Happy Medicine -First Step- (2)

命ぜられるままに三蔵の前に座った悟空は、終始俯いたままだった。

悟浄が女性を口説くのに長けているのは知っている。
黙っていればそれなりにイイ男だし、経験も豊富で夜の街に溶け込む雰囲気を纏っている。普段はあまり表面に出さない、だが時折瞳を掠める陰りが女性たちにはウケるらしいと悟空にも何となくだが分かっている。
長い髪を気だるげにかき上げて、流し目のひとつふたつくれてやれば。朝まで共に過ごしてくれる女性など、いくらでも見つかるだろう。

(ど、ど、ど、ど、どうしよう‥‥俺)

どうしても顔が上げられなかった。
三蔵は、悟空の説明を最後まで無言で聞いていたが、かなり怒っているという空気は付き合いの長い悟空にはきっちり伝わっていた。

「‥‥この馬鹿が」
「ごめん!」

ようやく発せられた低い声に、悟空は机に額を擦り付けんばかりに謝った。他にどうすればいいのか分からなかった。

「てめぇが薬に頼るなんざ、百年早ぇ」
「もうコリゴリだよ‥‥。二度とやんないから。ホントに悪かったと思ってるから、だから、あの‥‥‥‥」

そこでようやく悟空は目線を上げ、三蔵の表情をちらりと伺った。不機嫌な紫暗が、真っ直ぐに自分を睨みつけていて、身体が竦む。三蔵は、今にも泣き出しそうな悟空の顔に、ふん、と鼻を鳴らした。

「‥‥八戒には、黙っといてやる」
「マジでごめん!さんきゅーな三蔵!」

苦虫を噛み潰したような表情の三蔵に、悟空は心から感謝した。もし真実を八戒が知ってしまったらと思うと、もう一緒に旅なんてできない、とまで思いつめていたのだ。あの綺麗な翠の瞳が自分への侮蔑で細められるのを見るくらいなら、死んだ方がマシだった。
もう一度ありがとうと呟くと、三蔵は、話は終わったとばかりに煙草に火を入れた。

「‥‥‥‥でさ、三蔵」

煙草を吸う三蔵に、悟空が、意を決して話しかける。本当は、何よりも先に言わなければならなかったこと。三蔵が先に八戒のことを持ち出したので、順番が逆になってしまったけれど。

「何だ」
「あのさ‥‥、もうひとつ、頼みがあるんだけど」

自分が八戒に嫌われるのを心配するよりも先に、言わなければならなかったこと。

「悟浄を、怒んないでやってくれよ」
「‥‥‥‥」

これだけは譲れないと、悟空は三蔵に縋るような目を向けた。
 

 

 

 

*****

 

三蔵が早々に延泊を決めたことからして、悟浄が戻ってきたら当然お仕置きタイムに突入するつもりだろうと悟空はふんでいた。だが、例え悟浄が女性と朝まで遊んでいたところで、今回に限っては、彼を責めるのは筋違いだ。悪いのは、悟浄ではない。

「もし、もしさ‥‥。悟浄が帰ってこないの、『そう』だったとしても‥‥。それ、薬のせいだから。‥‥‥‥俺のせいだから。俺は怒られて当然だけど、悟浄のせいじゃないから」
「‥‥‥‥」
「悟浄のこと、怒んないでやってくれよ‥‥」

どこまでも真剣な表情で懇願する悟空に、三蔵は軽く目を伏せると、まだ長い煙草を灰皿に押し付けた。

「‥‥‥‥わかった」

最後の煙と共に吐き出された短い言葉に、悟空は再びごめんと頭を下げた。
と、慌しい足音が近付いてきたと思う間もなく、扉が乱暴に開かれる。

「あ、三蔵、延泊、OK、です、って。部屋、も、その、まま、で」

珍しく息を切らせた八戒が、呼吸を整える間を惜しむように報告する。

「‥‥‥どしたの、八戒?」

悟空の問いかけに乾いた笑みを返しつつ、後ろ手に扉を閉め背中全体で扉を押さえつける。

「実は、悟浄が‥‥‥」
「いたの!?悟浄!?」
「見つけたのか!?」

間髪いれずに反応した二人に、八戒は困ったような笑みを浮かべた。
どこの不心得者か、再び大きな足音が宿に響いたと思うと、2階の客室の方に消えていく。他の客は既に出立している時刻なので、誰かが忘れ物でもしたのだろうと悟空は漠然と思った。余程急いでいるのか、その足音は先程と少しも変わらない勢いで、再び階下に下りてくる。

「見つけたといいますか見かけたといいますか関わり合いになりたくないと言いますか‥‥‥、できれば僕はこれで部屋に引き取らせていただければ嬉‥‥‥」

どがんと大きな音と共に、八戒の言葉は遮られた。食堂の扉が蹴破られ、八戒の身体ごと吹飛ぶ。哀れにも八戒は、扉の横の壁に顔から激突した。

「わー八戒ィ、しっかり!!」

慌てて悟空が駆け寄り抱き起こすが、八戒は見事に気絶していた。
見通しの良くなった廊下から、ちらちらと見え隠れする紅い髪。これが誰の仕業かは一目瞭然だ。だが不可解なことに、悟浄は部屋には入ってこなかった。ただ、こそこそと部屋の中を、――――いや正確には三蔵を――――、覗き見てはすぐに身体を翻し身を隠してしまう。

「‥‥何やってんだ、貴様」

中々部屋に入ってこない悟浄に、ついに三蔵が痺れを切らす。
その声がきっかけとなったのか、大きな深呼吸が聞こえたかと思うと、悟浄が食堂に飛び込んできた。脇目もふらず、真っ直ぐに三蔵の元へと突き進んでくる。緊張しているのか、顔色が少し悪かった。

ずい、と三蔵の胸に突きつけられたのは大きな弁当箱。

「こ、こ、これ、食べてくださいっ!」

真っ赤な顔で弁当箱を差し出す大男の姿に、食堂の気温が2度下がった。
 

 

 

 

*****

 

「これは、何だ?」
「何って‥‥。弁当」
「それは見れば分かる。何でいきなり弁当なんだ」
「だって‥‥三蔵に俺の作ったもの食って欲しかったから」

自分の台詞に照れて、いや〜ん、と顔を隠す悟浄を三蔵は呆然と眺めた。一瞬、実は偽者なんじゃないかと疑念を抱きかけたが、その首筋に2日前に自分の残した痕跡を認めて、三蔵は残念ながら『悟浄偽者説』をあっさりと放棄せざるを得なかった。目の前にいる悟浄は、恐ろしいことに、まごうことなく本物だ。
弁当を渡すという最初の難関を突破して安心したのか、悟浄は胡散臭げな紫暗をものともせず、いそいそと弁当箱の蓋を取る。
およそ悟浄らしくない、凝りに凝った弁当が姿を現した。繊細な飾り切りを施された見た目にも鮮やかなおかずたちが、黒い容器に所狭しと詰められている。状況を忘れ、悟空がウマソー、と呟いた。
確かに美味そうな弁当には違いなかった。だがしかし、その量たるや半端ではない。

「‥‥朝メシ食ったばっかだぞ」
「じゃ、朝食後のデザートだと思って」
「無茶言うな!」

元々食が細い三蔵は、朝っぱらからこんな量の食事など、見ただけでも胸やけがする。その程度の基礎知識を、三蔵マニアの悟浄が知らない筈はない。
ふと、三蔵が部屋の隅で八戒を抱える悟空を振り返る。突然の紫暗に慌てた悟空はわざとらしく視線を逸らした。三蔵の胸に浮かんだ曖昧な思考が確信に変わる。

「お前‥‥女とシケ込んでたんじゃなかったのか」
「はぁ?何ソレ?」

突拍子もないことを聞いたとばかりに目を瞠る悟浄に、三蔵は脱力した。
今度のハッピーメディスンの効用は、『好きな相手に求愛行動』。副作用さえ起こさなければ、至極まっとうに服用者の行動を制御する筈だ。

――――つまりは、これが薬の効果というわけだ。

どうやら悟浄は、三蔵に対して自分の想いをアピールしているらしい。
現金なもので、悟浄がきっちり自分の元に帰ってきたという安堵が過ぎ去ってみれば、どこからともなく湧き上がってくる怒り。

散々心配させやがった挙句に、よりにもよってこの野郎は。

(俺をエサで釣ろうってのか‥‥?どこの動物だ貴様は!)

あまりにも単純な悟浄の求愛行動に、三蔵は頭が痛くなった。

「‥‥とにかく俺は満腹だ。後にしろ」
「えー?だって傷んじまうだろー?」

怒鳴り散らしたいのを我慢して(一応、悟空との約束は覚えていたらしい)、妥協案を提示してみるも、悟浄は不満げに唇を尖らせた。
悟浄が無事に戻ってきて、もはや他のことなどどうでもいい三蔵は、適当な逃げ道はないものかと一瞬思案した。どう考えても、この量は食いきれない。

「そうだ、悟空にでも食わせ‥‥」

突然、三蔵のこめかみの辺りが熱くなった。と同時に凄まじく気合の入ったオーラを感じる。三蔵が悟浄の後ろを覗くように首を動かすと、悟空が必死の形相で三蔵を見つめながら、ぶんぶんと頭を振っているのが見えた。八戒を支えつつ、器用にも両手を顔の前で祈りの形に組んでいる。

(食ってやって食ってやって食ってやって!頼むから!)

逆らえば呪い殺されそうな思念の篭った眼差しに、不覚にも気圧されてしまう。悟空はやはり自分が薬を飲ませてしまったという罪悪感があるのか、悟浄の味方をするようだ。

「‥‥‥‥そんなに、俺の作ったものなんか食いたくねぇ‥‥?」

拗ねたような口調。傷付いていることを隠そうともしない紅い瞳がじっと三蔵を見つめ、不安に揺れている。超初心者用とはいえハッピーメディスンが効いていることには変わりなく、感情と態度が直結しているようだった。そこに理性が介在していない。

(‥‥そんな目で見んな!)

普段なら隠し通すはずの三蔵への恋慕や不安といった複雑な感情が、真っ直ぐに三蔵に向けられている。潤んだ瞳で三蔵の返答を待つ悟浄の表情は、閨での快感に乱れた姿を連想させた。本人は無自覚だろうが、どこからどう見ても全身で三蔵を誘っているとしか思えない。今ここで抱き寄せてその身体を撫で回しても、悟浄は抵抗しないだろう。

――――弁当じゃなくて、お前を食ったろか。

残念ながらそんなオヤジ発言を正直に口に出来るほどには、三蔵の理性は溶解していなかったが。
諦めのため息をひとつ吐いて三蔵が箸を取ると、悟浄は嬉しげに破顔した。
 

 

 

 

*****

 

「美味かった?」
「ああ‥‥」

普段の朝食のゆうに5倍以上を詰め込まされ、息も絶え絶えにテーブルに突っ伏す最高僧を他所に、悟浄は嬉しそうに笑っている。
気絶した八戒を抱き起こしたまま事の始終を見守っていた悟空も、ほっと安堵で胸を撫で下ろしていた。

こんな薬の効果なら、まあ許せる範疇だろう。三蔵は思いっきり苦しそうだけど、後で胃薬でも飲んで貰えば解決だ。ハッピーメディスンの効き目もそのうちに切れるだろうし。あー、よかったよかった。――――などと悟空が暢気に考えていると、何を思ったのか、悟浄が突然に食堂を勢いよく飛び出し、すぐさま両手に、山のような荷物を抱えて戻ってきた。

どん、と置かれた荷物の重さに、テーブルがきしむ。

「まーだまだあるから、遠慮せずに食えよ!」

離れた場所からではあったが、三蔵の顔色が一気に青くなったのを悟空は見逃がさなかった。

 

 

「今さっきのが前菜な。んで、こっちがサラダだろ?海鮮、シーザー、ポテトに大根!ドレッシングは和風、洋風、中華風、もちろんマヨラーなお前のためにマヨネーズもあるかんな。メインは子羊の赤ワイン煮込みと牛フィレ肉フォアグラ添え、鴨の岩塩包み焼き。あ、三蔵は魚の方がいいか?オマール海老の地中海の香り焼きに鮎のグリエ、ちなみにスズキの香味野菜ソースはお勧めな。あと餃子も焼き餃子、水餃子、蒸し餃子。決められなかったから、全部作ってきた。どれもニンニク入りと入れてないのとありまーす。シュウマイは海老もお勧めだけど、こっちのすり身入れてあんのが我ながら結構いい感じに仕上がったね。んで見て見て、この春巻き綺麗に揚がってるだろ?揚げ物にはちょっと自信アリよ俺。天ぷらはこっちが山菜でこっちが根菜でこっちが魚ね。魚河岸走り回ってゲットした新鮮な魚だから心して食うように。飯は山菜おこわと白飯と。中華粥はそっちの容器に入ってるから今準備するな。パエリアはとり合えず保温してきた、あんま味落ちてなきゃいいんだけど。こっちはスープな。お腹に優しい薬膳ベースと、とろーりコーンスープと濃厚ミネストローネ、美味そうだろー!?いや、実際美味いんだけどよ、へへ。えーと、いっぺんによそったほうがいいか?けど、こっちのフカヒレとカニのスープは自信作だから最初に食ってくれよなー。さあて、お次はいよいよお待ちかねのデザート!とりあえずは普通の杏仁豆腐から入って、意外性のチーズムース。洋梨のタルトにオレンジのシフォンケーキ、と。んで忘れちゃいけない傑作栗きんとん!結構甘いもの好きの三蔵様のイメージで、紫芋のきんとんの中に黄金色の栗!な、スゲーだろ?食いてぇだろ?――――さ、どれから食う?最初はシュウマイ辺りにしとくか?心配すんな、ちゃんと俺が全部食わせてやるからな。はい、アーンして?」

 

「食えるかーっ!!」

 

差し出された箸に今度こそキレた三蔵の怒号は、宿の三軒隣の民家にまで聞こえたという。
 

 

 

 

*****

 

「ごちそーサマ。うん、ちゃんとウマかった」

行儀よく両手を合わせてから、悟空は八戒の入れたコーヒーを飲み干した。ちらりと三蔵を見ると、まだ食べすぎで具合が悪いのか、ベッドに寝転がったまま微動だにしない。

「やっぱ悟浄、探しに行った方がよくない?」
「‥‥そのうち戻るだろ、ほっとけ」

起きてはいたらしく、気だるげな返事が返ってくる。

結局。三蔵に残りの弁当を食べて貰えなかった悟浄は、うえーんと泣きながら宿を飛び出してしまった。
その後、宿の親父に怒られて、悟浄が壊した食堂の扉を悟空と目を覚ました八戒が修繕する羽目になった(ちなみに三蔵は速攻で部屋に引き上げたので修理には参加していない)。
わざとらしく置き去りにされていた手付かずの弁当を引き受けると言い出したのは、悟空からだったが、当初三蔵は悟空が食べることには難色を示した。
先程の悟浄との遣り取りの中では自分から悟空に話を振った上に、どうせ自分は食べないくせに、いざ自分以外の誰かに悟浄の手作り弁当を食われるとなると面白くなくなったらしい。案外、心の狭い最高僧である。しかし。

「だって、腐らせる方が悟浄に悪いよ。もったいないし」との至極もっともな悟空の弁の前に、黙るしかなかった。珍しく、悟空の完全勝利である。
確かに悟浄に妙な薬を渡してしまった自分が悪いと、悟空は自覚していた。だが散々といらぬ心配はさせられたものの、結果的に最悪の事態は免れたという安堵で、多少の悟浄の奇行は気にならなくなったようだ。となれば、食いっぱぐれた朝食の分、腹が減るのも仕方がない。

「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。悟浄がおかしいのは今に始まったことじゃありませんからね。悟空、僕の特製ブレンドお代わりいります?」

食堂での騒動の間、ずっと気を失っていた八戒も、目覚めてからは機嫌がよいようだ。鬼のように目を血走らせ、山のような荷物を背負って全速力で駆けて来る悟浄の姿を目撃したときにはかなり動揺したようだが、今はすっかり立ち直り、鼻歌でも歌いだしかねないほどのご機嫌ぶりで悟空の世話を焼いている。余程、悟浄のキテレツな行動を目の当たりにしなくて済んだのが嬉しかったのだろう。

「あ、ところで悟空、そろそろお昼ですけど、ランチAとBどっち注文します?」
「りょーほー!」
「まだ食うのか‥‥」

げんなりと呟いた三蔵が、不意に僅かに身を起こした。
どうかしたのかと八戒が口を開く前に、その音は近付いてきた。階段を踏み抜かんばかりの勢いで駆け上がってくる足音に、思わず八戒と悟空は顔を見合わせ、手に手を取りつつ扉からなるべく離れた部屋の隅に無言のまま後ずさる。

「たっだいまー!さんぞー!」

テンションの高い雄たけびをあげながら、またしても、どかんとドアを蹴破って。
三人が予想していた通りの人物が現れた。

先程とは比べ物にならないほどの小ささではあるが、悟浄はやはり、その手に包みを抱えていた。
 

 

 

 

*****

 

心なしか先程より悟浄の顔色は悪く、頬もこけたような印象を受ける。
だが、当の本人は特に具合が悪いといった素振りも見せず、嬉々として包みを開けていた。そんな悟浄の様子に、三蔵は露骨に眉を顰める。どうやら悟浄の薬の効果はまだ切れていないようだ。

(今度は一体、何を持ってきやがった)

「おら三蔵!これならどうだっ!」

悟浄が包みから取り出した桃色の物体を三蔵の身体に押し当てる。

「‥‥‥‥‥‥」

その物体の正体は、セーターだった。
地色のショッキングピンクが目に痛い。しかもきっちり編みこまれたハイネック。断っておくが今は真夏だ。アイスクリームの似合うサマーシーズンだ。

だが、三蔵の背筋を凍らせたのは、その派手な地色や季節感のなさではなかった。

ど真ん中に巨大な深紅のハート。その中心には、これまた大きな相合傘。当然ながら並ぶ名前は三蔵と悟浄。文字は地色よりやや濃いピンクで、紫の小さなハートが周りを囲んでいる。編み物などには疎い三蔵にでも、一見して手編みだと分かった。

「‥‥‥‥‥‥」

三蔵が無言のまま裏返してみると、そこにも前と同じく大きな赤いハート。その真ん中にはポップな書体で「さんぞうLOVE」と、黄色い毛糸で編み込まれていた。勿論ミニのハートはちりばめられている。

「な、着てみて?」
「‥‥‥‥‥‥」
「なあってば、着てみてってば」

悟浄は、三蔵が自分のプレゼントを喜んでくれると信じて疑っていないらしい。ぐいぐいとセーターを三蔵に押し付け続ける。
三蔵から、ぶちぶちと何かが切れる音が聞こえてきた気がして、八戒と悟空は手を取り合ったままの体勢で、更に後ずさった。

「―――俺は、着んぞ」

今まで黙っていた三蔵が、暑苦しい毛糸の塊を強引に押し付けてくる悟浄の手をやんわりと制した。その言葉のあまりの静かさに、悟空と八戒が驚いたほどだ。だが悟空は、それが三蔵の怒りの大きさを示していることを知っていた。

「なんで!?なんでだよ、三蔵!?」

うるうると目を潤ませ、必死の形相で食い下がる悟浄に、悟空の胸が僅かに痛む。
三蔵がかなり怒っているらしいということが、悟空には少し意外だった。確かに、最初は悟浄の行動を三蔵が咎めることを心配した。今も悟浄の珍妙な行動に苛付く気持ちは、正直分からないでもない。だが、薬のせいだと知っているし、他の女に走ったわけでもないのに、三蔵がそれほど怒るとは予想していなかった。

(あああ‥‥!三蔵、あんま怒らないでやって!怒らないでやって〜!俺だってまさか悟浄がこんなキテレツな行動に出るなんて、思ってもみなかったんだよー!)

だが、悟空の祈りも空しく、三蔵は悟浄を怒鳴りつけた。

「なんでじゃねぇよ!このクソ暑いのに、モヘアのセーターなんざ着れるワケねぇだろうがっ!!俺を殺す気か、貴様!」

ビシッと三蔵が指差した方向には壁にかけられた温度計。よく見れば、今年の桃源郷最高気温39.5度を記録している。どうりで暑いと思ったと、悟空は納得した。この分だと、今夜も熱帯夜確実だ。

「‥‥しまった、サマーヤーンにすべきだったかっ!俺とした事が一生の不覚っ!」

悟浄はくうっと言葉を詰まらせた。
 

 

 

 

*****

 

だが、彼はへこたれなかった。
恋する乙女、もとい、恋する男はこんなことぐらいではめげたりしない。いそいそと包みの中から、更なるアイテムを取り出し、三蔵に迫る。

「じゃ、このストールならどうよ!?」

何やらコの字型に編まれた毛糸を広げている。落ち着いた白を基調に翠の縁取り。どこかで見た覚えがあると思ったら、肩に掛けられているときの魔天経文を模してあるらしい。先程のセーターよりは幾分マシな配色と言えなくもないが、裏からちらりと赤い色が覗いたのを三蔵は見逃さなかった。

「‥‥‥‥‥‥」

ひっくり返してみて、絶句する。やはり性懲りもなく、裏一面に『さんぞう命』と真っ赤な毛糸で文字が綴られてあった。

「これなら、法衣着てても自然に使えるだろ?冷房の効いた部屋だったら、ほら、肩とか冷えるし」

ちょっとかけてみてよ、と三蔵ににじり寄る悟浄は笑顔満開だ。

『法衣にニットのストール‥‥。全然、不自然ですよねぇ』
『‥‥それ以前に悟浄のセンスって、どーなんだろ‥‥』

得意げに胸を張る悟浄を、部屋の隅から珍獣を見るかのような目つきで眺める若干二名。
さて三蔵はどう出るか、と悟空ですら既に完全な傍観者である。いくら自分にも責任があるとはいえ、ここまで馬鹿らしいと罪悪感もどこかへ失せてしまうというものだ。

「きっと似合うからさ。な、早く着けてみてくれよ」
「‥‥‥‥いい加減にしろ、悟浄‥!」

三蔵の怒りがビリビリと、離れた悟空の肌をも刺す。ここにきて三蔵の堪忍袋の尾も、ついに切れたらしい。当然ながら、その怒りは悟浄にも伝わったようだった。不安げに首を傾げ、三蔵の顔を見守っている。どうして三蔵が怒っているのか理解できない、そんな表情に、薄れかけていた悟空の罪悪感が呼び起こされかける。

―――だが。

「アホかお前は!俺に着せてぇんだったら『さんぞう命』じゃなくて『ごじょう命』だろうが!!俺が自分に命かけてどうする!!」

(そこかよっ!)

思わぬ三蔵の突っ込みどころに、悟空はひっくり返った。

「そ、そっか‥‥、しまった‥‥っ!」

傾いた視界の端に、がくりと膝をつく悟浄の姿が映る。
そして悟浄は、再び宿を飛び出していった。
 

 

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