朱泱の寄越した、男の母親についての報告は詳細だった。
男を育てた母親は、実母ではなかった。
林業と農業で成り立つ山奥の田舎町に、彼女は生まれた。
彼女の家も他に違わず代々農業を営んでおり、両親と年老いた祖父母が先祖から受け継いだ田畑を細々と守っていた。ひとり娘の彼女はいずれ婿養子をとり、当然に家業を継ぐものとして期待されていた。
しかし田舎暮らしを嫌った彼女は、高校を卒業すると同時に両親の反対を押し切って上京。いくつかのアルバイトを掛け持ち、生計を立てる日々の中である男と出会い、駆け落ち同然に結婚、そして長男をもうける。夫は小さな会社勤めのサラリーマンで高給取りとは言い難かったが、それでも暮らしに切迫したものはなく、常に笑い声の耐えない明るい家庭だったらしい。が、それも長くは続かなかった。
突然、夫は愛人と心中した。彼女は夫の死後初めて、夫の不貞を知ることとなった。
そこから彼女の人生は、狂い始めた。
夫はいなくなり、代わりに残された幼い子供。自分の夫と他の女との間に生まれた子供を、彼女はどんな気持ちで引き取ったのだろうか。自分にも夫にも由来しない、明らかに外国の血が混じると知れる紅い髪を持つ上に、成長していくにつれ、夫の遺品から出てきた写真の女の面影を見るようになって、徐々に彼女の精神は破綻していった。彼女はアルコールに溺れ、子を殴った。日毎に違う男を家へ連れ込み、まだ幼かった子の前でも性交を見せ付けたという。
そのうちに性質の悪い男に引っかかり、彼女は薬物を覚えた。そして幻覚の果てに子を殺そうと刃物を持ち出したのだ。結果、弟を庇った自分の実の息子までも傷付け、騒ぎを聞きつけて駆け込んできた隣人を刺し、死なせた。そして錯乱したまま通りに飛び出し、車に撥ねられて不帰の人となった―――。
「‥‥‥母親が犯した罪は、お前が被るべきものじゃないだろう」
慎重に言葉を選んだつもりだが、言外に『それがどうした』という感情が滲むのを抑えることは出来なかった。
母親が犯した殺人。まだ幼かった男の心に、どれほどの傷を残したのかは推測するほかはない。父親は愛人と心中し、母親は殺人犯。口さがない世間の中で、男と兄がどれほどの肩身の狭い思いをしてきたのも理解できる。
だが、三蔵の下に来ればいくらでも守ってやれる。三蔵にとっては、たとえ男自身が殺人犯だったとしても、取るに足らない問題だった。
三蔵の反応に、男は少し驚いたようだった。
何かを言おうと口を開きかけたが、結局は口を噤む。三蔵が次の言葉を掛けあぐねていると、その顔が可笑しかったのか、男は急にクスクスと笑い出した。
「おい?」
思わず三蔵は、眉根を寄せた。だが一向に男の笑いは止まず、やがて腹を抱えてヒィヒィと苦しげな声を上げ始めた。
思わず三蔵はムッとする。三蔵の不機嫌な表情に、男は笑いに震えながらもとりなすように声を出した。
「だって、お前―――や、悪ィ悪ィ。なんかさ、大企業のお偉いさんって、そーゆーの気にするんだとばっか思っててさ」
確かにそれはあるだろう。
身辺は常にクリーンに。どこかの政治家のような台詞だが、やはり経営者も似たり寄ったりで、自身と企業イメージを損なう恐れのあるものには過剰なまでに反応し、排斥を行う。同性の恋人までは許せても、その身内が殺人犯とくれば世間の好奇の目も違ってくる。
それをくだらないことだと言い切れるのは、三蔵の若さかもしれない。だが、それは紛れもない三蔵の本心であったし、自分の言葉を実現できる力が三蔵にはあった。
「なんか‥‥‥バッカみてぇ、俺」
男はぽつりと零し、笑った。先程までとは違う笑顔だった。
今更だと三蔵が鼻を鳴らすと、男は可笑しそうにまた笑った。笑いすぎて涙でも滲んだのか目尻をこしこしと拭う仕草が、大きな身体に似合わずガキ臭い。
「けどさぁ、お前、肝心なこと忘れてんぜ?」
「‥‥まだあるのか」
どこまでも往生際の悪い男に、三蔵も徐々に苛立ってくる。男は、三蔵の眉間の皺を見て、思わずといった様子で噴き出した。
「怒んなよ。お前、俺のキモチ確認してねぇだろ。お前が好きだなんて、俺、ひとっことも言ってねぇけど?」
「くだらねぇ、そんなことか」
「くだらねぇってこたぁ、ねぇだろ!」
途端に目をむいて噛み付いてきた男に、三蔵は呆れたような視線を投げる。
「『他の男に汚される前に』って俺に抱かれに来た乙女な奴がそれを聞くのか?」
一瞬のうちに男の頬に朱が走った。
「‥‥!って、あれは!俺は‥‥そのっ‥‥!」
口の中でなにやらもごもごと言い訳していたが、顔を上げていられなくなったのか、男は下を向いて三蔵の視線から逃れようとした。
しばらく待ってみたが、俯いたままの男からは次の一手は出てこない。
「言いたいことは、終わったようだな」
ならば、と三蔵は、男を驚かせないようにゆっくりと俯く頬に手を添える。頬に走る二筋の傷をなぞる様に指を滑らせれば、ぴくりと肩を震わせ、おずおずといった様子で顔を上げた。
三蔵の心を捕え続けてきた美しい深紅の瞳が、困惑と不安と、三蔵への隠しきれない恋慕で揺れている。
愛しい。
初めての感情が、三蔵の全身を支配する。
引き寄せられるように、三蔵は男の唇に自分のそれを重ねようとして―――。突然、胸に衝撃を感じた。
渾身の力で男に突き飛ばされた事に気付き、三蔵はよろめきながら愕然となった。
男の示した答えは――――やはり拒絶、なのか。
混乱と動揺で、三蔵は不覚にも一瞬無防備になった。
「!?」
突然に視界が紅で染まった。
気付いた時には、噛み付くように唇を塞がれた後だった。三蔵が男に与えようとした口付けよりも遥かに、激しく熱く、官能的な口付けだった。それは男の浮名通りの慣れを感じさせて三蔵は僅かに眉を顰めたが、首に回された腕は力強く、男の明確な意思を三蔵に伝えた。
「くっそ、結局、俺の負けかよ‥‥」
音を立てて離れた唇を惜しいと思う間もなく、耳元で囁かれた小さな呟き。
まだ勝負に拘っていたのか、とか。
それはお前が抱かれにきた時点で勝負は付いてるだろ、とか。
意地張るにも時と場合があるだろうが、ちょっとビビっちまったじゃねぇか、とか。
突っ込みどころは山のようにあったけれど。
「言っとくけど、今更取り消しはきかねーぞ。しつけぇって言われても、迷惑だって言われても、もう離れてやんねーからな!」
赤くなりっぱなしの顔を三蔵に見られたくないのか、男は三蔵の肩口に顔を伏せるようにきつく抱き付いて離れない。安堵のため息は飲み込んで、三蔵もまた、男の背に腕を回して強く強く抱きしめた。
「誰が取り消すか、馬鹿」
何よりも望んだ存在をようやく手中にした喜びが湧き上がる。肩に濡れた熱を感じたが、三蔵は気がつかない振りをした。
「俺が、お前に身体から痕が消えない生活ってのをさせてやるよ」
勘弁しろって、と男が小さく呟いて、肩を震わせた。笑っているのだと、三蔵は思ってやることにした。
不幸に慣れ、他人を求めるのに不慣れな男が、初めて精一杯に腕を伸ばして、三蔵を求めようとしていた。
男に応えるように、三蔵は抱きしめる腕に力を込めた。もう二度と離さないとの意思を込めて。
「―――悟浄」
初めて舌に乗せた男の名前は、驚くほどに甘かった。
「名を呼べば」完
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