名を呼べば(5)
「入れ」 ノックの音に短く応えると、翠の瞳の青年が滑り込むように部屋に入ってきた。二十代半ばのこの青年は、三蔵の第一秘書であり、また数少ない三蔵の心を許せる友人でもあった。 「何か分かったか?」 三蔵は苛立った声で、青年の報告を遮った。そんなことが聞きたいのではない。三蔵の厳しい視線を受け、青年は僅かに頭を下げ穏やかだった表情を改めた。 「失礼しました。‥‥沙悟浄の兄が、鷭里興産に勤めています」 三蔵が更に問い質そうとしていると、廊下を慌しく走る足音が近付いてきた。性急なノックの後、一応は三蔵の返事を待って、扉が乱暴に開かれた。 「おう、戻ってたのか八戒。丁度いい」 朱泱と呼ばれたこの男は、三蔵の屋敷内の全てを統括する執事である。普段は礼節を重んじ、廊下など決して走ったりしないプロの執事だが、緊急の場合は何よりも三蔵の意向を尊重する。三蔵に一刻も早く報告するためなら、廊下ぐらい走っても気にならないということなのだろう。 「どこまで話した?」 「肝心なこと?何だ?いいから早く報告しろ」 二人の会話に、三蔵は気色ばむ。 口を開いたのは、朱泱の方だった。 「鷭里興産の工場内で、数日前事故があった。圧縮タンクに注入する溶剤を間違えて、危うく大事故になりかけたらしい。他の薬品と反応しちまえば爆発は免れないところだが、運良く機械の作動前に運転員が気付いてな。半日ラインがストップしただけで済んだそうだ」 朱泱は三蔵の留学にも世話係として同行し、本場イギリスで執事として修行を積んだ。父親も三蔵の家で住み込みの執事を務めていた経緯で、三蔵が幼いときから兄弟のようにして育ったため、仕事から離れる場合に限って朱泱の言葉遣いは友人のような兄のようなそれになるのだ。三蔵もそれを好ましく思っていたため、好きにさせている。 「それで、その工場内の事故が、今回の件とどういう関係がある?」 三蔵は椅子の背からゆっくりと身を離し、机に両肘を乗せて指先を組んだ。重大な報告を受けるときに見せる、三蔵の癖だ。過去、同じような仕草を見せた後、結果的に傘下の子会社を二つ潰す命令を下したことがある。 「焦んなって、話はココからだ。そのタンクの管理責任者が実は、沙悟浄の兄貴―――名を沙爾燕っつーんだが―――、と、いうわけだ。もっとも本人は溶剤を注入する時に間違いなく確認したと言っている。が、証人がいねぇ。その時に一緒にいた男も、タンクの中までは見なかったと言うんだな。沙がOKと言ったのを聞いただけだと」 噛み締めるように三蔵は呟く。 「本人は否定してるがな。ちなみに誰に聞いても、沙爾燕は真面目で人望も厚いとの評判だ。この仕事が生き甲斐と言って憚らない男で、上司からの信頼も厚く会社への貢献度も高い。そんな初歩的なミスは考えられんそうだ。ま、評価の高い男がミスしねぇって話にゃならんがな」 朱泱はびっしりと書き込まれた数枚の紙を三蔵へと差し出した。どこから手に入れたものか、そこには溶剤を注入した様子、機械を始動させた時間など、沙爾燕への聴取記録が詳細に記されている。手渡された資料を、三蔵はぱらぱらとめくった。 「よくわからんな。これによると沙爾燕がタンクをチェックしてから、実際に機械が作動するまでには時間があったんだろう?その間に他の誰かがタンクの中身を摩り替えたという可能性も当然考えられる筈だ」 八戒が口を挟む。八戒がそう言うのなら、三蔵に疑う余地はなかった。 「そうか。なら、その一緒に見回ったという男――――」 三蔵は頷いた。 「代役なら尚更、その香坂がタンクを一緒に見なかったってのは不自然じゃねぇか?ちゃんと調査したんなら、最終的に沙爾燕のミスと判断された要因は何だ?」 八戒が僅かに言い淀む素振りを見せた。 「何だ」 「‥‥‥沙爾燕には、前科があるんです。ちょっとした傷害ですが」
不意に襲う、既視感。 似たような会話を、どこかで交わした。 そう、確かあれは。
『中学の頃はかなり荒れていたと聞いています』
「―――話は分かった。それで、沙爾燕はどうなった」 誰からも信じられる事のない兄弟が、世間の片隅で肩を寄せ合って暮らしている。 そんなイメージが脳裏に浮かんできて、三蔵は頭を抑えずにいられなかった。いつも浮かべた薄い笑み。いつの間にか自分を隠す事を覚えた男の、あれが精一杯の防御壁なのだろう。 「普通に出社してるさ。事故の直後に部署を変えられて――――、殆ど退職勧告同然の人事だったんだが、不平も言わずこなしていたらしい。それが僅か数日で、元の部署に戻されている」 ふむ、と三蔵は口元に手を当てた。 「弟の事は?」 ぱさりと資料を執務机に投げ出すと、三蔵は椅子の背もたれに背を預け、息をついた。 「それだけの事故を、警察に黙っているのは妙だな‥‥。このご時世、事故隠しは命取りだ。それに、沙爾燕の処分も軽すぎる」 三蔵は、目を閉じたまま、思考をまとめると呟いた。考えれば考えるほど、とある嫌な推論が浮かんでくる。だが、できればそれは考え違いであって欲しいと三蔵は思っていた。 「ええ、実は我々もそこに引っかかりまして‥‥」 八戒の言葉に三蔵が目を開くと、やはり八戒と朱泱が目配せしあっている。 「聞こう」 何かあると言わんばかりの二人の態度に、三蔵は身を起こし、姿勢を正して二人に先を促した。ある予感と、確信と、覚悟を自らの胸に抱いて。 「先程も申し上げましたが、件のタンクはその容量と構造から溶剤を丸ごと交換するには相当の時間がかかります」 机の右と左から、八戒と朱泱が口々に畳み掛けてくる。 「―――つまり、お前らの見解は」 三蔵の中では、既にある結論が導き出されていたが、敢えて二人の意見を問い質した。 「事故自体が捏造されたとみて、間違いねぇだろう」 二人はきっぱりと言い切った。それは、三蔵が予測したとおりの返答だった。同時に三蔵の脳が、めまぐるしく活動し始める。 捏造された事故。 それらの事実が示す結論は、ひとつしかなかった。ずっと三蔵が危惧していた、最悪の結論。 「―――八戒」 八戒もまた、静かに答えた。 「奴の兄貴が‥‥‥沙爾燕が、元の職場に戻されたのはいつだ?」 その返答が、八戒もまた三蔵と同じ結論に達していることを示していた。三蔵は両拳を握り締めると、勢いよく机に叩き付けた。机上の書類が、部屋を舞った。
「待て三蔵!」 そのまま部屋を出ようと動いた三蔵の前に、朱泱が立ち塞がる。キツく睨み付けても、朱泱はその場を退こうとはしなかった。 「そこをどけ朱泱、俺は!」 噛み付くように怒鳴る。重役たちや取引先の相手をも捻じ伏せる三蔵の絶対的な威圧感。だが朱泱は一歩も引かず、真っ直ぐに三蔵の瞳を見返してくる。 「いいか、沙悟浄を脅すために、奴の兄貴は陥れられた。兄貴から生き甲斐である仕事を取り上げない事を条件に、連中は沙悟浄に何らかの取引を持ちかけた。結果、沙悟浄は姿を消した」 手を振り払おうとする三蔵に、朱泱が声を荒げた。 「聞けよ!沙悟浄が今どういう状況であれ、俺たちが必ず救い出す!復学の手配もするし、兄貴の冤罪も立証して、収めるところに収めてやる!勿論、鷭里興産もこのままにするつもりはねぇよ!全てお前の意向通りに片をつける!」 そこで朱泱は、一度言葉を切った。荒い息を整えるように少し長めに息を吐き出す。 「―――だから忘れろ、沙悟浄のことは」 今までの激高が嘘のような、冷めた声音だった。
|
ほ〜ら、だんだん被ってきましたよ…。前に書いたお話に!!(汗)
どーしてこう発想が貧困なんでしょうか(号泣)
先が読める展開ですが、声に出さないようにお願いします…しょぼん。