薄れゆく意識の中、どこか遠くで大きな物音を聞いたような気がしたが、すぐに全てが暗闇へと飲み込まれた。
 

 

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