Give and Take(30)

明けない夜はないと、誰が言ったのだろう。
神を信じるかと問われれば、否、と答える。
少なくとも、祈っただけで願いを叶えてくれる神など存在しない。
だが、それを知っていても尚。
人は、何かに祈らずにはいられないときがある――――。

 

 

 

 

誰もが固唾を呑んで見守る中、彼の瞼は薄く開かれた。
深紅が頼りなげに揺らめいて、二、三度ゆっくりと瞬く。どこか朦朧とした視線が宙を泳ぎ、とある一点で視線が定まって。
 

「さ‥ぞ‥‥‥?」
 

それは、微かな声だった。

ベッドの脇で付き添う三蔵の、強張り続けていた肩から明らかに力が抜けたのを、背後から黙って見守っていた八戒、悟空、そして麗華は確かに見届けた。

 

 

 

 

悟浄が三蔵の腕の中で意識を失ってから、既に三日が経過していた。
脈拍、呼吸とも正常な中、意識だけが戻らない。三蔵をはじめ、全員が祈りながら悟浄の覚醒を待ち続けた。ただ待つしかなかった。
もしかしたら、もう悟浄は目覚めないのかもしれない。例え目覚めても、悟浄としての意識を保っているのかどうかは誰にもわからない。それでも、ひたすら待ち続けるしかなかった。待つことを止めれば、その時点で悟浄の目覚めの可能性を自らの手で断ち切ってしまうような、そんな気がしていたのかもしれない。
いつ結果が判明するのかも定かではないのに待ち続けなければならない。それは、耐え難い恐怖の時間でもあった。だが、三蔵は弱音を漏らさなかった。昏睡を続ける悟浄の側に、黙って寄り添い続けた。

 

 

そして今ようやく。
待ち人は覚醒し、その瞳で三蔵の姿を捉え、確かにその声で三蔵の名を呼んだ。悟浄が記憶を失ってから初めて紡がれた己の名前に、三蔵の細胞が歓喜に震える。
それは、あの老妖怪の忌まわしい術から、三蔵一行が完全に解き放たれた瞬間でもあった。命を落とすことなく、自己を失うこともなく、悟浄は術を打ち破り戻ってきたのだ。

「あ‥、れ?オマエ、法衣着てる‥‥‥?」

不思議そうに、眇められる眉。
未だ寝ぼけているのか、悟浄はぼんやりとした眼差しを三蔵に向けている。僅かに寝乱れた悟浄の前髪を、三蔵はそっとかきあげてやった。

その優しい仕草に、悟浄の瞳が見開かれる。

「‥‥あ‥、もしかして、妖怪、退治‥‥したのか‥?」
「妖怪?悟浄、妖怪はお前が―――」

思わず三蔵の背後から声を出した悟空を、シッ、と八戒が窘める。

どうやら悟浄の記憶は、かなり混乱しているらしかった。三蔵の記憶が失われたことは覚えているようだが、妖怪を倒した辺りが既に曖昧なところをみると、この分では自分の身に降りかかった出来事は覚えていないのかもしれない。
だが、それは瑣末なことだった。少なくとも三蔵にとっては。

「そか、オマエ‥‥、記憶、戻ったんだ‥‥!」

悟浄の顔に、抑えきれないといった笑みが弾けた。悟空や、かつて生活を共にしていた八戒ですら見たことのない無垢な笑顔だった。人はきっと、無くしてしまった大切なものを取り戻したとき、こんな顔をするのだろう。自分でも気付かないうちに。

悟浄が手を伸ばして首に齧り付いてくるのを、三蔵は身を屈めて迎え入れる。勿論、きつく抱きしめ返すことも忘れずに。

長かった。
ようやくこの手に戻ってきた。
ずっと待ち望んでいた、悟浄の、悟浄自身の温もり。

「よか‥‥った‥‥‥。なんか俺‥スッゲ、怖ぇ夢、見てて‥」

術の名残か悟浄の言葉も仕草も、どこか幼い。
記憶を失っていた頃は逆に背伸びをし、無理に大人のように振舞おうとしていた悟浄の姿を思い出し、三蔵の心に安堵とも感傷ともつかぬものが込み上げる。
当の悟浄は、未だ繋がらない記憶に戸惑っているようで、しきりに首を傾げていた。

「オマエ‥‥に、言おうと、思ったコト‥‥が‥‥あったのに。あれ‥?何だっけ‥‥‥?」
「焦らなくていい‥‥。時間はあるさ。これから、ずっと―――」

宥めるように悟浄の耳元で囁いて、もう少し休めと悟浄の身体を静かにベッドへと下ろす。
三蔵の首に回されていた腕の力が緩み、合わせるように身体を起こしかけた三蔵の動きは、再び僅かに込められた力によって遮られた。
紅い瞳が三蔵の顔を覗き込むように近付けられている。
悟浄は三蔵の顔をじっと見つめて、首から滑らせた左手の指先でそっと三蔵の頬を撫ぜた。

「お前‥‥どした‥‥?」

三蔵はそこで初めて、自分の頬を濡らすものの存在を知った。

「どした‥‥?」

繰り返す悟浄の表情には、揶揄など欠片もない。
悟浄はどうして三蔵が涙するのか純粋に不思議でならないらしく、指で三蔵の頬をごしごしと拭い続けている。やはり幼い仕草だったが、悟浄の乱暴ではない指先の動きは間違いなく三蔵を愛しいものとして認識していた。

微かに笑む三蔵に、悟浄は怪訝そうに首を傾げる。
三蔵は悟浄の指を押さえ、自分の頬に手を重ねた。自覚した涙を隠そうとは思わなかった。間近に悟浄の紅い瞳がある。何よりも取り戻したいと願った悟浄がここにいる。

「俺も、夢を見ててな‥」

鼻先が触れる距離で、囁く。

「‥‥お前も?」
「ああ‥‥。だが終わった」
 

三蔵は重ねた手に力を込めた。全ての想いを、指先に込めて。

 

「悪い夢は、終わったんだ」

 

 

悟浄はきょとんとした表情でしばらく三蔵の顔を見ていたが、何を感じとったのかにこりと笑って再び三蔵に抱きついてきた。
 

おかえり―――
 

耳元で囁かれた言葉に、苦笑が漏れる。

「こっちの台詞だ、馬鹿‥‥」

小さく零して、紅い髪に顔を埋めた。
 

 

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久しぶりに三蔵様を泣かせてしまいましたが。(八戒兄さんも悟空君も麗華ちゃんも見てる前で;;)
あんだけ揉めたんだから、感激もひとしおだろうということでご容赦を。
ホント、長かったなぁ…。

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