名を呼べば(6)

「ふざけんな!」

三蔵は朱泱の手を振り解こうと身を捩ったが、朱泱はそれを許さなかった。それどころか、ますます肩を掴む手に力が篭る。痛みに思わず目を眇めて朱泱を見ると、朱泱はいつになく厳しい顔で三蔵を見つめていた。

「いいか。17、8の頃の恋愛なんてのはな、一過性のハシカみたいなモンだ。しばらく会わなけりゃ、すぐに熱も冷める―――。悪いことは言わん、奴はやめとけ」
「―――嫌だ」
「三蔵!」
「嫌だ!」

聞き分けのない子供のようにがむしゃらに暴れる三蔵を、朱泱が一際大きな声で怒鳴りつけた。

「お前は自分の立場がわかってんのか!」

―――その瞬間、三蔵の抵抗がぴたりと止んだ。

 

三蔵の、立場。

忘れる筈もない。
三蔵が15歳の時から、ずっとずっと背負ってきたもの。背負うと覚悟してきたもの。祖父が興し、父が育て、三蔵に遺したそれを守ると決めたその日から。
それはまだ子供だった三蔵の肩には、あまりにも重すぎて。

だが、それを誰にも気取られるわけにはいかなかった。自分の何倍も生きてきた、一癖も二癖もある大人たちと対等に渡り合い、従わせるには、自分が子供であってはならなかった。必要なのは、絶対的な自信とそれに見合う実力。若造がと舐めてきた相手には、容赦のない制裁をもって他への見せしめとした事もある。どうにもならない事態に陥り、裏から手を回したのも一度や二度ではない。決して奇麗事ばかりではない世界で、三蔵は自分を殺す事を覚えた。

自分に圧し掛かるものに、押し潰されそうになった事もあった。普通の学生を羨んだ事もあった。夜中に悪夢に魘され、眠れない日が続く事も幾度となくあった。
そんな時に三蔵を支えてくれたのは、いつも笑いかけてくれた叔父と、ここにいる二人の友人だった。両親は優しい人たちであったが、三蔵には、仕事が忙しくいつも海外を飛び回っていた両親との思い出は、あまりない。けれど代わりに、父の弟である叔父が三蔵を可愛がってくれたので、三蔵は幼少期に寂しい思いをせずにすんだのだ。三蔵にとって、叔父こそが父のような存在だった。
両親が共に事故で他界し、留学先から帰国してからの深い悲しみと重い現実の日々も、叔父が側にいてくれたから耐えられた。
しかしその叔父も、三蔵が高校一年の冬に、急な病で亡くなった。それでも、三蔵には喪に服す暇すら与えられなかった。三蔵の立場が、それを許さなかった。
三蔵は、葬式の翌日から、粛々と仕事をこなしていた。誰もがそんな三蔵の態度を褒め称え、三蔵の評価は一層上がった。だが、側で支える朱泱と八戒がいなければ、三蔵はとっくに気が狂っていたかもしれなかった。
両親の死と叔父の死。血の滲むような思いで度重なる二つの悲しみから這い上がり、いつしか三蔵は王者と呼ばれるまでの風格を身に着けていた。

 

三蔵は朱泱に掛けていた腕から力を抜いた。それが伝わったのか、朱泱も三蔵の肩を掴んでいた手を離す。
長い沈黙が落ちた。少なくとも三人にとっては、長い長い沈黙だった。
やがて、しん、とした部屋の中で三蔵はぽつり、と口を開いた。

「‥‥‥‥俺は、今まで自分の仕事に不満を持った事はねぇ」

驚くほどに、穏やかな口調だった。

「あらかじめ決められた人生のレールに乗っかって生きるなんざゴメンだと思ってた。他の奴が作り上げたものの上に胡坐をかく人生なんざつまらねぇと思ってた。だが両親が死んで、親が守ってきたものを誰かが守る必要があって、実際に仕事を継いでみて‥‥、そんな生き方もアリかと気付いた。傍から見りゃ立派にお仕着せの人生だろうが、それが俺の選んだ道だ」

朱泱も八戒も、黙って聞いている。思えば三蔵が、こうして自分の心を素直に話すことなど初めてのことだった。あんなに慕っていた叔父が亡くなった時でさえ、三蔵は黙って耐えたのだ。

初めての、想い。
立場よりも。仕事よりも。何よりも。魂の奥底が震えるほどに求める相手に、初めて出会えた。
なのに、今それは三蔵の手から零れ落ちようとしている。

三蔵は、顔を上げて二人を見た。迷っている暇など、ない。

「確かに、俺は今熱に浮かされてるだけなのかもしれねぇ。一年後には、もう奴のことなんか思い出しもしなくなってんのかもしれねぇ。―――けど、今は!俺には奴が!必要なんだよ!」

想いが永遠であるなどと安い恋愛ドラマのような台詞を吐くつもりはない。だがここで、このまま男を手放せば必ず後悔するという事は、確信できた。
三蔵の言葉を受け、黙って朱泱と三蔵のやり取りを見守っていた秘書が、重々しく口を開いた。

「‥‥‥僕たちを、敵に回してもですか?」
「八戒―――」
「それでも、我侭を通されると仰るんですね?」

それは、孤立を意味していた。この二人が離れるという事は、三蔵は精神的な拠り所を完全に失う。この優秀な秘書と執事が支えてきたのは、決してビジネスの面だけではない。
けれど、三蔵の答えは決まっていた。三蔵はきっぱりと頷いて、告げた。

「どうしてもそこをどかないと言うのなら、俺はこの場で役を降りる。しばらくはゴタゴタして迷惑をかけるだろうが――――俺の代わりは、いくらでもいる筈だ」

躊躇いはなかった。もしかしたら、あの男に惹かれた瞬間から、覚悟は出来ていたのかもしれなかった。

「二人とも今まで世話になった。本当に感謝してる。‥‥‥ありがとう」

頭を下げて静かに告げると、三蔵は一歩を踏み出した。
もう、二人は三蔵を止めようとはしなかった。二人の強い視線を、三蔵は背中に感じていた。
詰られるか、責められるか、どちらにしても、彼らの期待には応えられない。今まで二人は三蔵に献身的に尽くしてくれた。できるなら、彼らの意向を尊重してやりたい。他の事なら、いくらでも譲歩して構わない。
だが、これだけは。あの男のことだけは。三蔵は自身の言葉を撤回しようとは微塵も思わなかった。
心の中で、今はもういない両親と叔父にも密かに侘びる。
決意と覚悟を全身に漲らせて、三蔵は二人の罵声を待った。

 

 

 

「ほーら言ったでしょ。絶対に聞かないって」
「まぁ、分かってたけどな」

だが、予想に反して三蔵の耳に届いたのは、笑いを含んだ八戒と朱泱の声。驚きのあまり思わず振り向いた三蔵の目の前に、優しい笑みを浮かべる二人が立っている。

「お前ら‥‥?」

年長者二人がとても嬉しそうに微笑んでいるのが、三蔵には不思議だった。そんな三蔵の様子に、照れ臭そうに朱泱は鼻を擦った。

「ま、俺らの立場としてはすんなり『はいそうですか』ってわけにゃいかねーんだけどよ。まぁ、アレだ、お前が初めて自分から欲しがったもんだしな」
「ビジネスではなく、友人として応援するのは自由でしょ?」

今度食事にでも招待するってのはどうでしょう。いや、もうこの家に住まわせちまおうぜ、部屋は余ってる。それはいい考えですね、人目を気にせず会える時間も増えますし。だろ?善は急げってな。彼の好きな色はリサーチ済みですから、彼の部屋のカーテンの色はやっぱり‥‥‥。

徐々にエスカレートしていく朱泱と八戒の会話を、三蔵は呆然とした面持ちで聞き流していた。何が起こったのか、頭が現実に追いついていない。

奴との仲を反対してるんじゃなかったのか?何でお前らが今後の俺たちの事を段取ってるんだ?‥‥‥‥俺たちを、認めてくれるのか?

「でも、ちょっと安心しましたよ、三蔵が歳相応に駄々をこねる姿を見られて。今まで普通の子供らしさに欠けてましたもんねぇ」
「駄々こねて欲しがったモノが男の恋人ってのは、ちぃっとばかし普通とは言い難いけどな」

からからと笑い合う八戒と朱泱の表情には、どこか晴れ晴れとしたものが浮かんでいる。

「それになぁ、三蔵」

呆気にとられて言葉を失くしたままの三蔵の肩に、今度は軽く、朱泱が手を置いた。

「お前の代わりなんて、俺たちには何処にもいねぇんだよ」

八戒が、隣で一緒に頷いている。
不覚にも目頭が熱くなり、三蔵は目を逸らして誤魔化した。
 

 

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ますます高校生である意味がなくなってきました…(汗)

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