名を呼べば(10)
「―――唐亜コーポレーション、かぁ。すげぇよな、俺だって知ってる」 まるでからかう様に男が言った。 「それは良かった、説明の手間が省ける」 自然、三蔵の返答はそっけないものになった。大袈裟な仕草で、男の肩ががくりと落ちた。 「オマエなぁ‥‥‥今はそんな冗談言ってる場合じゃねぇだろ!?」 感情が昂ぶってきた二人の声は、次第に大きくなっていく。遅い時間にも関わらず論点のずれた怒号が、静まり返る住宅街には恐ろしいほどに響き渡った。方々で窓の開く音がしたかと思うと『煩ぇ!』『今何時だと思ってんだ!』との声があちこちから振ってくる。 「お前のせいで怒られちまったじゃねーかよ!」 懲りない二人は近所迷惑な罵りあいを続け、道沿いの住人の不興を次々と買いながらも、何とか辺りに人気のない場所まで移動した。 「今日は付いてこねぇの?こないだのオッサン‥‥SPってんだろ、お前のボディガードだったんだな」 三蔵は答えなかったが、肯定の意は伝わったようだった。 「そーいや前にテレビで見たっけ‥‥‥。オーナーが交代したとき、すっげ若いんだってニュースでやってた‥‥‥。自分にカンケーねぇ話だからすっかり忘れてたわ」 男の身体の大きさに不似合いな可愛らしいブランコが、軋んだ音を立てている。それが男の悲鳴のような気がして、三蔵は苦い気分で耳障りな音を聞いていた。 「それで学校も滅多に来ねぇんだ、お前。やっぱ忙しいんだ?」 クスリと男が笑った。その笑いからは、何の感情も読み取れなかった。 「俺、男だぜ?」 男は少し俯いて、そうだったなと呟いた。 「なぁ、俺があの屋敷で何されてたか、気付いてるよな?」 なるべく表情は変えずに、三蔵は努めて冷静に返事をした。鷭里親子の顔をちらりと思い出すだけで、腸が煮えくり返ってくる。俯き加減の男の表情はよく読み取れなかったが、言葉には意図的な軽さがあった。恐らく、笑みは消していない筈だ。 「俺、結構イイらしいよ?あ、コレもこないだ確かめた、ってか」 内容にそぐわない、明るい口調で男は言葉を紡ぎ続ける。 「‥‥何が言いたい?」 三蔵の心の奥に苛付きにも似たさざ波が立つ。 「けどさー、本当に耐えられねぇなら、何とかして逃げ出すなり強盗してでも金を工面するなりしてたと思わねぇ?けど俺はさ、大人しくあの助平親父の言うなりだったのよ。つまり、俺はそーゆーの大丈夫な奴なんだよ。もしまた同じよーな事があったら、どうせ同じ事すんだよ、俺。んで、こんな痕がカラダから消えない生活すんの」 殊更に見せ付けるように、男は首筋の赤い痕を自らの指でなぞった。見えていない筈なのに、まるで指先に眼があるかのように、男の指は的確に痕跡を辿る。 「だからさ、こんな尻軽やめとけよ?なんなら、ガッコも行かねぇし?会わなきゃ、すぐに忘れるって」 何処かの誰かと似たような台詞を吐いて、男はまた笑った。空虚な笑いだった。 男はいつも胸を張っていた。へらへらと笑っていても、あの瞳の強い輝きは男のプライドの高さを物語っていた。誰と共にいても、男は常に一人だった。孤高の紅い獣は、自分だけを信じて生きてきたのだ。 このご時世、企業のトップが同性の愛人を囲っているという話など、耳新しいものではない。ましてや、相手はいわゆる唐亜財閥。三蔵の若すぎる年齢を加味しても、殊更に同性の恋人を論って攻撃してくるような馬鹿は、少なくとも日本にはどこにもいないだろう。だから、同性である事を男が悩むのなら、それは杞憂でしかない。男の存在が企業の運営に影響する事はないと自信を持って断言できる。それに、例え今回と同じようなことが起こったと仮定して、三蔵が男に自らを他の誰かに差し出させるような真似を許すと思われているのが業腹だった。 二度目などあり得ない。三蔵が持つ全てを投げうってでも、そんな真似は許さない。 三蔵がそれを告げると、男は困ったように眉根を下げた。嬉しいのか悲しいのか、どちらとも言えない微妙な笑みが、一瞬男の口元を掠めて消えた。 「おいテメェ、まだこれ以上ぐだぐだと―――」 そろそろ忍耐も限界な三蔵は、苛付きを隠さず男に詰め寄る。だが男は、大げさにため息をついて三蔵の足を止めさせた。 「‥‥お前、けっこー性格悪ィのな」 突然の言い掛かりじみた発言に、三蔵の片眉が上がる。だが、男には三蔵を挑発する意図はないらしい。ただ疲れの滲んだ目で三蔵を見ていただけだ。 「もう―――調べて知ってんだろ?これ以上言わせんなよ」 自嘲的な笑みを浮かべ、男は吐き捨てた。 「‥‥?」 男の発言の意図を掴めない三蔵は、眉を顰め―――、ふと、朱泱の調査資料に記載されていた、とある部分を思い出した。 男の心を頑なにさせているもの。それは、もしかして。
「‥‥‥‥‥母親のことを、気にしてるのか?」
その瞬間。 男の笑みは、かき消えた。
くしゃりと歪んだ男の顔に、三蔵は男が泣き出すのかと思った。だが、それはほんの瞬きほどの間のことで、男はすぐに表情を消した。本当は笑いたかったのだろうが、それには失敗したようだった。 無言で唇を噛み締める男に、三蔵は己の推測が正しいことを、知った。
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いや、強盗はいけないよ悟浄さん。
次回、最終回予定です。山もなく萌えもなく終わる…。