Give and Take(9)

『母親は死んだ』

どうして‥?戻ってきてよ、かあさん。俺のこと嫌いでも、殴ってもいいから。
 

『忘れたままでいいのか?』

このひとは、なにを言ってるんだろ?憶えてるよ、母さんのことならなんだって。
 

『母親に愛されてたかもな』 

俺が――母さんに?そんなこと、あるわけないだろ。

 

 

けど‥‥‥けど。もしかしたら。

母さんが‥‥‥俺のことを‥‥‥ひょっとしたら‥‥‥。

本当なの、母さん?俺を見てくれた?本当に、俺のこと愛してくれたの――――。

 

 

ダッタラ、オモイダシタイ。

 

 

 

 

 

 

 

「‥‥ア‥‥‥‥」

悟浄の顔が、不意に苦しげに歪んだ。頭を抱え込み、ベッドの上でうずくまる。三蔵の心に、ほの昏い歓喜が湧き上がった。遂に、頭痛が始まったのだ。

「‥いた‥‥い‥!‥‥った‥!」

ゴロゴロと転がりながら激痛を訴える。思い出したいと悟浄が願っている証拠だ。妖怪の術の、急所を突く最大の武器。
だが、このままではただの頭痛に過ぎない。この頭痛の意味を正確に理解し、妖怪の術に対抗しようとする確固たる意思が働けば効果も現れるかもしれないが、幼い精神状態の悟浄にそれを望むのは無理というものだ。痛みから逃れようとするだけでは、術には勝てない。
三蔵の手がゆっくりと上がり、悟浄の頭上に翳される。
 

一方、悟浄には自分に何が起こっているのか全く理解できていなかった。

「い‥‥った‥‥!いた‥‥いいいいっ!」

突然の頭が割れるような痛み。反射的に助けを求めようと見上げた先では、白い法衣に身を包んだあの僧侶が平然と自分を見下ろしている。ひっきりなしに何かを呟いているようだが、何を言っているのかは聞き取れない。ただその表情がひどく冷たいものに悟浄には感じられた。
その間にも、激しさを増すばかりの頭痛に思考を奪われる。

「い、い‥‥!‥‥‥‥!!っ‥‥‥!」

声も出せない程の激痛から何とか逃れようと、悟浄は身を起こそうとして―――出来なかった。身体が動かせない事実に背筋が凍る。
悟浄に無闇に恐怖心を与えるからと、どんなに暴れられても決して束縛しなかった手足。その禁を破り、三蔵が術により悟浄の体の自由を奪っているのだ。

―――――怖い。

恐怖が、悟浄の足先から頭の先まで一気に駆け上がった。
唐突に自由を奪われ、激しい痛みに襲われて。何が起こっているのか、理解できる筈もない。

「助け‥‥て、か‥‥さん‥‥!助‥‥け‥‥」

あまりの痛みに、ふっと、意識が遠のくのを感じた。これで、楽になれる―――と思った瞬間、何かの力に引き摺り戻されたような、不快な感覚。

「いっ!?」

同時にぶり返した痛みに、再び意識を無理やり揺さぶり起こされる。僧侶の手が自分の頭に翳されているのに気が付き身が凍った。この頭痛に、僧侶が関係しているのだと悟る。だが、すぐに思考が吹き飛ぶほどの猛烈な痛みに襲われ、耐えかねて気を失いかけると、また覚醒させられて激痛に晒される。延々とその繰り返し。

―――――殺される!

悔しさで、目の端に捉えた金色の髪が涙で滲んだ。
何故この男が自分を殺そうとしているのかは分からない。でもどうせきっと気に入らないのだ、この紅い色が。こんな綺麗な金の髪を持っている奴だから。
自分を見下ろす紫の瞳。僧侶は、瞳の色も美しかった。何故だか懐かしいような気がして、悟浄は混乱する。その間にも頭痛は激しさを増すばかりだ。

―――――助けて!助けて!助けて!

痛みと、母親を思い出したいと願う気持ちと、何かおぼろげに浮かぶ大切なものと、色々な感覚がごちゃ混ぜになって、悟浄は悶絶した。
脂汗が額を伝う。
僅かに残る思考が、痛みで掻き消されていく。それでも意識を手放すことさえ許されない。

まるで苦痛にまみれて死ねと言われているようで。
それが生まれてきた罰だと言われているようで。

「‥‥かぁさ‥‥」

浮かぶのは、たったひとりの大切なひと。愛されたくて笑って欲しくて、結局は悲しい顔しか思い出せない寂しい女性。俺のせいだ。何もかも。
もし自分がいなければ。もっと早く、死んでいれば。あの人は、きっと―――。

『ごめんなさい、母さん‥‥』

痛みのためではない涙が、溢れだした。

 

 

 

 

霞かかった思考の中、三蔵は頭痛に顔を歪ませて悶え苦しむ悟浄の顔をぼんやりと眺めていた。

――――何故、悟浄はこんなに泣いている?

 

悟浄の身体の自由を奪うための真言を唱え続ける。気絶しようとすると、精神を揺さぶり無理やり意識を留めさせた。
術に反発させるという力加減が微妙なため、新たに頭痛を起こすことこそ困難だが、三蔵の法力をもってすれば、一旦起こった頭痛を維持させることはできる。躊躇いは、なかった。

眼下の悟浄の顔は土気色だった。
既に声を出せる状態ではないのだろう、悲鳴どころか、呼吸さえも切れ切れとなり、身体が痙攣し始めている。そんな状態でも、意識は失っていない筈だった。三蔵が、それを許してはいないのだから。

ようやく辿りついた、悟浄の記憶の扉を開く『鍵』。
今の悟浄にとって、唯一にして絶対の存在である人物。

――――何故それが、俺ではない?

三蔵の心を、漆黒の霧に似た何かが覆う。そこまで悟浄が執着する人物への、醜い感情。

悟浄が、何か言葉らしきものを口にした。呪詛だったのか、哀願だったのか、確かに三蔵の耳には届いていた筈なのに、意味を成す言葉として三蔵は認識できなかった。ただ、冷えた目で悟浄を見下ろし続ける。

また痛みが激しくなったようだが構いはしない、全ては悟浄を取り戻すためなのだから。そう、例え失敗したとしても、悟浄がこの手に戻らないのなら、いっそ―――。

 

はた、と三蔵は我に返った。

 

――――俺は、今何を考えた?

 

結果的に悟浄が壊れても、命を失っても。自分を忘れたままで生きられるよりは余程マシだと?

 

急激に三蔵の頭が冷える。
ぼやけていた周囲に焦点が合ってきたかのように、視界が鮮明になった。
真っ先に飛び込んできたのは、悟浄の蒼白な顔だった。白目を剥き、口元から泡を吹き、身体を痙攣させる、ぞっとするような姿だった。
三蔵は、思わず身震いした。
与えられる痛みにひたすら苦悶を味わい続ける想い人の限界は、もう間もなく訪れる。間違いなく、じきに悟浄は苦しみから解放されるのだ。
例えそれが、どんな形であったとしても。
 

――――それが、俺の望みなのか?
 

その時、ようやく三蔵の脳細胞に、先ほど悟浄が呟いた言葉が到達した。

『ごめ‥‥なさ‥‥』

呪詛ではなく。
哀願でもなく。
悲しみに溢れた子供の声が、三蔵の耳に、胸に、突き刺さる。

絶え間なく真言を唱えていた三蔵の唇の動きが、止まった。
 

 

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この三蔵様。私が今まで書いてきた中で一番情けない気がします。いや、一番普通の人間らしいのかな。

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