あなたの側で眠りたい(11)

「なっ、何なんですか、あの変なぶよぶよは‥‥。こ、腰が‥‥」

ずるずると這いずる様に姿を見せたのは。少し細身の、髪を短く刈った、ごく普通の青年。仕立ての良いシャツとスラックスといういでたちと訛りのない言葉遣いが、今までに出会った村人とは違う垢抜けた印象を与えている。
だがせっかくの服装も山歩きのせいで随分と薄汚れていた。もっとも今も地面に直接へたり込んでいては、汚すなという方が無理だろう。
青年は、今にも泣き出しそうな顔を八戒たちに向けた。傍で見ていてもはっきり分かるほどに身体が震えている。
怯えを隠す余裕がないのか。それとも、こちらを油断させるための演技か。

「貴方‥‥村の方じゃありませんね?」
未だ警戒を解かない八戒の探るような視線に、青年はさらに身体を縮めた。

「こ、ここからずっと離れた隣の町から来たんです。僕は、獣医のタマゴで、そ、その、大学で勉強してて、それでここの疫病に興味があって」

そう言えば、隣町の大学から調査に入るとか聞いたが、この男もその一員なのだろうか。その疑問を八戒が問いただすと、青年は勢い良く首を横に振った。

「いえ、それは風水の研究をしているチームですから。僕は個人的に‥‥って、あれ?患者は‥‥?一緒じゃないんですか?せっかくデータを取らせて貰おうと‥‥」
「データ?」
「あ!まさかもう鱗飲んじゃったなんて事はないですよねっ!?」

恐怖より何の情熱が勝っているのか、青年は必死の形相で二人ににじり寄ってくる。どうやら敵ではない様子だが、安心するには彼の言動は不審すぎた。
この忙しいのに―――、と八戒は内心嘆息する。

「いいから、少し落ち着‥‥」

「落ち着いてなんかいられませんよ!禁忌の子供なんて珍しい生き物、滅多にお目にかかれるもんじゃないし!ましてや自分が研究中の疫病に感染するなんて、そんなチャンス多分二度とないし、鱗を飲んで治るか死ぬかしちゃう前に―――っ!?」

青年は言葉を途中で飲み込まざるを得なかった。警戒感は露にしていたものの、どちらかといえば物腰柔らかだった眼前の男の雰囲気が、一変したからだ。

「‥‥‥何が、珍しい生き物ですって?」

しまった、と思った時には遅かった。
凍てついた視線に貫かれ、青年は痛みすら錯覚した。再び全身を恐怖が襲い、がたがたと震えが走る。何か言わなくてはと頭は焦るが、口を動かす神経は脳の命令を無視して硬直したままだ。

「何が、チャンスですって‥‥‥?誰が‥死ぬ前に、ですって?」

詰問の口調ではあったが、それは決して返答を求めてはいなかった。ただ、美しい緑の瞳が怒りに燃えるのを、青年は息を呑んで見つめるしかなかった。

「あの人が、死ぬわけないでしょう‥‥っ!」

絞り出された声に含まれる願望に。怒りの影に隠された悲しみに。
青年は、自分が口にしてはならない事を口にした事にようやく気付き、蒼白となった。
 

 

「―――おい」

それまで黙っていた金髪の僧侶の声に、青年は縋るような視線を向ける。

―――誰でもいい、このいたたまれない雰囲気をどうにかして欲しい。

だが。

「アンタどうやってここに来た?」

青年のささやかな願望を打ち砕いたのは、目の前に突きつけられた銃口。
ヒュッ、と喉が乾いた音で鳴る。

「ど、ど、どうやってって‥‥一本道から、ここに、続いてた、山道を、辿って」

恐怖が青年の呼吸を浅くしている。膝が震え、がちがちと歯の鳴る音を抑える事が出来ない。月に照らし出されたその顔は真っ青で、明らかに酸素が足りていない。
だが、それを心配してくれる人物は、ここには存在しなかった。

「お探しの病人は、途中に居た筈だ」

全ての感情を押し殺したような低い声と同時に、聞きなれない金属音が青年の耳を打つ。
それが撃鉄を上げた音だと、視覚が後から彼に教えた。恐怖が脳への情報の伝達を狂わせている。

「奴をどうした?貴様、本当はここに何しに来た」

額に押し当てられる冷たい感触。
臨界を越えた恐怖に後押しされ、硬直していた青年の言葉が爆発した。

「う、嘘じゃありません!本当に僕は調査のために‥‥!途中には誰も居なかったんです!本当です!本当なんです!信じてください!」

半狂乱になって喚きたてるその姿は、ただの小心な若者そのもので、とても嘘をついている様子には見えない。八戒が三蔵に目配せすると、三蔵は黙って銃を下げた。青年は安堵したのか大きく息をつくと、完全に抜けた腰をさすりながら呼吸を整え始める。
一方の三蔵は、銃は下ろしたものの、冷たさを含んだ無表情は崩さなかった。まだ疑念は晴れたわけではない。自然口調も固いままとなる。

「なら、何故病人が禁忌の子供だと知っている?村の連中は知らん筈だ。もし知っていれば―――」

タダでは済まなかっただろう。

その言葉を、三蔵は飲み込んだ。
瞬間、背筋に冷たいものが走る。まだ、終わってはいない。ここはまだ、村の中だ。

「‥‥さんぞう‥‥」

八戒の掠れた声が耳を打つ。三蔵と同じ事を、流石に八戒も思い当たったらしい。

「あ、あの。病人は紅い髪で紅い瞳だった、って村で聞いて。大学の友達にそういうの研究してる奴がいて教えて貰ってたんで、僕も興味あって、それで」

にわかに湧いた新たな緊張感に耐えられなかったのだろう。青年が言葉を発した。
取りあえずの生命の危機が去った安堵感からか、それとも未だ残る恐怖を払拭するためか、青年は絶え間なく喋り続ける。

「目立つ容姿の割に、案外存在を知られてないんですよね。村の人たちも全然知らなかったって、みんな驚いて―――え?」

青年の言葉を最後まで聞かず、三蔵と八戒は同時に駆け出していた。何の合図も必要なかった。
自分達の危惧が的中した事を二人は知った。青年の口から、悟浄の出生が村人に伝わったのだ。神の祟りを信じる閉鎖的な村。古くからのしきたりと因習が根強く残る村。
そんな所で禁忌と呼ばれる存在はどう受け止められるのか。

三蔵は自らの見通しの甘さを悔やんだ。
タダでは「済まなかった」のではなく。「済まない」のだと。

「あの!?――――ち、ちょっと?」
背後からの焦った声にも振り返らず、来た時の数倍の速さで洞窟を抜ける。
自分が何をしたのか理解していない青年へ怒りをぶつけるよりも、何よりも。
優先されるべきものが、他にあった。

(悟浄‥‥!)

失えないものが、確かにあった。
 

 

 

 

 

 

 

「足元に気ィつけてな。暗いから」

小屋に備えられていた簡易の寝台に悟浄を寝かせた後、悟空は男の手伝いで炉の燃料用の薪を取りに外へ出ていた。
気を失った悟浄と共に男の車に乗り込み、小屋までやって来たのはつい先程の事だ。
ジープには、谷から戻る三蔵たちのために合流地点に留まるように頼んでおいた。これではぐれる心配はない筈である。

「ここが、薪やら泊まりの時の食料やらを貯蔵しとくところでなぁ」

地中に掘られる形で作られた貯蔵庫は、小屋のすぐ向かいにあった。男が手にした照明に促されるまま中に足を踏み入れると、外気よりもやや低い空気がひんやりと肌を撫でる。
薪の他に、食料なども貯蔵されているのだと男が教えてくれた。焼却する個体の数によっては、泊りがけで炉に火を入れなくてはならないのだという。
確かに、小屋の側で唸りながら熱を発していた炉は小型で、傍らには焼却を待つ緑竜鼠の亡骸が無造作に積み上げられていた。炉の焼却能力が追いついていないのだ。

「じゃあ、おっちゃん今日は徹夜?」

崖から突出するように設置された鉄の塊を思い出しつつ、悟空は薪の山を崩さないように慎重に手を伸ばす。背後の方で男が笑う気配がした。

「ま、仕方ねぇさな。なんせ何年か前までは、疫病には感染するやつはちょっとしかいねぇでなぁ、あれぐらいの炉で十分だったんだ。けど数が多くなっちまったし火力は足りねぇしで、どうしても時間がかかってなぁ‥‥‥‥こんな事ならもっと早く、でかい炉を据えときゃあ良かったよ」
 

―――人が焼けるくらいにな。
 

「え?」

最後に男が呟いた言葉を聞き違いかと悟空が問い返したのとほぼ同時に。背後の貯蔵庫の扉が、突然きしんだ音を立てて閉じられた。間髪入れず、施錠の音。当然穴倉を照らしていた明かりも遮られる。
突然闇の中に放り出され、悟空は閉じ込められたと認識するのが一瞬遅れた。

「おっちゃん!?」

手にした薪を放り投げ、真っ暗な穴倉の中を入り口まで駆け戻る。

「何すんだよ!冗談止せよ!」

思いきり扉を叩くがビクともしない。僅かな隙間からかろうじて漏れる光が揺らめいて、男がまだそこにいるのだと悟空に知らせた。

「勘弁な、ぼうず。けんどどうしても俺は許せねぇ。聞いたで、奴はとんだ疫病神だってねぇか。災いを呼ぶ存在らしいでねぇか。奴がいる限り、祟りが村から消えるこたぁねぇ」

「な‥‥‥」

怒りからだろうか扉の向こうで微かに震える声を、悟空は呆然と聞いた。こいつは何を‥‥言っている?悟浄が災いをどうしたって?祟りが何だって?

「終わったら、出してやっから」

隙間から漏れていた光が弱くなる。男が扉の前から離れたのだ。
 

―――『終わったら』?

ようやく浸透してきた、男の言葉。
その意味を考えるより先に、身体が動いた。目の前の扉を殴りつける。

「悟浄に何するつもりだよっ!?開けろ!出せよっ!出せっ!―――悟浄!!悟浄っ!!」

その悲痛な叫びに答える声は既に無く。
ただ自分の声と扉を叩く音だけがわんわんと反響し、悟空の鼓膜を打ち続けた。
 

 

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