名を呼べば(9)
男は車を拒んだ。 ならばと、三蔵は男と共に歩いて鷭里の屋敷を出た。後の事は朱泱と八戒に任せておけば間違いはない。鷭里親子の行く末は、三蔵の関知する所ではなかった。役員と管理職が数人異動したところで、会社さえ潰れなければ、従業員に与える影響も最小限で済む筈だ。 「今日は、さんきゅな」 男が、振り向いて言った。 「マジ、助かったよ。もう一生、あそこから出られねぇって覚悟してたからさ」 軽く笑って、なんでもないことのように話す男。 「俺もうへーきだから。一人で帰れるし。お前もさ、もう戻れよ?さっきの人たち心配すんぞ、会長サン?」 心もち早口に男が捲くし立てる。
唐亜。
自分にとって、誇るべき名なのか忌むべき名なのか、未だに三蔵は測りあぐねている。 乾いた笑みを張り付かせて、まるで犬でも追い払うように三蔵に手を振る男。だが、ここで黙って見送れば、今度こそ男は自分の意思で姿を消してしまうだろうと三蔵には分かっていた。 「いや、家まで送る」 三蔵の言葉に、男の顔から笑顔が消えた。その瞳の紅が輝きを増したように三蔵には思え、目を離す事が出来ない。男が、苛付いた声を上げた。 「あのな、察しろよ!俺はついてくんなって言ってんだよ!」 言い当ててやると男は言葉を詰まらせ、まるで敵を見るような瞳で睨みつけてきた。その瞳の力強さに、三蔵は堪らなく惹かれてしまう。例えそれが男の虚勢だったとしても、膝を抱えて同情を待つより数倍マシだ。
「‥‥‥とりあえず、明日から登校しろ」 このまま睨み合っていても仕方が無いと三蔵が告げた言葉に、男は戸惑ったような視線を向けてきた。 「けど、俺はガッコは‥‥」 男はさすがに驚いたらしく、三蔵の顔をまじまじと見てくる。 「あの女―――、鈴木とか言ったか。今朝の朝礼で派手にやらかしてくれてな。訓示たれてる学長を押しのけて、あの喧嘩の真相について涙に暮れながらのカミングアウトだ。お前が自分を助けるために連中に向かっていってくれたんだ、ってな」 優等生で通る彼女にも、何かしらの鬱憤があったのだろう。たった一度、人生で初めての過ちを、よりにもよって連中に目撃されたのだ。そのままいけば、金を、身体をと、連中の要求は留まるところを知らなかっただろう。 その女生徒は一週間の謹慎処分になったと三蔵は男に伝えた。 「万引き、か。辛ェ告白させちまったよなぁ」 この期に及んでまだ他人を気遣う男に、三蔵は脱力した。しかも相手は、男を陥れる片棒を担いだ女なのだ。人がいいのにも程がある。 だが、どうしようもなく馬鹿で、単純で、哀しいほどに優しくて。反面、簡単に御せる程に容易くもなく、愚かでもない。そんな男を知れば知るほど、三蔵の中の渇望はどんどんと大きくなっていく。もはや男を手放す事など考えられない自分に気付いていた。 「兄貴にも迷惑かけちまったしなぁ‥‥‥って、兄貴にどこまで話してんの?‥つまり、俺がさ‥」 男は口篭ったが、何を言いたいのかは聞かなくても分かる。今回の騒動の、醜悪な真実。 「学校側から説明されるのは、お前の退学処分と処分取り消しに関する一連の経緯ぐれぇだろ」 兄にとっては、まさに青天の霹靂のような出来事だった筈だ。 「悪ぃな、気ィ遣わせて」 クスリと笑う声に、三蔵は訝しげに眉を顰めた。ここは笑うところなのだろうか?と疑問に思いつつも男の表情を注視する。男は一見屈託のないともとれる笑みを、その口元に上せていた。それは、全ての感情を覆いつくすような笑みだった。 「じゃ、そろそろ―――」 男は僅かに首を傾げて、三蔵に告げた。笑ったままの表情は、崩さない。 「本題いこっか?」 だが、その瞳に宿る挑むような光が、口元の笑みを裏切っていた。
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今後も劇的な展開はありません///