はぁ。

 

悟空少年は珍しく深刻な面持ちで、深いため息をついた。
ころりと手のひらで転がる、2粒の丸い物体。可愛らしい赤い水玉のセロハン紙に包まれた、小さな小さなイチゴのキャンデー。

「どーしよ‥‥」

1粒摘み上げて目の前にかざしてみると、甘酸っぱい香りが辺りにほんのり漂った。

 

 

 

 

 

 

 

Happy Medicine ―First Step―
 

 

 

 

 

 

 

―――――恋人たちの熱い夜を演出してきた弊社が、皆様の強いご要望にお応えして開発した『恋人になりたい』あなたのためのハッピーメディスン。
片想いのあの人に、想いを打ち明けたい。でも、そんな勇気がでないというあなた。言葉で伝えることが出来ないのなら、行動で示してはいかがでしょう?
あなたの想いを伝えるお手伝い。恋愛超初心者用ハッピーメディスン『スィート・ディスプレイ』。
動物たちが本能のままに織り成す求愛行動のように、あなたの気持ちを思わず相手にアピールしたくなる。孔雀のように美しい羽を広げるか、カワセミのようにプレゼントで気を引くか、それはあなたの想い次第。あなたの猛烈アタックに、きっと意中の相手も心動かされることでしょう。
さあ勇気を出して!大好きなあの人の前で、愛のダンスを踊りましょう!
 

注1:薬が苦手な方でも服用しやすい、キャンディタイプ。魅惑のイチゴ味でお子様からお年寄りまで抵抗なくお召し上がりになれます。
注2:アルコールとの同時摂取はお控えください。薬の効果が微妙になる場合があります。(例:不特定多数に対し、求愛行動をとってしまう等)
注3:求愛行動の種類および結果については、弊社は何ら責任を負うものではありません。
 

――――――ハッピーメディスン『スィート・ディスプレイ』説明書より抜粋
 

 

 

「胡散くさ‥‥」

ばたりと音を立てて、紙を持つ手がベッドに落ちた。
そうして部屋いっぱいに充満しつつあるため息を、悟空はまたひとつ追加したのだった。

 

 

 

どうしてこんなものを受け取ってしまったのだろう、と悟空は激しく後悔していた。

比較的大きな、という形容がふさわしいこの街は、商業が盛んであった。酒屋、飯屋、雑貨屋、薬屋、服屋。果ては占い処や祈祷所、『降霊承ります』や『失せモノ探します』の看板、等々、ありとあらゆる種類の店が軒を連ね、ありとあらゆる職業の人々が街を行き交っていた。

悟空が街で大きな荷物に押し潰されそうになっていた中年の商人を見かね、9割方の包みを引き受けて仲間のところまで送ってやったのは、つい先程のことだ。道すがら、商売柄か流石に聞き上手の商人のペースに乗せられて、気付いた時には片想いの相手がいること、中々告白できないこと、相手の気持ちがわからないこと、などとすっかり喋らされていた。

それでも、礼だと大きな肉まんを5つも奢って貰い、足取り軽く自分たちの泊まる宿へと引き返そうとしたとき。

『これは、オマケだよ』

日に焼けた顔に白い歯を覗かせて、商人は悟空の手に小さな飴玉を握らせたのだった―――――。

 

 

脱力した手を何とか持ち上げて、悟空は今しがた読んだ説明書に再び目を走らせた。
何度読んでも、どうにも胡散臭い。
しかし‥‥。

『あなたの猛烈アタックに、きっと意中の相手も心動かされることでしょう』

――――よく考えれば、これはいい機会なのかもしれない。

悟空は寝そべったまま、ポケットに押し込んでいた件のキャンデーを取り出した。
使ってみたくないと言えば嘘になる。なかなか言い出せない八戒への想いを、伝えることができるかもしれないのだ。
ただ、思い切れない理由はひとつ。

(八戒に気持ちを伝えたとして、もし八戒が俺のこと嫌いだったら‥‥‥‥?)

想像しただけで、背筋が寒くなる。
口で言えなければ行動で示せという強引な趣旨の商品であるが、そんなことが出来るくらいならとっくに告白してるんじゃないのか?と他の三人がいれば間違いなく突っ込まれていただろう。しかし、悲しいかな今の悟空には、企画コンセプトの過ちなどに気付く余裕など微塵もなく、飴玉片手にひとり頭を抱えているのだ。
三蔵と悟浄の薬騒動にとんでもなく迷惑を被り続けたが、まさか自分がハッピーメディスンを使うか否かで悩む日がくるとは夢にも思わなかった悟空である。

(あー、八戒の気持ちが分かったらいいのに‥‥。そしたら、)

そこでハタ、と気がついた。
何も、自分が食べなくてもいいのだ。食べた者が『好きな相手に自分の気持ちをあからさまにアピールしてしまう行動』をとるというのなら。

 

――――八戒に食べさせてみれば、いいんじゃん?
 

 

 

 

*****

 

「これを僕に?」
「‥‥うん」

結局、八戒の元を悟空が訪ねたのは、夕食も終え各自が自分に宛がわれた部屋に戻ってから、更に2時間が経過した後だった。
悟空らしくもなくジタバタと悩んだというのが半分の理由。そしてもう半分は。
『やっぱ女口説くにゃ昼より夜っしょ〜。お日さまカンカンじゃ、ムードもへったくれもねぇだろぉ?』
と以前悟浄が口にしていたのを参考にしたからだ。八戒も悟空も女ではないが、この際、些細なことには目を瞑ることにしたようだ。
まるっきり恋愛初心者の悟空がお手本にしたのが、女には超軽薄なエロ河童の悟浄であるあたり、既に何かを間違えてしまっているのだが、幸か不幸か悟空はその事実に気付いていない。

――――これでついに!八戒の気持ちがわかるんだー!

ともあれ、期待と不安に胸をはち切れんばかりにしながら、悟空は八戒の前にキャンデーを差し出しているのだった。

「ありがとうございます。いただきますね」

読んでいた本をパタンと閉じ、全く警戒もせず素直に受け取る八戒の姿に、ほんの少し胸が痛む。跳ね上がる心臓の音が八戒に聞こえやしないかと悟空は冷や汗をかいていた。八戒の指が包み紙を開き、ピンクのキャンデーを摘んで口に運び―――。

「‥‥‥何です?」

ころころと口の中で飴玉を転がしながら、八戒が自分を凝視したままの悟空に向かって首を傾げた。

「う、ううん、なんでもない」

悟空は胸を突き破りそうな動悸を悟られまいと内心必死だった。不思議そうに自分を見る八戒を精一杯の笑みで誤魔化してみる。

「あのさ‥‥‥、俺、もうちょっとここに居てもいい?何か、まだ眠れそーにねーし」
「もちろん構いませんよ。じゃ、お茶でも‥‥‥」
「いいっていいって、八戒は本読んでてよ!」

慌てて手を振って、八戒の動きを制する。そうですか?と笑み返す八戒に、悟空の良心がズキリと痛んだ。
だが、もう引き返せない。八戒に想う人がいるのかいないのか。いるとするならば、それが自分であるかどうか、悟空にもはっきりと分かるわけだ。
悟空は、震えだしそうな自分の足を叱咤した。
 

これで、明日からは。
何かが変わる、二人になる。
 

 

 

 

*****

 

コチコチコチ。
 

ぱらり。
 

コチコチコチ。
 

ぱらり。
 

安っぽい置時計が時を刻む音と、八戒が本のページをめくる音が、やたら大きく聞こえる。

『キレーな顔、してんなぁ‥‥‥』

僅かに目を伏せた八戒の横顔はとても綺麗で、悟空は枕を抱えたまま見とれていた。
時々、八戒の口内で転がされるキャンデーが頬にふくらみを作る。その度にドキドキしながら、悟空は忍耐強く、ただ黙って八戒を見つめ続けていた。

どのくらいの時間がたったのか。気付くと、もう八戒は口を動かしていなかった。キャンデーはすっかり溶けてしまったようだ。

「―――随分と、静かですね」

突然かけられた言葉に、どきんと心臓が脈打った。知らず枕を抱く腕に力が篭る。何とか、平静な声を作るのに苦労した。

「そだね。もう夜遅いし、みんな眠って」

いつもなら自分だってもうすっかり夢の中の住人である時間。いくら大きな街とはいえ、通りを何本か奥に入ってしまえば、夜の喧騒などという言葉からは程遠い。何もかもがひっそりと静まり返って、時折吹く風が、開けっ放しの窓から薄いカーテンを軽く揺らしていくぐらいなものだ。
だが、八戒は軽く笑って、悟空を見た。

「‥‥‥あなたが、ですよ」

虚を衝かれて、悟空は固まった。八戒の翠の瞳が濡れて光っているように見える。視線に絡めとられて、身体が動かせない。

「そんなに僕を見つめて‥‥‥。何を、企んでるんです?」

ゆっくりと八戒が近付き、悟空ののっかっているベッドに片膝をついた。ずっと悟空が抱えたままの枕を、やんわりとした力で取り上げる。悟空は、呆然とした面持ちで八戒のされるがままになっていた。八戒が動くたびに、空気が甘く香る気がする。

心臓が煩い。煩い。煩い。

「は、はっかい―――」

ごくり、と悟空の喉が鳴った。

「―――悪いコですね、悟空‥‥」

綺麗な顔が、息がかかりそうなほどに近付いてくる。
八戒から漂うイチゴの香りに、くらくらと眩暈がした。
 

 

 

 

*****

 

悟空が八戒と(ついでに悟浄にも)出会って幾星霜。ついにこの日がやってきた!
迫りくる八戒のアップに、悟空の心臓は張り裂けんばかりだ。耐え切れずきつく目を瞑ると、甘い香りが一層強くなった。ごくう、と呼ぶ八戒の声までが甘く香っているようだ―――。

「お腹が空いたんでしょ」
「‥‥え?」

笑いを含んで囁かれた声に思わず目を開けると、目前で八戒がにっこりと微笑んでいた。何を言われたのか理解できず、悟空は目をぱちくりと瞬かせる。

「お腹が空いたから、僕に何か作って欲しいんでしょ」
「う、ううん、違‥‥」
「無理しなくていいんですよ」

ようやく八戒の言葉を理解した悟空がぶんぶんと頭を振るが、八戒はいかにも『わかってます』と言わんばかりに片目を瞑った。

「さっき夕飯食べたばかりで、怒られると思って言い出せなかったんでしょ?」

『ち』がうってば。

「でもね、悟空。人をモノでつるのは良くありませんよ?キャンデーでご機嫌とるなんてしなくても、ちゃんと言ってくれれば作ってあげるのに。そんなに意地悪く見えます?僕」

『う』ん、見える‥‥じゃなくって!

「名誉挽回しなくちゃですねぇ。あ、大丈夫、三蔵には内緒にしといてあげますから」

『ご』かいだよ、八戒ィ〜。

「じゃ、ここで待っててくださいね。簡単なものしかできないと思いますけど、なるべく急ぎますから」

ぱたん、と閉じられた部屋のドアに向かって、悟空は片手を挙げた制止のポーズのまま固まっていた。
反論は最初の言葉に唇を形作っただけで発音することさえ叶わず、八戒は完全に誤解して去ってしまった。気がつけば、甘い香りは綺麗さっぱり消え去っている。香りの消失と共に、悟空もまた夢から醒めたような気分になった。
しばらくの呆然とした時間が過ぎれば、ふつふつと怒りが湧いてくる。

(ナンだよー‥‥、ちっとも効かねぇじゃん!)

それとも、八戒にとって自分はそういう対象ではなかったということだろうか。
不意に浮かんだ嫌な可能性を、頭をうち振ることで無理矢理追い出す。

(こんなもの!)

悟空は残りのキャンデーをポケットから掴み出すと、開いていた窓から放り投げた。そのままごろりとベッドに横になろうとして―――。

「てっ!?」

外から聞こえてきた間の抜けた声に、動きを止めた。
 

 

 

 

*****

 

「あ」

悟空が窓枠に手をかけて外を覗いてみれば、悟空の良く知る人物が暗闇の中佇んでいた。特徴的な紅い髪も、この暗がりでは黒髪に近く見える。だが、その気配は間違えようも無く彼のものだった。

「悟浄、どこ行くんだよ?」
「大人の事情。もうおせーからガキは寝てな」

案の定、聞き慣れた声で答えがあった。少々不機嫌だった悟空は、悟浄の物言いに咄嗟に噛み付く。

「誰がガキだっ!お前だってそんなに‥‥!」

し!と指を口に当てる仕草を返されて、慌てて悟空も口を閉じる。もうとっくに、騒いでも咎められない時刻は過ぎていた。

「知んねーぞ、三蔵に怒られても」

悟空は声のトーンを落とし、それでも精一杯の憎まれ口を叩く。

「けっ、誰がそんなんでビビるかよ」
「とか言って明日、泣くなよ〜?『えーん、さんぞーごめんなさーい』って」
「‥‥今度でっかく当てたら、お前にメシ奢ってやろうと思ってたんだけどなぁ」
「あーっ、今のナシ!ウソ!絶対当てろ!つか当たんなくても奢れよな!」
「エラソーに言うな。んなとこばっか三蔵に似てきやがって‥‥」

ひそひそとした声の応酬。くだらないやり取りだが、心が何となく落ち着いてきたのを感じていた。悟浄と馬鹿なことを言い合える時間が、悟空は好きだった。勿論、悟浄には絶対言わないけれど。

「で、なに?コレ、お前が俺にくれるわけ?」
「え?あ、うん、‥‥ま、まぁ」

思い出したように、悟浄が顔の前で何かを振った。暗がりでは判別できないが、それが先程自分が窓に向かって放り投げたキャンデーであることは容易に想像がつく。捨てたという真実を飲み込み、曖昧に頷いた。
曲がりなりにも食べ物を自分が捨てるという行為が、周りから見てどれほど奇異に映るのか、不本意ながら悟空は自覚していた。うっかり捨てたなどと言おうものなら、理由を突っ込まれるのは目に見えている。

「俺、今ちょっとイチゴって気分じゃないからさ。悟浄にやるよ」

苦しい言い訳だったが、悟浄はそれ以上追及してはこなかった。

「へー珍し。ま、遠慮なく貰っとくわ」

何故だか、悟浄の纏う空気が一瞬、優しいものに変わったようだった。かさりと音がしたと同時に、キャンデーが口に放り込まれる仕草が悟空にもおぼろげに見えた。

‥‥あ。

「じゃーな。1、2杯飲んだら戻るから、お前ももう寝ろよ」

軽く手を振って歩き出す黒い影に、悟空はおう、と返事した。先程、一瞬浮かんだ罪悪感のようなものは、形になる前に消え去っていた。

(ま、いーか。どうせ効かねーんだし)
 

そうして、静寂の空気があたりに戻った。
 

 

 

 

*****

 

「うっはよーっ!」

朝も早くから、悟空は元気一杯に食堂のドアを開けた。
夕べはあんなにも落ち込んでいたのに、今朝の様子からはそんなことは微塵も伺えない。
昨夜、簡単なものしか作れないと言っていた八戒は、結構に手の込んだ夜食を用意してくれた。大切な人が、自分だけのために用意してくれたおいしい食事。綺麗な笑顔に見守られながらかき込むと、勢い余ってむせてしまった自分の隣からすかさず差し出されるお茶。日常から照らしても、それは決して特別なことではないけれど。

これって、結構幸せじゃない?

(やっぱ、薬に頼るなんてのは、駄目だよなー。よし!今度はちゃんと告白するぞ!)

要は、考え方ひとつなのだ。ヘタに薬が効いて、目の前で三蔵やら悟浄の元に駆け出されたら、それこそ立ち直れない。いや、未だに昔の恋人のことを忘れられずという可能性も大いにありうる。

(あんな薬効かなくて、本当に良かったぁ〜)

見事なまでのプラス思考で自分の都合のいいように解釈する、どこまでも前向きな悟空であった。
 

そんなこんなで、すっかり昨日のことなど忘れ去り、幸せ気分で八戒に朝食のメニューを尋ねようと近付く。八戒は、悟空の姿を認めると優しい笑顔で挨拶をしたが、すぐに複雑な表情で視線を流した。つられるように彼の目線を追えば、部屋の片隅のテーブルについている最高僧の姿があった。
共に旅をする仲間でなく、例え通りすがりの小学生が見ても、彼が最高に不機嫌だということは察せられただろう。腕組みをして座る三蔵の周りには、それほどまでにおどろおどろしい淀んだ空気が漂っていた。

「‥‥どしたの?あれ」

八戒にだけ届く程度の声で、悟空が訊ねる。八戒は軽く息をついて、いかにも困った、という表情を見せた。

「悟浄がまだ帰ってないみたいなんですよ」
「え?」

急いで周りを見回してみたが、確かに悟浄の姿はない。

「部屋にもいないの?じゃ、散歩とか」
「‥‥‥ベッドに眠った形跡がないんですよ」
「え?けど」

――――1、2杯飲んだら戻るから

「‥‥え?え?」

ようやく、悟空は事態を飲み込んだ。

「出かけたのは気付いてましたけど‥‥。朝になっても戻らないなんて」

そんな馬鹿な。と悟空は思う。
悟浄がいくら遊び好きだといっても、出発に差し支える時間まで遊び歩いたことはない。特に三蔵と付き合いだしてからは息抜き程度の賭け事に興じるぐらいで、何だかんだと文句を言いつつ案外に早い時間に宿に戻る習慣が身に付いていた筈だ。

「おっかしいなぁ。だって夕べ出かけに話したけど、早く戻るって言ってたし。別に変わったこともなかっ‥‥‥‥」

突然悟空は固まった。

いや、あったじゃん。変わったコト。

何故だか嬉しそうな雰囲気を滲ませて、悟浄が口にしたイチゴ味のキャンデー。

(ま、まさかなー、ハハ)

心の中で、こっそりと乾いた笑いを零す悟空であった。
 

 

 

 

*****

 

いや、あの薬は効かないハズだから。全然カンケーないハズだから。

必死で否定するも、ぐるぐると頭の中で何かが回転し始める。

――――夕べ、悟浄は酒を飲みに行った。ええと、説明書にはなんと書いてあったっけ。そうそう、酒とか飲むときには食べるなとかなんとか。んで、もし一緒に食っちまったら、確か。
 

『不特定多数に対し、求愛行動をとってしまう』
 

ざーっと自分の顔から血の気が引いたのが分かった。

(まさかまさかまさかまさか)

酒場のおねーちゃんたちに片っ端から求愛行動とやらをとったんじゃ――――!

 

冷たい汗がダラダラと背中を伝っていった。

「悟空?どうかしました?」
「う、ううん、なんでもないよ」

翠の瞳が心配げに覗き込んでくるのに、咄嗟に頭を振ってしまう。突っ込まれるかと思ったが、八戒はそれ以上追求しなかった。すぐに難しい顔に戻り、悟浄の出かけた先を思案しているようだ。
深く追求されなかったことに安堵を感じ、ほ、と短く息をついたのも束の間。悟空はすぐに身体を強張らせる羽目になった。

悟空から見て左ナナメ45度。

かろうじて輪郭が判別できる視界ギリギリの位置から、痛いほどの視線が突き刺さってくる。悟空が動きを止めても、その視線は止まない。無言のまま、ひたすら悟空の頬をビリビリと刺し続ける。
ゴゴゴゴゴゴと効果音が聞こえるような錯覚。視線が誰のものであるかなど、考えるまでもなかった。
 

ああああ。見てる。
 

三蔵が俺を見てる〜!
 

 

悟空は、三蔵へ顔が向けられなかった。視界の端でおぼろげに霞む金色から、逃れたくて仕方がない。

「八戒」

静かな声に呼ばれ、目の前の八戒が声の主へと振り返る。

「宿の周りを見てきてくれ。あの馬鹿が、酔い潰れて眠りこけてないとも限らん」

頷く八戒に、三蔵がそれから、と付け足した。

「ここにもう一泊する。宿にそう伝えておけ」

確かに八戒と会話しているにも関わらず、一瞬たりとも自分から外されない視線に、悟空は滝のような涙を心に流す。

八戒が食堂を出て行っても、悟空は微動だにできないままだった。

「さて、と」

やがて完全に八戒の気配が消え去ると、三蔵が袂から煙草を取り出すのが気配で感じられた。

「説明してもらおうか、悟空?」
 

 

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