名を呼べば(9)

男は車を拒んだ。

ならばと、三蔵は男と共に歩いて鷭里の屋敷を出た。後の事は朱泱と八戒に任せておけば間違いはない。鷭里親子の行く末は、三蔵の関知する所ではなかった。役員と管理職が数人異動したところで、会社さえ潰れなければ、従業員に与える影響も最小限で済む筈だ。
トボトボと歩く男の後ろを、三蔵は黙ってついていく。門を出たところで、男がつと足を止めた。三蔵も、一緒に立ち止まる。
 

「今日は、さんきゅな」

男が、振り向いて言った。

「マジ、助かったよ。もう一生、あそこから出られねぇって覚悟してたからさ」

軽く笑って、なんでもないことのように話す男。
先程、不意に三蔵が目の前に現れたとき見せた動揺は、もうどこにもない。だが三蔵は、既に気が付いていた。男の笑みの持つ意味を。本心を隠し、自分を守ってきた仮面の悲しさを。何も感じていないわけではなく、ただ見せないだけなのだ。そしてそれは、きっと今も。

「俺もうへーきだから。一人で帰れるし。お前もさ、もう戻れよ?さっきの人たち心配すんぞ、会長サン?」

心もち早口に男が捲くし立てる。
初めて言葉を交わした生徒会室。ふざけて会長と呼びかけてきた男の口が、あの時と同じ呼び方で三蔵に語りかける。だが、そこに含まれる意味合いは、あの時とは全く違っていた。自分が唐亜の会長だと鷭里に知らしめたとき、一瞬強張った男の腕の感触を、三蔵は覚えていた。

 

唐亜。

 

自分にとって、誇るべき名なのか忌むべき名なのか、未だに三蔵は測りあぐねている。
ただ確かなことは、唐亜が日本のみならず世界を席巻する大企業であることと、自分がそれなりの責務を負う身である、ということだけだ。戸籍上の名は『唐亜』であるが、警備面の問題とつつがない学校生活をとの思惑から、学校では母親の旧姓である『玄奘』を名乗っている。学校で事務に就く者のうち数名が、実は三蔵付の護衛であることは学校関係者の中でもごく少数しか知られていない。

乾いた笑みを張り付かせて、まるで犬でも追い払うように三蔵に手を振る男。だが、ここで黙って見送れば、今度こそ男は自分の意思で姿を消してしまうだろうと三蔵には分かっていた。
唐亜の名を知ったものの反応は、今までの三蔵の経験からは端的な二種類に分類される。
媚びるか、引くか。
男は、後者のタイプのようだった。最も、ここで三蔵の財力に擦り寄ってくるような男なら、三蔵も惹かれはしなかっただろう。

「いや、家まで送る」

三蔵の言葉に、男の顔から笑顔が消えた。その瞳の紅が輝きを増したように三蔵には思え、目を離す事が出来ない。男が、苛付いた声を上げた。

「あのな、察しろよ!俺はついてくんなって言ってんだよ!」
「お前がこのまま姿を隠さないというなら、今日はここで別れてやってもいい」
「‥‥‥っ」

言い当ててやると男は言葉を詰まらせ、まるで敵を見るような瞳で睨みつけてきた。その瞳の力強さに、三蔵は堪らなく惹かれてしまう。例えそれが男の虚勢だったとしても、膝を抱えて同情を待つより数倍マシだ。
真正面から見るとどうしても男の上着の襟元から覗く赤い痕跡を、三蔵もまた眼を逸らさずに受け止めた。
遠くで、どこかの犬が吼えていた。

 

 

 

 

「‥‥‥とりあえず、明日から登校しろ」

このまま睨み合っていても仕方が無いと三蔵が告げた言葉に、男は戸惑ったような視線を向けてきた。

「けど、俺はガッコは‥‥」
「お前の退学処分は撤回された。兄貴んとこには連絡が行ってる筈だ」
「え?」

男はさすがに驚いたらしく、三蔵の顔をまじまじと見てくる。

「あの女―――、鈴木とか言ったか。今朝の朝礼で派手にやらかしてくれてな。訓示たれてる学長を押しのけて、あの喧嘩の真相について涙に暮れながらのカミングアウトだ。お前が自分を助けるために連中に向かっていってくれたんだ、ってな」
「‥‥‥」
「万引きを、目撃されたそうだ」
「‥‥‥」
「それをネタに連中に脅迫されたんだ、お前が彼女を助けるために連中と諍いを起こしたってことは黙っとけってな」

優等生で通る彼女にも、何かしらの鬱憤があったのだろう。たった一度、人生で初めての過ちを、よりにもよって連中に目撃されたのだ。そのままいけば、金を、身体をと、連中の要求は留まるところを知らなかっただろう。
だが、そこに男が割って入った。
それを逆恨みした連中のリーダーである鷭里ジュニアの目論見どおり、男は学校を退学になった。それでもまだ奴の気は治まらなかったのだ。

その女生徒は一週間の謹慎処分になったと三蔵は男に伝えた。

「万引き、か。辛ェ告白させちまったよなぁ」
「お前‥‥‥」

この期に及んでまだ他人を気遣う男に、三蔵は脱力した。しかも相手は、男を陥れる片棒を担いだ女なのだ。人がいいのにも程がある。

だが、どうしようもなく馬鹿で、単純で、哀しいほどに優しくて。反面、簡単に御せる程に容易くもなく、愚かでもない。そんな男を知れば知るほど、三蔵の中の渇望はどんどんと大きくなっていく。もはや男を手放す事など考えられない自分に気付いていた。

「兄貴にも迷惑かけちまったしなぁ‥‥‥って、兄貴にどこまで話してんの?‥つまり、俺がさ‥」

男は口篭ったが、何を言いたいのかは聞かなくても分かる。今回の騒動の、醜悪な真実。
男の問いに、三蔵は緩やかに頭を振った。

「学校側から説明されるのは、お前の退学処分と処分取り消しに関する一連の経緯ぐれぇだろ」
「お前らは黙っててくれたんだ?」
「‥‥‥‥」

兄にとっては、まさに青天の霹靂のような出来事だった筈だ。
職場で身に覚えのない過失の責任を問われた上、二転三転する自身の処遇。突然の退学処分の宣告と共に姿を消した弟が、一体何処で何をしていたのか。
三蔵でなくても、兄に真相を告げるのは躊躇われただろう。

「悪ぃな、気ィ遣わせて」

クスリと笑う声に、三蔵は訝しげに眉を顰めた。ここは笑うところなのだろうか?と疑問に思いつつも男の表情を注視する。男は一見屈託のないともとれる笑みを、その口元に上せていた。それは、全ての感情を覆いつくすような笑みだった。
故意に作られた表情の下に男が何を隠しているのか。三蔵は無意識に目を眇めて、男の本心を読み取ろうと身構えた。

「じゃ、そろそろ―――」

男は僅かに首を傾げて、三蔵に告げた。笑ったままの表情は、崩さない。

「本題いこっか?」

だが、その瞳に宿る挑むような光が、口元の笑みを裏切っていた。
 

 

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今後も劇的な展開はありません///

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