Happy Medicine 1.85(3)
「いいですか?多分、三蔵はかなりのショックを受けてますから、なるべく刺激しないように」 既にどっぷりと日は暮れて。 「大丈夫ですよ。案ずるより生むが易し!って言うでしょう?これが結構、ご機嫌かもしれませんよ〜?」
ガンッ! 突然開いた扉が悟空の頭を直撃し、和やかな会話(‥‥)は中断された。 「‥‥‥った〜!」 頭を押さえて蹲る悟空の頭上から落ちる、壮絶に不機嫌な声。 (うわ〜。怒ってる怒ってる〜) どこがご機嫌なんだと、悟空は別の意味で頭が痛くなった。 「おい‥‥あのクソ河童何処行きやがった!?」 痛む頭を抱えたまま、こっそりと不機嫌な声の主の様子を伺うと。 「何だ結構元気じゃん。俺、てっきり‥‥‥」 流石に『腰が痛くて動けないと思って』とは言えない。 助けを求めるように悟空が隣に視線を移すと、そこにいた筈の八戒の姿が掻き消すように消えていた。 「‥‥‥」 この場を押し付けられたのだと悟空が理解するまでには数瞬の間があった。 「‥‥はぁっかい〜」 唸り声を上げて、裏切り者の八戒の元へと駆け出そうとした悟空の首根っこを、三蔵の手がむんずと掴む。そのまま捻り上げるように、真正面に顔を近付けられた。 「あんのクソ馬鹿は何処に行ったのかと、聞・い・て・ん・だ・よ!?」 三蔵の眼が、据わっている。 (ひーっ!コエーっ) 遠くでそっと白いハンカチで目頭を押さえる八戒の姿を目の端に捉えながら、悟空は逃げ出す事もかなわず、ただ三蔵から噴出すブリザードに身を晒すしかないのだった。
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一人にしておけば宿中とは言わず町中を破壊しそうな程に荒れている三蔵を放っておけず、結局悟空は三蔵の部屋に留まっている。 「なー‥‥、三蔵」 機嫌を伺うように声をかける悟空にぎろりと鋭い一瞥を食らわせ、三蔵は新しい煙草を取り出した。だが、悟空もそんな事ぐらいでいちいち引き下がったりはしない。そうでなければ、この最高僧とは付き合えないのだ。 「明日の出発、延期しなくていいのかよ?」 胡乱な目を向ける三蔵に一瞬怯んだが、やはり悟空も健康な青少年。不意に湧いた好奇心には勝てないらしい。 「なんかさー、八戒に聞いたけど。ハジメテって辛いんだろ?」 果たしてどこまで本当に分かっているのやら。 「悟浄も手加減できなかったでしょうねぇ、って八戒も言ってたし」 どこかで聞いた事のあるような台詞に、三蔵は眩暈と既視感を同時に覚える。三蔵の機嫌が益々下降の一途を辿るのに気付かないまま、悟空は興味深々とばかりに身を乗り出してきた。 「で?で?どうだった?もしかしてヤミツキ?」 うん、と素直に頷く悟空の姿に、最早ハリセンを振るう気力すらない。 「‥‥‥聞きたいなら、もう少し近くに寄れ」 くいくいと人差し指で招く三蔵に、『やっぱ三蔵といえども大きな声では言いにくいんだなぁ』と悟空は内心妙な感動を覚えながらも、言われるまま掛けていた椅子をずりずりと引き摺って三蔵の側に寄った。 「いいか、俺が、」 悟空は期待に胸を高鳴らせながら、三蔵の告白を待つ。 「悟浄に、」 小声で囁かれる三蔵の言葉を一字一句逃すまいと、悟空の耳はダンボ状態になっている。 と、スゥと息を吸い込むような音がして。
「突っ込まれる訳ねーだろーがっ!」
突然の大声に、悟空は思わず椅子から転がり落ちる。
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その日の深夜、悟浄は宿に帰ってきた。 「あれ?さんぞーさま何のご用?部屋間違えたのかな、俺〜」 纏わり付いた安っぽい酒と香水の匂いが、悟浄が何所に出かけていたのかを如実に物語り、三蔵は眉を顰めた。 「酒と女か。いいご身分だな、クソ河童が」 忌々しげに吐き捨てられる三蔵の台詞。だが冷たい筈のその言葉に、悟浄が安堵の表情を浮かべたのを三蔵は見逃さなかった。 「何だもう元に戻ってんのかよ、せーっかく可愛いお前とこれから楽しめると思ったのにぃ。ん〜、悟浄さんちょっと寂しいカモ〜」 明らかに酔いの混ざった口調。からかうように伸ばされた手を三蔵は思い切り振り払う。三蔵のそんな反応は予想済みだったのか悟浄は軽く肩を竦めただけだ。 「嘘つけ」 三蔵の言葉に、悟浄が訝しげに首を傾げる。 「ヤりたくなかったんだろが、俺とは」 そう、結局悟浄は三蔵を抱きしめたまま、何もせずに―――。嫌なのか駄目なのかと(多少舌足らずな口調ではあったが)喚き散らす三蔵が疲れて眠るまで、ただじっと三蔵を抱きしめたままだったのだ。 それから、この最高僧の眉間の皺は消えることがない。
三蔵は自らの心を持て余していた。 悟浄は男だ。当然惚れた相手を組み伏せたいと思うのは不自然な事ではない。悟浄が元々は受け手にまわるつもりが無かった事は、前回の騒動でも明らかだ。 三蔵は、決して悟浄に抱かれたいと思っている訳ではない。だが、悟浄がどうしてもと望むなら、一度や二度の譲歩はしてやってもいいと思うくらいには悟浄の事を想っている。無論、そんな事を許せるのは悟浄だけだ。 記憶障害の副作用は三蔵には現れなかったため、自分がどう振舞ったか悟浄が何をしたか、最初から最後まで三蔵の記憶に残っている。自分の醜態への嫌悪と羞恥が入り混じり、とても平静では思い出す事が出来ない。 『三蔵から誘ったんじゃねーの?』 いかにも気の毒そうに頷いた悟空を殴り倒してから、まだそんなに時間は経過していない。顔に出ないように取り繕ったつもりだが、内心の動揺を気取られなかっただろうか。 自分は「いい」と言ったのに。悟浄になら、と言ったのに。 ――――もしかしたら、悟浄は自分を欲しくないのかもしれない。 そう考えると、無性に不安になった。自分だけが、いつも悟浄を求めているような気がしてしまう。 『ほしいの、おれだけ?』 薬の力を借りて、つい漏らした本音。答えられる事の無かった問いが、三蔵の胸を塞いだ。
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軽いため息が聞こえ、三蔵の思考を現実に引き戻す。内心の葛藤を億尾にも出さず、精一杯冷ややかに、ため息の主を睨みつけた。 「あー、じゃーさ。お前は今、俺に抱かれたいワケ?」 望むなら、と続けられる筈の台詞は、悟浄によって遮られる。 「俺がどうこうじゃなくって。お前が俺に抱かれたいのかどうかって聞いてんだよ俺は」 三蔵には答えられなかった。 「だろ?お前、俺にヤられんの嫌だろ?そりゃ、さっきのお前は凶悪に可愛く誘ってくれちゃって、正直ネジぶっ飛ぶトコロだったけどよ。‥‥それってお前の本心じゃねぇもん」 少し笑って俯く横顔に、髪が流れる。 「本当の、お前じゃねぇもん」 あーもー、言わすなこんな事、と呟く悟浄から目が離せない。 「どーしよーもなく俺様で鬼畜で我侭だけど。もう慣れたし‥‥‥‥その、そーゆーのも悪くねーっつーか、ナンつーか‥‥」 ごにょごにょと決まり悪げに悟浄は視線をさ迷わせる。 「‥‥つまり普段の俺にベタ惚れだと言いたいのか」 三蔵の顔を指差してわなわなと震える、一瞬で茹でダコになった悟浄の瞳に嘘や誤魔化しが無いのを見て取って、ようやく三蔵は自分の中でわだかまっていたモノが溶け出していくのを感じていた。悟浄が自分を欲しくなかった訳じゃない、と。 腕を伸ばして、悟浄の紅い髪に触れる。少し屈め、という二人だけの暗黙の合図。 「‥‥酒臭ぇ」 クスクスと笑って、それでも触れるだけの口付けを交わす。何度か繰り返すうちに、口付けは徐々に深くなり‥‥‥‥そうなれば後は、互いの体内を駆け巡る熱に、身を任せるだけの話だ。 そうして、この人騒がせな(八戒談)二度目の薬騒動も、なんとか終焉を迎える。
――――――筈だった。
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