Give and Take(10)

「よかった、目ェ覚めた」
「‥‥悟空‥‥?」

突然視界に入ってきたのは、見慣れた金色の瞳だった。
状況が把握できず、周りを見回してようやく三蔵は自分が宿の寝台に横たわっていることを知った。身体を起こしかけ、突如走った胸の痛みに身体を抱え込む。自分の身に何が起こったのかと、三蔵は眉根を寄せた。

「肋骨にヒビが入ってるって。動かない方がいいよ」

淡々と告げる悟空の台詞に、記憶を揺り起こされる。
のた打ち回って苦しんでいた悟浄の姿を。痛みに呻いて、涙を流して、必死に助けを求めた幼い子供の姿を、三蔵は鮮明に思い出していた。

「‥‥よく、生きてたもんだな」
「そーだよ、悟浄に思いっ切り突き飛ばされて、その程度で済んだんだもんな」

確かにその通りだと思う。

『ごめ‥‥なさ‥‥』

涙を溢れさせて、謝罪を口にした悟浄。あの状況で、誰に、一体何を謝っていたというのだろう。三蔵の胸が、つきりと痛む。
悟浄の抱き続ける母親への思慕を利用して、強引に妖怪の術に抗わせた。例え、悟浄を苦しませる事になっても、それしか方法がなかったのだ。
だが、それが言い訳に過ぎないことは当の三蔵本人が一番よく分かっていた。
抑え切れなかった焦燥から、悟浄の頭痛を誘導し、脅える子供の身体の自由を奪った。痛みから逃れようと気絶することも許さず追い詰めた。

あんなに苦しませて。
あんなに泣かせて。
あんなに―――傷つけた。

ただ、悟浄を取り戻したいという一念で。再び自分の腕に抱きしめたいという欲望だけで。

悟浄のためではなく、ただ自分のためだけに。

それに気付いたとき、術を続けることが出来なくなった。無意識に、全ての術を解いていた。悟浄の手足を束縛していた術までも。
腹部と背中に衝撃を感じ、意識が遠のくのを他人事のように見守ったのは、その直後のことだった。身体の自由を取り戻した悟浄に、何の斟酌もなく思い切り突き飛ばされたのだ。
今まで悟浄は、どんなに手酷い喧嘩をした時でも、三蔵に本気で手をあげることはなかった。それは三蔵が普段から感じていたことだったが、悟浄には自覚はなかった筈だ。妖怪と人間の力の差を恐れたというだけでなく、三蔵への想いが無意識に力を抑えていたというべきなのか。
初めて三蔵は、悟浄の「力」をその身に受けたことになる。
背中を壁に手酷く打ちつけたところまでは、うっすらとだが憶えていた。

「‥‥‥悟浄はどうした?」
「大丈夫、ちゃんと部屋にいるよ。八戒もついてるし、麗華ねーちゃんもいてくれてるし」

咄嗟に浮かんだのは、自分を気絶させてから悟浄が逃げ出したのではないかという懸念。だが、悟空の返事に取りあえずは安堵のため息を漏らした。

「記憶は、戻ったか?」
「‥‥‥」

悟空が、黙って首を横に振る。
そうか、と三蔵は短く呟いた。他に、何を言えばいいのか分からなかった。自分は失敗を犯したのだ。取り返しの付かない失敗を。
ただひとつの救いが、悟浄が翌日には三蔵の仕打ちを忘れてくれるという事実だけだというのが、皮肉だった。

「―――あ、けど、同じじゃないんだよ!」

慌てたように付け足された悟空の言葉に、三蔵は怪訝な表情を向ける。

「気づいてねーだろーけど、三蔵、もう二日間も眠りっぱなしだったんだぜ。けど、悟浄の記憶は二日前からそのままあるんだよ。ガキに戻ってくのが止まったんだよ!」
「それを早く言え、馬鹿!」

告げられた事実に、焦ってベッドを降りようとした三蔵は、胸の痛みに顔を顰める。だがこの程度は痛みのうちに入らない。自分は悟浄に、もっと残酷な痛みを与えたのだから。衝撃で記憶の後退が止まるほどの痛みを―――。

何とか痛みを堪え立ち上がりかけたところで、三蔵の動きが停止した。

 

―――憶えている?
 

母親を想う悟浄の心を利用した自分を。
死ぬほどの痛みを容赦なく与えた自分を。

全てを、悟浄が憶えている?

 

がんがんとした耳鳴りを感じて、三蔵は頭を抑え呻く。まさか自分がこんなに動揺することがあるとは、と思うほど心拍数が上がっていた。
その場から一歩も動こうとしない三蔵を、躊躇いがちな声が呼ぶ。

「三蔵、悟浄のお袋さんが死んだ事、話したんだろ?」
「‥‥ああ」

自分がした事を隠すつもりは毛頭ないが、真実を全て語るには時間が惜しく、三蔵はひとつ頷くに留めた。

「『まさか母さんがそんな風に死ぬなんて』」
「悟空?」

いきなり、悟空がひとつのフレーズを口にする。台本を棒読みするような口調だった。
三蔵の眉根が顰められる。胸の奥で、何かがざわめいた。嫌な予感がこみ上げる。

「悟浄が言ってた。それで三蔵が話したんだと思って、俺」
「‥‥悟浄が?」

三蔵の中で、ぞわりとした何かが風船のように急激に膨れ上がっていく。
悟浄には母親の死は告げたが、それがどんな様子だったのかは話していない。悟浄に真実を告げ、思い出したいという欲求にブレーキがかかることを懸念したからだが、その口ぶりでは悟浄はまるで母親の死の様子を知っているかのようではないか。
そこまで考えて、三蔵ははっとした。

まさか。
まさか、悟浄は。

「それで――お前は?」
「とにかく悟浄を慰めないと、って思って」
「‥‥話したのか」

こくりと頷く悟空に、世界が揺らぐほどの衝撃を感じる。
やられた、と思った。
こんなところは昔から長けていたらしい。悟空にかまをかけて、悟浄は母親の死の真相を聞きだしたのだ。三蔵の言葉の真偽を、確かめるために。
かさかさに乾ききった唇が、開こうとするたびに引き攣れた痛みを三蔵にもたらした。

「で、悟浄は‥‥何と?」
「『やっぱりな』って‥‥笑ってた。壊れた玩具みたいに、ずっと‥‥。三蔵、悟浄にちゃんと話したんじゃないのかよ?なんか俺、悟浄にマズい事‥‥‥‥」

自分のせいで悟浄を傷付けたと思い込んでいる悟空が、泣き出しそうに顔を歪める。そうではない。本当に糾弾されるべきは――――三蔵自身だった。
くしゃり、と悟空の髪を掻き回す。

「お前のせいじゃない。悪いのは、俺だ」

悟空が顔を上げ、まっすぐに三蔵を見詰めてくる。こんな時でも、真正面から目を合わせる悟空の真摯さが、今の三蔵には何よりも痛い。

「俺が‥‥。悟浄を、壊したんだ」

ただ、取り戻したいと。
なりふり構わず願った罪の重さを思い知るのは、これからだった。
 

 

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出口の見えない迷路。

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