Give and Take(3)

「話は終わったのかよ?何かお前ら感じ悪ィぞ、俺に隠れてコソコソと」

三蔵が隣の部屋の扉を開くと、不満に満ちた声と共に、キツい香りと濁った空気が漂ってきた。三蔵は無言で窓を開けるとベッドに寝そべる悟浄につかつかと近付き、咥えた煙草を取り上げる。

「吸うな、と言っておいた筈だが?」
「だぁって悟浄、サミしい〜。仲間外れなんだも〜ん」

わざとらしく、よよ、と泣き真似る頭に一発くれると、三蔵は取り上げた煙草をひと口吸い、すぐ側に置かれてある吸殻が山と積まれた灰皿に押し付けた。
ふと、頬に痛いほどの視線。顔を上げれば、悟浄が顔を真っ赤にして固まっていた。

「‥‥何だ?」

この問いかけの迂闊さに気付かなかったのは、認めなくなかったからだろうか。今の悟浄がどんな状態であるか、考えたくなかったからだろうか。

「‥‥‥あ、ちょっと意外っつーか‥‥。潔癖症のオマエが他人の吸いさしなんか‥‥」

息を呑む以外、三蔵に何が出来るというのか。

一片の容赦も無く突きつけられた現実。
そうだった。
今の悟浄の記憶は、旅に出る前の所で終わっている―――。三蔵と悟浄が結ばれたのは、旅に出た後の事だ。

覚えていないのだ。

やりきれない想いをぶつけ合い、ようやく互いに伸ばした手の温もりも。
人目の中、口付けの代わりに互いの煙草をもぎ取って熱を誤魔化した、昼下がりの町も。
八戒たちに気付かれないようにと必死で声を殺した、野宿の夜も。

何ひとつ、悟浄の中には残っていないのだ。
 

瞬間、悟浄に縋って泣き叫びたい衝動が三蔵を襲う。それを堪えるのに精一杯で、危うく悟浄の呟きを聞き漏らすところだった。

「年月が人を変えるって、マジでアリなんだな‥‥」

頭の中を素通りしそうな悟浄の言葉を必死で捕らえ、三蔵は更に愕然となった。
 

「―――聞いて、たのか」

僅かに口元を引き上げる肯定の仕草を、三蔵は呆然と見つめる。説明の手間が省けてよかったなどと笑う余裕などは欠片もありはしない。

「あんなに喚いてりゃ、壁越しにだって嫌でも聞こえますって。それにな、三蔵サマ。そこにカレンダーあるの知ってた?」

悪戯っぽく片目を瞑ると、紅い髪がさらりと揺れた。
指差された棚の上には、しっかりと今年の卓上カレンダー。この宿に着いてから何度も目にしていた筈なのに、三蔵たちにとっては何の疑問ももたらす存在ではなかったのだ。

「一体何の冗談かと思ったけど、よ」

くくく、と可笑しそうに目を細め、性懲りも無くベッドサイドに置かれた煙草に手を伸ばす。今度はそれを咎める事も出来ず、三蔵は固まったままだった。
自分に欠けた年月が存在すると気付かされたばかりだというのに、不思議と悟浄の様子には混乱はない。それが、却って三蔵に焦燥をもたらした。ぞわりとした既視感が三蔵の脳内で警鐘を響かせる。

「三年かぁ。どーんなカンジだったのかねぇ」
「‥‥聞きたいか?」

喉の奥から無理矢理に絞り出した声。
返事をしたというよりは、理性を保つために。
耳鳴りのように間断なく襲う絶望の渦に巻き込まれないように。

「んー。でもどうせすぐに忘れちまうんだろ?イイんじゃない?」

楽になれるから。

言外に悟浄の言いたい事を察知して、三蔵の脳内の糸がぶつりと音を立てて切れた。
悟浄が抱えている三蔵への想い。
旅に出るまで気付いてやれなかった、また自らの気持ちにすら気付こうともしなかった三蔵は、膨れ上がる感情が何なのか考えもしないまま、悟浄にキツく当り散らした。

『ったく、しゃーねーな、この我侭坊主はぁ!』
『三蔵様ったら、今日アノ日?』

時には怒った素振りで、時には軽薄に笑って。
決して想いを告げないという決意を自らに課し、諦めと嘲笑に口元を歪めていた悟浄。三蔵に嫌われていると思い込み、それでも側に居続けてくれた。どんなに罵られてもキツく当たられても、ふざけた口調で混ぜ返し、笑い続けていた。
辛かったのだ。本当は、悟浄はこんなにも辛かったのだ。忘れた方が幸せだと思えるほどに。
ふつふつと怒りが湧いてくる。それは悟浄に向けられたものではなく、不甲斐ない過去の自分に対してのものだった。

二度と、あんな想いを悟浄には味あわせない。同じ過ちは犯さない。

「‥‥許すかよ」

再び悟浄の口から煙草を取り上げると、今度は思い切り不満気な顔で悟浄が睨んでくる。

「んだよ別にいいだろ、煙草ぐれぇ」

三蔵の言葉を、煙草を咎められたものと思った悟浄が顔を顰めて喚き立てるのを、突き飛ばすような勢いでベッドに縫い付けた。衝撃が傷に響いたのだろう、小さな呻き声を上げた後、文句を言おうと口を中途半端に開きかけたまま悟浄は固まった。
無理もない。三蔵の顔が触れるほどに近くにあったのだから。

「テメェだけ楽になろうなんざ、許さねぇ」
「はい?オマエ、何言って‥‥」

自らの赤い顔に気付いているのかいないのか。この期に及んで平静さを取り繕うとする悟浄の唇に、三蔵は自らの唇で軽く触れた。
僅かに掠っただけの接触。だが、悟浄の頭を真っ白にするには十二分すぎるほどの衝撃だったようだ。

「‥‥‥‥な‥‥で‥‥?‥‥」

陸に打ち上げられた魚のように、ぱくぱくと口を開け閉めする間抜けた顔は、少しも変わっていないのに。

「この三年間に、何があったのか教えてやるよ」

三蔵の手が、ある明確な意図をもって内股を撫で上げると、悟浄が小さく息をつめたのが伝わってくる。構わず、三蔵は悟浄の耳元に唇を寄せた。

「お前と俺は‥‥。そういう仲、になった」
「!?」

衝撃を通り越した、驚愕の光が紅い瞳に宿る。だが、それも一瞬のことで、悟浄はすぐにどこか自嘲的とも取れる、翳りのある笑みを口元に上らせた。不審げに眉を寄せた三蔵から、僅かに視線を逸らす。

「ああ‥‥俺、‥。三蔵様の便所だったって事?‥‥‥がっ!?」

鳩尾を押さえて呻く悟浄の顎を掴み、無理やり自分の方を向かせる。よく頭を殴らなかったものだと、三蔵は自分を褒めてやりたい気分だった。この空っぽの脳みそに下手に刺激を与えれば、悟浄がこれ以上何を言い出すのか知れたものではない。

俺を何だと思ってるんだ。誰が好き好んでてめぇみてぇなクソ河童を便所代わりに使うってんだ。鏡見て物を言え、馬鹿。

だが、三蔵の口から出たのは、今しがた浮かんだ台詞とは全く別のものだった。しかも、情けない程に震えた小さな声で。

「‥‥‥くだらねぇこと‥‥抜かすんじゃねぇよ‥‥‥」

驚いたのは悟浄だったらしい。目をぱちくりとさせながら、三蔵の顔を見つめている。今、自分がどんな顔をしているのか、三蔵には分からなかった。八戒がこの場にいれば、迷子になった子供のような顔をしていると指摘してくれただろうが。
自分が悟浄に向けてきた想いの全てを忘れられてしまったという衝撃は、想像を遥かに超えて三蔵を打ちのめしていた。
今まで見たことのない弱々しい三蔵の様子に、悟浄は殴られたことも忘れうろたえている。三蔵が黙り込んでしまったために、部屋は異様な静けさに覆われていた。
だが、気まずい雰囲気が苦手なのは昔から変わらないらしく、悟浄はこの場を茶化して逃げる事にしたようだ。

「まっさか、気持ち入ってるー、とか言っちゃう?」

なーんつって。と笑う顔の痛々しさに、今なら気付ける。
さり気なく三蔵を押しのけようとする悟浄の手を再び押さえ込み、三蔵は答える代わりに、悟浄に口付けた。悟浄は大きく身体を震わせたが、撥ね退けられる気配はない。抵抗がないのを確認しつつ、三蔵はゆっくりと重なりを深くしていった。遊びには必要のない、ましてや性欲処理では有り得ない、労わりに満ちた甘い口付け。

伝えたい、と。
伝わって欲しい、と。

ありったけの慈しみと溢れんばかりの想いを舌先に乗せて、悟浄の口中に塗りこめる。途中、息苦しさに悟浄が喘いだが、三蔵は中々悟浄の唇を解放しようとはしなかった。口は言葉を紡ぐ為だけのものではない。時には一度の口付けが、百の言葉よりも雄弁に語ることがある。
名残惜しげに唇を離すと、悟浄のせわしない呼吸が甘さを含んで三蔵の頬をくすぐった。

「‥‥マジ?」
「んな嘘ついてどうする」

どうやら三蔵の目論見は成功したようだ。とろんと潤んだ目で見上げてくる紅い瞳。これを失うことなど、考えられない。

「俺と‥‥お前が?」
「くどい」
「ウッソー‥‥」

もう一度、悟浄の身体を引き寄せる。
悟浄はやはり、抵抗しなかった。
 

 

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うちの設定では、旅に出てから二人はくっつきます。
それまでは三蔵様は悟浄さんへの気持ちに気がつかずに冷たく当たっていたニブちん、という事に…。

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