Give and Take(8)
それからの悟浄の、記憶の後退は早かった。 眠るごとに、転寝するごとに。 思い出を失い、子供へとかえっていく。
『誰だよ、アンタたち』 朝を迎えるごとに、繰り返される光景。 『俺に触るな!』 徐々に強くなっていく拒絶。 『―――アンタらなんか、信じない』 慣れることのない悲しみと、深くなる胸の痛み。
いくら悟浄に事態を説明しても、翌日には忘れているどころか記憶が後退している。それでも、最初は必死に状況を理解しようとする姿勢が悟浄にも垣間見えた。 「三蔵、どうするんですか―――」 悟浄が妖怪にやられた傷を悪化させる度に治療する八戒の顔にも憔悴の色が濃い。この数日で、皆が疲労困憊していた。だが三蔵とて、その間黙って手をこまねいていた訳ではない。 悟浄の記憶を取り戻すために。 とにかく自身の記憶を取り戻したいという強い意思が、術に反発を起こさせるのであるならば。悟浄が拘り、思い出したいと思う筈の『何か』を見つければいい。悟浄が執着しそうなありとあらゆるものに関し、容赦なく悟浄に突きつけた。 心の傷に触れられる度、悟浄は顔を歪めて三人を睨みつけ、それでも涙も見せず唇を噛み締めて黙り込んだ。だが、やはり頭痛は起こさない。どうしても記憶を呼び起こす『鍵』が見つからない――――――。 三蔵の胸の奥で、焦燥だけが日々膨張していく。 「離せよっ、家に帰んだから!母さんと兄貴がいんだよっ!」 はっとして三蔵はその思考を頭から叩き出した。目の前では、もうすっかり見慣れてしまった、もがく悟浄を押さえつける八戒と悟空と、必死で悟浄を宥める麗華の姿がある。 気が付けば悟浄の記憶は、既に母の死の前にまで遡っていた。
「――――部屋を出ろ」 殆ど無意識に、三蔵はふらりと足を踏み出していた。 「え?」 怪訝な顔の悟空を尻目に、三蔵の視線は悟浄に据えられたままだ。 「しばらく、二人にさせてくれ」 いつになく勢いの無い三蔵の言葉に顔を向け、八戒は息を呑んだ。いつもと同じ、だが全く別物の無表情。いっそ虚ろと言っても過言ではない瞳の色が、却って抗い難い迫力をかもし出している。ごくりと息を呑みつつも、八戒も悟空も頷くしか術はなかった。 「な、ナンだよ‥‥」 子供の精神ながら三蔵の迫力は十二分に伝わるのか、悟浄は狭いベッドの上で後ずさった。それでも三蔵を睨む視線を逸らさないのは、やはり悟浄らしいというべきか。 「母親に会いたいのか」 三蔵は無表情のまま口を開いた。何の感情も込められていない、無機質な声で。 「どうせ家に戻っても、殴られるだけだろう。それでもか」 初めて悟浄は、三蔵からふいと目を逸らせた。言い返したくとも、事実であるために言い返せない。そんな悔しさを滲ませる横顔。 「――――お前の母親は、死んだ」 自分が何をしているのか。何をしようとしているのか。
「‥‥いきなり何言ってんの、アンタ」 唐突な切り出しに、身構えていた悟浄も呆気に取られたようだ。 「お前は母親の最期を看取ってる。‥‥もう10年以上前の話だ。鏡を見てみるんだな」 正確に言えば看取るという表現は当てはまらないだろう。だが、それこそが三蔵の最後の賭けだった。 三蔵が突き付けた手鏡から、悟浄が目を逸らす。首根を押さえつけて無理やり顔を向けさせると、今度は目を硬く瞑って抵抗した。 「10年経てば人だって死ぬ。‥‥これが現実だ、目を開けろ」 悟浄に振り払われた手鏡が三蔵の手から跳ね飛ばされ、壁に叩き付けられた。鏡面が粉々に砕け散る。 「嘘だ嘘だ嘘だ!信じねぇよ、そんなこと!」 目の前には、耳を塞ぎ必死になってかぶりを振る幼い子供。その度に紅い髪が三蔵の鼻先を掠めていく。 「嘘じゃねぇ。本当はお前にだって分かってる筈だ。んなデカい体になっちまってんだからな」 悟浄がぴたりと動きを止める。 「‥‥夢、じゃねぇの‥‥こんなの」 どのくらいの時を過ごしたのか。近くにいる三蔵にさえようやく届く程の、小さな小さな声が聞こえた。 「残念だがな」 三蔵の答えに、悟浄は見詰めていた手をぎゅっと握り締める。やがて、徐々に大きくなる肩の震えを押さえ込もうとするかのように、自らを抱きしめた。 「‥‥かあ‥‥さ‥‥‥。‥か‥‥さ‥ん‥」 俯いて。痕が付くほどに自らの爪を腕に食い込ませて。 きつく自分を抱きしめたまま、きれぎれに嗚咽を漏らし続ける悟浄。虚勢も意地も掻き消えた年相応の幼い姿を、三蔵は感情を読み取らせない表情で見下ろしていた。 「‥‥か‥‥さん‥ど‥‥して?‥‥びょうき‥?‥」 もしこの場に八戒がいたら。悟空がいたら。自分を止めるのだろうか。止めてくれるのだろうか。それとも。 まるで自らの迷いを共に吐き出すかのように、三蔵は目を瞑り、短く息をついた。そして再び紫暗が現れたときが、三蔵が自らの中に残る最後の理性を、心の闇に沈めた瞬間だった。 三蔵は少し身を屈め、未だ震える耳元に、ゆっくりと言葉を吹き込んだ。
「母親の最期を、忘れたままでいいのか?」 瞬間、強張った身体を抱きしめたい衝動に駆られたが、必死で押さえ付けた。 「お前が忘れてる『母親が死ぬまでの間』に、母親がお前に優しくなってる可能性もあるんじゃねぇか?」 例えこの身が地獄の業火に焼き尽くされようとも構いはしない。 「もしかしたら―――、死の間際にお前を抱きしめてくれたかもな」 目を見開いたまま、呼吸も忘れたかのように微動だにしない悟浄の耳に、もう一度唇を寄せる。精一杯に優しげな声で、囁いた。 「母親に愛されてた自分を、思い出したくねぇか?」 たったひとつの大切なものを、この手に取り戻すためならば。
魂のひとつやふたつ、悪魔にだって売ってやるさ。
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三蔵様、ついにキレてしまいました。非道い…。