名を呼べば(8)
初めに部屋に入ってきたのは朱泱、すぐ後から八戒が続いた。更に、八戒が後ろを振り向いて誰かに部屋に入るよう促している。 「貴方にも関係する話ですから」 僅かに躊躇するような気配がしたが、辛抱強く扉を抑えて待つ八戒の言葉に覚悟を決めたのだろう、ゆっくりとその人物が姿を現す。何かを警戒するような目の色が、金髪の若者の姿を捉えた瞬間、驚愕に変わった。 「三蔵‥‥!?」 三蔵と呼ばれた若者は、既に鷭里親子の存在など忘れ去ったかのように、部屋の入り口で立ち尽くす男に駆け寄っていく。 「無事‥‥じゃあねぇみてぇだな」 頬に手を当てて顔を覗き込むと、男は弾かれたように三蔵の手を振り払った。 「‥‥なんで、オマエがココに‥‥?」 男は混乱していた。 「帰るぞ」 低い声で、だが強く囁けば、即座に振られる首。 「駄目だ、行けねぇ。俺は‥‥」 三蔵の身体を跳ね除けようとする動きを身体ごと押し込めて、三蔵はもう心配いらないと何度も耳元で繰り返す。 「大丈夫だ、心配するな。お前が自由になっても、今まで通り兄貴は仕事を続けられる」 男の瞳が、訝しげに眇められた。 「な‥で、オマエがンなコト知って‥‥?」 二人の会話を聞き咎めた鷭里ジュニアが床で何やら喚いたが、さり気なく近付いた八戒に腹を踏みつけられてあえなく撃沈する。 「えー、では私が代わりにご挨拶させていただきます。紹介が遅れましたが、こちらが私どもが仕えております玄奘三蔵と申します。主の友人がこちらでお世話になっていると伺いまして迎えに参上した次第ですが、用件が終了いたしましたので、そろそろ失礼させていただきます。どうもお邪魔いたしました」 慇懃無礼を絵に描いたような丁重さで、朱泱は淀みなく告げた。 「てめぇら、こんなこと、して、タダで、済むと思って、んのか。俺の、俺の親父は‥‥!」 欠けた前歯を見苦しく晒しながらふがふがと転がる男が喚く。 「有料で済むなら、払ってやれ。―――――今までの分もまとめてな」 眉ひとつ動かさず、命を下す。まるで年齢にそぐわない、他を圧倒する風格で。 「仰せの通りに、三蔵会長」 秘書と執事は畏まって、深々と頭を下げた。今度は、心からの敬意を払った礼だった。
「三蔵‥‥会長?」 不意にうえ、と情けない声がした。父親が勢い良く立ち上がった拍子に、縋り付いていた息子が振り落とされた悲鳴だった。 「玄奘‥‥三蔵‥‥。金髪に‥‥紫暗の瞳‥‥まさか‥‥」 額に汗が滲んでいる。間違いなく彼にとって、今日は人生最悪の日だろう。ゆっくりと振り向いた三蔵の顔を、震えながら食い入るように見つめている。
「ま、さか‥‥‥。‥‥唐亜の‥‥‥三蔵‥、会長‥‥?」
「おや、ご存知ですか。こちらと直接のお取引はありませんけど、‥‥確かひ孫請けぐらいかな」 八戒が笑いながら肯定した。 「鷭里社長」 三蔵に名を呼ばれ、指の先までピンと伸ばした直立不動の体勢で、父親は引きつった返事をした。 「貴方の個人的な嗜好にどうこう口出しするつもりはない。貴方が経営する非合法の男娼クラブの存在にも興味ない。だが、彼は返していただく」 急に手のひらを返したような態度になった父親へ抗議するが、あえなく一蹴され、息子はあんぐりと口を開けている。その様子を横目に、八戒はやれやれと首を振ると、いかにも残念ですと言わんばかりの表情で父親へと言葉を掛けた。 「ちなみに、今頃工場には捜査の手が入っている頃でしょう。事故の噂もありましたしね。私どもとしては、例え下請け孫請けでも、事故を起こして隠しているような工場とのお付き合いはちょっと‥‥‥」 父親の咄嗟の発言に反応したのは、その息子ともうひとり―――――三蔵にがっちりと腕を掴まれている男だった。 「ほう、事故はなかったと?変ですね、社員に処分者まで出ているという話なのに‥‥」 鷭里父は必死の形相で三蔵の側に立ち尽くす男に迫ってきた。 「な?君からも言ってくれ!君のお兄さんは、ちゃんと元の部署に戻っているだろ‥‥!!」 最後まで言葉を続ける事は出来なかった。三蔵の腕を振り払った男によって、父親は数メートル吹飛ばされていた。息子と同じく、顔が潰れていた。 「よくも‥‥騙しやがったな‥‥」 肩で荒い息をつく男の腕を、三蔵は今度は軽く引いた。 「話は済んだな。引き上げるぞ―――来い」 もうここには用はない。三蔵は鷭里親子には一瞥もくれず、その部屋を後にした。
「ま、待て‥‥待ってください、私は‥‥」 取り残された父親が、三蔵の後を追うように床を這う。すかさず朱泱がドアの前に立ち、行く手を塞いだ。隣に立っていた八戒が父親の頭の側にしゃがんで、人の良い笑顔を男に向けた。 「あ、そうそう。捜査ってのは、事故に関してじゃありませんから」 思わず顔を横へ向けて温和な声の持ち主を見やる。 「脱税容疑ですよ。非合法のクラブって儲かるんですねぇ。それに未成年に売春を強要してるってのも問題だとか?実はこのお屋敷も、この部屋以外、もう捜査員の方で溢れてます」 ニコニコと笑って告げる内容とも思えない容赦ない宣告に、父親は耳を疑った。 「無理言って10分だけ時間貰ったんですもん、僕ら。コネはこういうときに使いませんとね。あ、そろそろ時間かな。ドアの向こうで、捜査員の方々が今頃ヤキモキしてますよ、早く踏み込ませろって。叩けば色んなホコリが出てきそうですし、検挙率アップのいい機会ですもんねぇ」 ちなみに傷害で訴えようなんて気を起こさない方が身のためですよ?と綺麗な顔が綺麗に笑う。父親の背筋に冷たいものが走った。触れてはならないものに手を出したのだと、ようやく悟る。だが、あまりにも遅すぎた。 「アンタ個人の罪はともかく、一回や二回、査察が入ったところで会社は潰れたりしねぇよ。ま、社長は交代の潮時かもしんねぇがな。次の株主総会、覚悟しといた方がいいぜ?」 無慈悲に閉じられた扉の音は、死刑宣告にも等しい。 「何だ、お前ら!?お、俺に、触るな!お、俺の、俺の親父はっ、」 息子は最後まで何が起こったのか理解することなく、踏み込んできた男たちに空しい罵声を浴びせ続けていた。
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何が一番辛いって、この陳腐な展開が何とも(涙)…。