名を呼べば(3)

見事な月夜の晩だった。

 

――――この先で事故があり、ここからは通行止めになっている。

そう運転手に申し訳なさげに告げられた三蔵は、躊躇わずに車を降りた。
後続の車からも、慌しく人が降りるのを音だけで聞きながら、振り返りもせずに横道を歩き出す。街はせっかくの月明かりが霞むほどの色々な照明に彩られ、歩くのには全く不自由しなかった。

三蔵は学校に車で乗りつけるような真似だけはしないと決めている。
時間の調整がつかず、帰宅の途中で車に拾われることは珍しくはなかったが、人目の多い場所ではそれすら拒んだ。自然、街中の地理にも詳しくなった。
虫の居所の悪い時には、今も後ろからついてくる連中を撒くために裏道を走った事もあったが、後で長々と小言を喰らって、それには懲りた。

走らなければ裏道でもいいかと、三蔵が細い路地に入りかけたとき、女がひとり飛び出してきた。女は酷く慌てた様子で、三蔵にぶつかったというのに謝るどころか顔も上げずにそのまま走り去る。話をした記憶はロクに残っていないが、三蔵と同じクラスの女のように見えた。三蔵の後ろから付いてきていた一人が気色ばんで女を捕まえようと動いたのを、三蔵は視線で止めた。

路地の奥が、騒がしい。今の女の事で揉めているに違いなかった。チンピラ同士の女の取り合い。全くハタ迷惑な話だ。
この道を迂回するとなると、もうひとつ手前の道まで戻らなければならない。三蔵は短く舌打つと、路地には入らず、壁に凭れ掛かって奥の喧騒が静まるのを待った。

それほど長い時間ではなかった。
やがて、男の怒鳴り声の後、複数の足音が遠ざかっていく音が耳に届き、やおら三蔵は路地へと足を踏み入れた。街灯の光も届かない路地を、月の柔らかな光がぼんやりと照らしている。ずかずかと歩いていくと、三蔵の目に、鮮やかな紅が飛び込んできた。

「‥‥よぉ」

指に挟んだ煙草を持ち上げて、男が笑った。
全身ボロきれのような状態の中、唯一その紅い髪だけが何一つ汚れずに月の光を反射している。三蔵は一瞬、眩暈を感じた。
男は傷だらけになって、路地の壁にもたれて座り込んでいた。投げ出された長い足が、狭い路地を塞いでいる。ハッキリ言って、通行の邪魔だ。三蔵の咎めるような視線に気付いたのか、男は軽く肩を竦めて足を引く。三蔵はそのまま男の前を通り過ぎ、数歩進んだところで足を止めた。ゆっくりと振り返る。

「喧嘩に煙草、それに女か。自由な校風にも限度があるぞ」
「ひでー、女は濡れ衣だって」

後ろから三蔵に付いてきていた人物が驚いているのが気配で伝わった。三蔵がこんな風に他人に話しかけるのが珍しいと思っているのだろう。男はアテテと情けない声を上げながら、それでも自力で何とか立ち上がった。いつもなら自分より高い男の目線が、壁に寄りかかっている分だけ下がり、自分と同じ位置にある。そんな事が、三蔵には新鮮だった。

「喧嘩だって正当防衛だっつー。女が絡まれてたから止めに入ったら、いきなりキレやがってよー。連中のアタマ‥‥確か、隣のクラスの‥‥なんつったかな、バンリとかベンリとか、変わった名前っぽい奴。俺、こんなだろ?黙ってたってインネンつけられっから喧嘩は慣れてんの。はっ、アイツ足腰立たねぇようにしてやったぜ」

自分の長い髪を引っ張りながら、何の自慢だか胸を張る男に、三蔵は呆れたようにため息をつく。あまりにあっさりと自分から髪の事に触れられて、つい気になっていた質問が口をついて出てしまった。

「‥‥その髪」
「ああ、地毛。お袋ン方のバァちゃんが外国人でさ。そういや、アンタもじゃねえの?その金髪。眼が紫っつーのも珍しいよな」
「まあな」

背後の人物が息を呑むのが伝わったが、三蔵は気にも留めなかった。男も、背後の人物をどう捕らえているのか、別段気にするでもなく三蔵と普通に会話を続けている。
短い三蔵の返答に、男はただ、ふーん、とだけ呟いた。かつてない反応に驚いて男を見ると、男は、お互い見つけやすくてイイじゃんか、と屈託なく笑った。

 

 

 

 

「よっ」

今日も何とか三蔵が時間を調整して生徒会室に立ち寄ると、既に男は部屋にいた。机に腰掛け、ズボンのポケットに両手を突っ込んで咥え煙草。相変わらずのふてぶてしい態度だ。毎度の事に、煙草は匂いが移るからここでは止せと注意したこともあるが、直ぐに無駄だと悟った。仕方なく、超強力脱臭スプレーの世話になっている。

「シよ?」
「何をだ」

鞄を置く時間を惜しむように、三蔵は他の役員たちからの報告文書に目を通し始める。実際、時間が惜しい。生徒会の役員など引き受けている暇などないのだが、叔父のごり押しに頷いていつの間にやら立候補させられていたという経緯があるため、途中で投げ出せなかった。それに、成り行き上とはいえここ最近真面目に取り組んでみて、多少面白みを感じ始めた部分もある。さすがに生徒会長の役は固辞したが、やるべき仕事は多かった。
赤ペンを取り、報告書にチェックを入れていこうとした三蔵の手を、男が横からそっと押さえた。

「やっぱ言い出した方が下、なんだろーな」
「だから、何を――」

唐突に、熱く柔らかいものが三蔵の唇に押し付けられた。視界いっぱいに男の顔があって、焦点が定まらない。キスをされている、と自覚したときには、三蔵は男の身体を机に引き倒していた。書類が宙を舞い、床に散らばる。男の腕が、三蔵の首に回された。
衝動を抑える理由など、どこにも無かった。

 

 

 

途中、足音が廊下を過ぎる度に、二人は息を潜めあってやり過ごした。
生徒会室は一般生徒が頻繁に訪れる場所でもないが、いつ何時他の役員や教師が顔を出すかもしれないという危険性は、常にある。だが、この手を止めようとは思わなかった。

「わっ、バカ動くなって、あっ」
「んな声だすな馬鹿、バレちまうだろが」
「てめっ、デカくしてんじゃねーよっ!」

繋がったままの体勢で小声で罵りあうのが馬鹿らしくて楽しくて、嬉しかった。
女遊びの噂は山ほど聞いたが、男の経験はなかった身体に三蔵は喜びを感じた。三蔵も、女性経験が豊富とはいえないまでも皆無ではない。優しくしてやるべきなのは分かっていたが、吸い付くような肌の感触に自分を抑えることが出来なかった。三蔵の若さと激情の全てを男にぶつけた、激しいだけのセックスだった。

 

 

 

「‥‥テメェ、病弱なんて嘘だろ‥‥」
「ああ」

しれっと答えてやると、男は少しふてくされた顔をした。

「少しは悪びれろ、ったく‥‥」

全てが終わった後、男はぐったりと机上に身を投げ出したまま動かなかった。指一本動かすのも億劫といった様相に、流石の三蔵も少々やりすぎたかと手を伸ばす。
だが、男は三蔵の手を取らず、自分で身を起こした。いや、起こそうとした。身体に痛みが走ったのか、顔を顰め、身体が崩れる。咄嗟に支えた三蔵の手を男は振り払い、軽く笑みを浮かべると、自力で立ち上がった。その姿は、先日の月夜の晩を髣髴とさせた。あの時も、男は自分の足だけで立ち上がった。きっと、いつもそうしてきたのだろう。
相当に辛いだろうに口元の笑みは消さず、男はふらつきながら何とか身体を立てると、ゆっくりと乱れた衣服を整え煙草を取り出した。三蔵が横から一本引き抜き、火を寄越せと顎をしゃくり上げると、男は楽しそうにライターを寄せてきた。

「へぇお前、吸うの?」
「‥‥‥。たまにな」

紫煙を吐き出しながら眉を顰める。普段三蔵が吸っているものよりも、キツい香り。

「何だよ今の間は。ホントはたまにじゃねーんだろ。うっわ〜不良〜」
「煩ェ」

何事もなかったような、くだらない会話。だが、今までとは何かが違う。部屋の空気が濃く感じられるのは、二本分の煙草の香りのせいだけではない。
きっちり煙草一本分の時が過ぎ、男は勢いよく凭れていた机から身を離した。どこかぎこちない動きで、だが手を差し伸べる事を許さない笑みで、躊躇いなく扉を開け放す。
新鮮な空気が部屋に流れ込み、今まであった筈の濃密な何かを、いとも簡単に押し流す。初めてこの場で出会ったときから全く変わらない薄い笑みを浮かべ、男は振り返った。

「じゃーな、三蔵」

目の前であっけなく閉じられた扉が、今までの出来事は全て夢だったのかという錯覚を一瞬三蔵に与えた。そういえば、初めて名前を呼ばれたなと考えて、ようやく三蔵は自分が一度も男の名を口にしていないことに気が付いた。ずっと心に渦巻いていた感情を何一つ伝えないままに、身体を繋げたのだ。

まあいい、全てはこれからだ。何もかも、これから始まるのだから。

全ては、明日から始めよう。
入学してから2年過ぎ、三蔵は初めて翌日の登校を心待ちにした。

 

 

 

 

翌日。

 

 

登校した三蔵を待ち受けていたのは、男の退学の知らせだった。
 

 

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片想い期間短すぎ…(汗)

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