名を呼べば(4)

『次の者を退学に処す』

短い言葉の隣に綴られた、男の名前。
押しピンで無造作に掲示板に貼り付けられたA4の紙切れを前に、三蔵は呆然と佇んだ。

「こないだの晩さ、街で派手に暴れたんだって。噂じゃ相手、病院送りになったらしいよ?無抵抗だったのに、一方的にタコ殴ったって」
「えー、マジ?サイッテー。アタシちょっと悟浄君好きだったのに幻滅〜」

同じ掲示板の前で騒ぐ女生徒の無責任な声を聞きながら、三蔵はその場を立ち去った。自然と早足になりつつ、とある一室を目指す。
すれちがった教師が、もうすぐ授業が始まるぞと三蔵に声を掛けてきたが、三蔵は振り返らなかった。

 

 

 

 

 

「失礼します」

ノックもそこそこに重厚な扉を開き、三蔵は学長室へと足を踏み入れた。一礼すると、ふかふかの絨毯に足を埋めながら、真っ直ぐに部屋の主の元へと歩み寄る。
不意の来訪者に、学長は驚いた様子だった。

「どうかしましたか玄奘君。もう授業の始まる時間だと思いますが―――」
「退学処分になった二年の男子生徒について伺いたいのですが」

学長の言葉を遮らんばかりの勢いで、単刀直入に、三蔵は切り出した。

「処分の理由を聞かせて下さい」
「何故、そんなことを?」
「納得できません」

学長は呆気にとられたようだった。一生徒の処遇に関して、三蔵が血相を変えて学長室に乗り込んでくるなど想像もしていなかったのだろう。
髪の薄い頭に汗を浮かべつつ、しばらく三蔵の顔を見上げていたが、やがてかけていた眼鏡を外すと、三蔵に横のソファを勧める。短く断りをいれた三蔵に、学長は小さくため息を零した。
答えを得るまでは三蔵がこの場を動かないと察したらしい。

「‥‥喧嘩です。一週間ほど前ですが、当校の他の男子生徒に大怪我を負わせたのですよ」

一週間前というと、やはりあの月の晩に違いなかった。

「しかしそれは、襲われていた女子生徒を助けようとして乱闘になったと聞きましたが。もしそれが事実なら、処分が適正であるとは思えません」

三蔵の反論に、学長は軽く頭を振った。

「相手はそう言っていません。すれ違い様に突然殴りかかってきたと言っている」
「そんな馬鹿な―――」

言い募る三蔵を、学長は片手を挙げて制した。

「勿論、我々も片方の言い分だけを鵜呑みにしたわけではありません。沙悟浄も傷を負っていましたし、一方的にという事はないでしょう。ですが、当の女子生徒は知らないと言っているのですよ」

「な」

三蔵は絶句した。

「沙悟浄が自分が庇ったと主張する女子生徒によると、当日の夜にはその喧嘩が行われた場所には近付いていないそうです。当然誰にも絡まれていないし沙悟浄にも会っていないと」

そんな馬鹿な。三蔵は心の中で繰り返すと、あの夜の出来事を頭の中で反芻した。

焦って路地から飛び出してきた女。咄嗟に三蔵は自分のクラスの女だと判断したが、女が人違いだと主張すれば、三蔵にそれを証明する手立てはないのも事実だった。もっとしっかり顔を見ておくべきだったと、三蔵は後悔した。

「彼女が嘘をついている可能性は」

可能性も何も、彼女は嘘をついている。
そうはっきりと言ってやりたい気持ちを抑えて、三蔵は学長の見識を問う。

「君も知っていると思いますが、彼女は成績優秀で遅刻の一度もしたことがない真面目な生徒です。それに沙悟浄が怪我を負わせた相手というのが、同じ二年の鷭里君なのです。彼は、鷭里興産の社長の一人息子なのですよ」

学長が口にした会社の名は三蔵も知っていた。確か隣町に本社を置く、そこそこの規模の会社で、社員を親に持つ生徒が多いこの学校にも毎年寄附をしていると聞いている。

「――――仰っている意味がよく分かりませんが」

嫌な予感に、三蔵の声が僅かに固くなる。沙悟浄は――、と学長は少し口篭った。

「最近は大きな問題は起こしていないようですが、中学の頃はかなり荒れていたと聞いています」

嫌な予感は、的中した。
結局は、そういうことなのだ。

「つまり、素行に問題がある生徒の言葉など信用できないという訳ですか」
「彼女たちを疑う要素がないというだけの事です」

まるで愚問だと言わんばかりの学長の返答だった。
学校に寄付を寄せる会社の息子と、品行方正な女生徒と、そして、不良の代名詞のような男。もし、この中に発言を疑われるべき人間がいるとするならば、ひとりしかいないだろうと。
言葉尻は丁寧で、誰に対しても物腰柔らかな態度の学長は、教師や父兄、生徒たちにも嫌われてはいなかったが、三蔵の彼への評価はここで決定した。
尊敬できない相手と、これ以上話すことはない。

「わかりました。失礼します」

形ばかりに頭を下げ、部屋を去ろうと踵を返すと、学長が呼び止めてきた。

「どうして彼に拘るんです。彼と親しいんですか?それとも、何か彼に弱みでも‥‥」
「失礼。よく聞こえなかったのですが?」

知らず低くなった声に、学長が、ごくりと喉を鳴らしたのが聞こえた。
怒りが全身を支配している。そんな中、頭の中だけは妙に冷えていた。幾度となく、この感覚は経験したことがあったが、無論学校では初めてだった。三蔵の迫力に気圧されたのか、学長は何度も唾を飲み込んだ。

「あ、いや‥‥な、何でもありません」

たかが私立校の一学長が、本気で怒った三蔵の迫力に太刀打ちできる筈がない。三蔵はひきつった表情の学長に冷たい一瞥をくれると、扉を開いた。

「げ、玄奘君。こんな事は私が言うまでもありませんが、君は普通の学生とは違う世界に生きている。悪い事は言わない、彼とは関わらない方がいい」

学長の震えた声が追いかけてくる。それが彼なりの、教育者としての親切心なのだろう。それとも、来期の三蔵からの寄附の額を心配しているのかもしれない。
どちらにせよ、三蔵にとってはこの上なく不快なものだった。非礼を承知で、無言で後ろ手に扉を閉めた。そして廊下に一歩を踏み出した瞬間、学長のことは三蔵の頭の中から消え去っていた。

 

既に三蔵の思考は、次に自分が何をすべきかということに向けられていた。
 

 

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悟浄さんが出ないままに(笑)

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