名を呼べば(3)
見事な月夜の晩だった。
――――この先で事故があり、ここからは通行止めになっている。 そう運転手に申し訳なさげに告げられた三蔵は、躊躇わずに車を降りた。 三蔵は学校に車で乗りつけるような真似だけはしないと決めている。 走らなければ裏道でもいいかと、三蔵が細い路地に入りかけたとき、女がひとり飛び出してきた。女は酷く慌てた様子で、三蔵にぶつかったというのに謝るどころか顔も上げずにそのまま走り去る。話をした記憶はロクに残っていないが、三蔵と同じクラスの女のように見えた。三蔵の後ろから付いてきていた一人が気色ばんで女を捕まえようと動いたのを、三蔵は視線で止めた。 路地の奥が、騒がしい。今の女の事で揉めているに違いなかった。チンピラ同士の女の取り合い。全くハタ迷惑な話だ。 それほど長い時間ではなかった。 「‥‥よぉ」 指に挟んだ煙草を持ち上げて、男が笑った。 「喧嘩に煙草、それに女か。自由な校風にも限度があるぞ」 後ろから三蔵に付いてきていた人物が驚いているのが気配で伝わった。三蔵がこんな風に他人に話しかけるのが珍しいと思っているのだろう。男はアテテと情けない声を上げながら、それでも自力で何とか立ち上がった。いつもなら自分より高い男の目線が、壁に寄りかかっている分だけ下がり、自分と同じ位置にある。そんな事が、三蔵には新鮮だった。 「喧嘩だって正当防衛だっつー。女が絡まれてたから止めに入ったら、いきなりキレやがってよー。連中のアタマ‥‥確か、隣のクラスの‥‥なんつったかな、バンリとかベンリとか、変わった名前っぽい奴。俺、こんなだろ?黙ってたってインネンつけられっから喧嘩は慣れてんの。はっ、アイツ足腰立たねぇようにしてやったぜ」 自分の長い髪を引っ張りながら、何の自慢だか胸を張る男に、三蔵は呆れたようにため息をつく。あまりにあっさりと自分から髪の事に触れられて、つい気になっていた質問が口をついて出てしまった。 「‥‥その髪」 背後の人物が息を呑むのが伝わったが、三蔵は気にも留めなかった。男も、背後の人物をどう捕らえているのか、別段気にするでもなく三蔵と普通に会話を続けている。
「よっ」 今日も何とか三蔵が時間を調整して生徒会室に立ち寄ると、既に男は部屋にいた。机に腰掛け、ズボンのポケットに両手を突っ込んで咥え煙草。相変わらずのふてぶてしい態度だ。毎度の事に、煙草は匂いが移るからここでは止せと注意したこともあるが、直ぐに無駄だと悟った。仕方なく、超強力脱臭スプレーの世話になっている。 「シよ?」 鞄を置く時間を惜しむように、三蔵は他の役員たちからの報告文書に目を通し始める。実際、時間が惜しい。生徒会の役員など引き受けている暇などないのだが、叔父のごり押しに頷いていつの間にやら立候補させられていたという経緯があるため、途中で投げ出せなかった。それに、成り行き上とはいえここ最近真面目に取り組んでみて、多少面白みを感じ始めた部分もある。さすがに生徒会長の役は固辞したが、やるべき仕事は多かった。 「やっぱ言い出した方が下、なんだろーな」 唐突に、熱く柔らかいものが三蔵の唇に押し付けられた。視界いっぱいに男の顔があって、焦点が定まらない。キスをされている、と自覚したときには、三蔵は男の身体を机に引き倒していた。書類が宙を舞い、床に散らばる。男の腕が、三蔵の首に回された。
途中、足音が廊下を過ぎる度に、二人は息を潜めあってやり過ごした。 「わっ、バカ動くなって、あっ」 繋がったままの体勢で小声で罵りあうのが馬鹿らしくて楽しくて、嬉しかった。
「‥‥テメェ、病弱なんて嘘だろ‥‥」 しれっと答えてやると、男は少しふてくされた顔をした。 「少しは悪びれろ、ったく‥‥」 全てが終わった後、男はぐったりと机上に身を投げ出したまま動かなかった。指一本動かすのも億劫といった様相に、流石の三蔵も少々やりすぎたかと手を伸ばす。 「へぇお前、吸うの?」 紫煙を吐き出しながら眉を顰める。普段三蔵が吸っているものよりも、キツい香り。 「何だよ今の間は。ホントはたまにじゃねーんだろ。うっわ〜不良〜」 何事もなかったような、くだらない会話。だが、今までとは何かが違う。部屋の空気が濃く感じられるのは、二本分の煙草の香りのせいだけではない。 「じゃーな、三蔵」 目の前であっけなく閉じられた扉が、今までの出来事は全て夢だったのかという錯覚を一瞬三蔵に与えた。そういえば、初めて名前を呼ばれたなと考えて、ようやく三蔵は自分が一度も男の名を口にしていないことに気が付いた。ずっと心に渦巻いていた感情を何一つ伝えないままに、身体を繋げたのだ。 まあいい、全てはこれからだ。何もかも、これから始まるのだから。 全ては、明日から始めよう。
翌日。
登校した三蔵を待ち受けていたのは、男の退学の知らせだった。
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片想い期間短すぎ…(汗)