Give and Take(2)

「やられたな」

三蔵の第一声は、まさに苦虫を噛み潰したようなと表現するに相応しい顔から吐き出された。

「あの妖怪の『捻じる』能力は、常にひとつしか使えなかったんだ。だから俺への術が解けた――――くそっ、迂闊だったな」

ここは、悟浄が休んでいる部屋の隣に位置する部屋。流石に、今の状態の悟浄の前では話しにくく、移動したのだ。
不信感も露にあれやこれやと問い質してくる悟浄を宥め、三蔵から請け負った仕事の途中でちょっとした事故があったと、強引に言いくるめた。
悟浄との会話の中で知れたことは、悟浄の記憶が旅に出る前へと後退しているという、現実。

「成る程‥‥‥そういう事ですか」
「ひとつって、何が?」

流石に八戒は三蔵の言葉を素早く理解したようだ。一人取り残された悟空が焦ったような声で問う。

「つまり、あの妖怪は二つのものを同時に捻じ曲げて、それを維持する事が出来なかったんですよ。だから三蔵に術を掛けた時に森の迷路は消え、悟浄に術を掛けたから三蔵の術が解けた。僕らはそれを妖怪が死んだから三蔵の記憶が戻ったのだと思い込んでいたんですよ。――――そういう事ですよね?」

三蔵が頷くのを見て、悟空が「あ」と声を上げる。

「じゃあ、前に森の迷路が一瞬消えたって言ってたのも‥‥‥」

麗華を巡る男たちが妖怪退治に出かけたとき、妖怪は村人の要求を聞き入れ森の仕掛けを外したという。もっとも、男たちの愚かな行動に妖怪は激怒し、直ぐに元に戻してしまったのだと宿の主人は説明していたが。

「話し合いに応じた訳じゃねぇ。訪ねてきた村の連中を迷わせるための術を新たに仕掛けた間、消えてただけだ。見事、踊らされたな」
「気がつきませんでしたよ。頭のいい妖怪でしたね」

八戒の感心したような口調に、却って悔しさが滲み出ている。

「ちょ、ちょっと待ってよ。じゃあさ、悟浄はどうなんの?次の術を掛けようにも妖怪はもういねぇし。そうだよ、妖怪は死んだのに、なんで悟浄の術はそのままなんだよ?もう術は維持できないハズだろ!?」

必死な声音で悟空が縋る。
三蔵とはまた違う意味で、悟空は悟浄をとても大切に思っていた。普段は子供扱いしていても、肝心なところでは悟空と同じ目線に合わせてくれる。一緒になって思い切り走り、笑い。自分を全身で受け止めてくれる悟浄は悟空にとって、時には仲の良い友人であり、時には兄のような頼もしい存在だった。

「どうやら、あのクソ妖怪は自分の命と引き換えに術を継続させることに成功したようだな。これも奴お得意の『実験』なんだろうよ」
「そんな‥‥」

吐き捨てるような三蔵の言葉に悟空は愕然とした。勝ち誇った笑いを浮かべる老妖怪の醜い顔が浮かんでくる。今頃、あの妖怪は地獄の業火に焼かれながらも満足げに嘲笑っているのだろうか。最後まで三蔵一行を翻弄した自分に酔いしれながら。

「じゃ、このまま術が掛かりっ放しだったら、悟浄はどうなんの‥‥?」

悟空はいつの間にか冷たくなっていた自分の指先を強く握りこんだ。

「三蔵の時とは、術の発現の仕方が違うようです。三蔵は一度に全ての記憶を失った。‥‥ですが悟浄の場合、自分は失わないまま徐々に時間を遡っている。‥‥このままいくと、じきに―――」
「‥‥俺たちを、忘れる‥‥?」

悟空の声は僅かに震えている。沈痛な面持ちで、八戒は頷いた。

「正確には、『出会っていない頃に戻る』ですけどね。‥‥‥‥で、三蔵」

八戒が、最高僧に視線を移した。三蔵の様子には見事なまでに動揺は見られない。だが、三蔵が見た目ほど冷静でないということは、考えるまでもないことだった。

「率直にお伺いします。悟浄に掛かった術を解く方法は、あるんですか?」

三蔵は、まったく表情を動かさずに、目線だけをちらりと八戒へ向けるにとどまった。

「‥‥可能性としては、なくはない」
「マジ!?」

悟空の顔面にぱっと喜色が走る。
だが八戒は三蔵の言葉に妙な引っ掛かりを覚えた。三蔵らしからぬ歯切れの悪さ。そもそも、解呪の方法が分かっているならば、とっくに三蔵が実行していない筈は無い。その疑問は悟空も感じたのだろう、すぐに怪訝な表情になり三蔵を見つめている。
二者それぞれの視線に問い詰められ、三蔵は重くため息をついた。

「‥‥奴は悟浄に『捻じれ』を加えた。なら、その『捻じれ』を失くせば悟浄は元に戻る」
「道理ですね」

とりあえず頷く。

「だが、術者が死に、術の性質も分からん以上、どうすれば解呪できるのか正直見当がつかん。時間を掛けて調べれば何とかなるかもしれねぇが、術が特殊すぎる。まず、文献にも載ってねぇだろうよ」
「しかも放っておいて自然に解けるとは考えにくい―――でしょう?」

悟浄の記憶がこのままどんどん遡っていけば果たしてどうなるのかなどと、恐ろしくて考えたくもない。八戒は、他の選択肢の提示を暗に促した。
三蔵は軽く頷くと、袂から煙草を取り出した。三蔵が細く紫煙を吐き出すまで、八戒と悟空は我慢強く待った。三蔵から珍しく躊躇いを感じたからだ。

「‥‥ならば、捻じり返すしかねぇだろうな」

 

「はい?」

意味を図りかねたのか、八戒が思わずといった様子で問い返す。悟空も顔中に疑問符を貼り付けた表情で三蔵を見つめていた。そんな二人に、あくまでも俺の推測だが、と断って、三蔵は続ける。

「要は、必要なだけの力を術とは逆向きに加える事が必要なんだよ。そうすりゃ『捻じれ』は解消する」
「それは―――理屈上はそうでしょうが、そんなことが可能なんですか?正確な力とか向きとか‥‥‥、そもそも術がどんなものかわからないって仰ったのは、三蔵ですよ?」

「確かにな」

三蔵はあっさり同意を示した。

「だが糸口はある。例えば、本人の『思い出したい』という意識。俺の経験から言えば、こいつは妖怪の術にとっては天敵ともいえる存在らしい。仮に無意識だったとしても、自らの過去に執着する感情がある限り、脳に術を打破する方向の刺激を与えるようだ」

どこか遠くを見るような目つきで、三蔵は言葉を紡ぐ。その脳裏には、自分が記憶を失っていたときの経験が浮かんでいるのだろう。時折見せる眉を顰めるような仕草が、思い出したくもない記憶までにも触れたことを八戒と悟空に知らしめる。
三蔵にとっては、忌まわしいまでのこの数日間。
悟浄を拒み、傷付け――――おまけに自分の手で妖怪を倒す事も叶わず、悟浄を危機に晒しているのだ。

「じゃあ簡単じゃん!思い出したいって思いさえすれば、悟浄の記憶もすぐに、」

勢い込んで身を乗り出す悟空を、三蔵は目線だけで制した。

「焦るな。俺の記憶はすぐに戻ったか?」
「―――あ、そか」

たちまち悟空はしょんぼりと項垂れる。
確かに、そんなに簡単に記憶が戻るなら苦労はしない。自分たちだって、三蔵だって、誰よりも悟浄だって、あんなに苦しまずに済んだのに、と改めてあの老妖怪への怒りが湧きあがる。やり場のない憤りにうち震えながら、悟空は三蔵の言葉に耳を傾けた。

「『思い出したい』との願望は、それなりの刺激を脳に与えて術への反発に繋がることは間違いないだろう。ただ、その刺激の方向は完全には術の逆じゃねぇ。あくまでも逆に近い向きに、力が働いているというだけだ。真反対に作用してねぇ以上、術に対抗しうる力を得るには、術より大きな刺激が必要となる」

「それも、経験上の結論ですか」

そっと悟空の肩に誰かの手が置かれた。八戒の手だった。八戒の視線は三蔵の方に向けられたままだ。触れている八戒の指先から震えが伝わってきたが、震えているのは自分なのか、八戒の手なのか、悟空には判断できなかった。

「いや、ここからは完全に俺の仮説だ」

三蔵から視線を外さない八戒に対し、三蔵も、臆する事無く視線を返した。三蔵が、自身の発言に根拠がないと断言するのは珍しい事だ。だが決して、責任逃れのための発言だとは誰も思わなかった。

「俺が記憶を失っていた時の話だが、悟浄の事を思い出そうとするとやたらと頭が痛んだ―――覚えてるな?」

こくんと傍聴者二人が頷いた。三蔵が記憶を失っていたとき、常態的に頭痛に悩まされ続けていたのは、無意識に記憶を取り戻す事を願っていたからに他ならない。特に、悟浄に関する事を思い浮かべようとした時の頭痛の激しさは、他の場合の比ではなかった。

「思い出そうとする意思が生み出す力が術に完全な反作用をもたらさない以上、強力な術によって捻られ続けている精神の糸に、解呪とは別方向への力も更に加わることになる。ココにかかる負担は相当だ」

三蔵はこめかみを指で示した。その意図するところを察し、部屋の空気が僅かに緊張する。

「生物の本能ってやつは最終的な危険を回避するように出来ている。頭痛はその防護壁だ。それ以上精神に打撃を与えると壊れかねんぞ、という一種の警告だな。逆に言えば、その警告を無視すれば精神が壊れることもあり得るということだ」

悟浄が三蔵から足を遠ざけたのは、自分の存在が術に悪影響を与え、精神を壊しかねないと判断したからだ。図らずも、悟浄の判断はあながち間違ってはいなかったということになる。
悪影響ってのとは少し違うがな、と三蔵は小さく息をついた。

「その警告に従って、脳は意識を手放させたり、徐々に執着を薄めたりして自身を守らせるわけだが、俺はそれを強引に受け入れようとした。頭痛に耐え切れば、記憶が戻ると考えてな―――結果的には、悟浄に邪魔されたが」
「だってそれは、仕方ないよ」

三蔵の口元が笑いの形に歪むのを見て、思わず悟空が口を挟んだ。三蔵が悟浄を責めていると感じたのだろう。
無理もない、と思う。悟空も、いや八戒も、その場に居あわせれば悟浄と同じ事をしたかもしれない。三蔵がいくら強固な精神力の持ち主だとしても、未知の妖術に対抗する衝撃に耐え切れると、誰が断言できるのか。
もし目の前で三蔵が壊れたら。その危惧を抱いた悟浄を、どうして責められるだろうか。

「術が消えるかどうかなんて保証もないんだろ?だったら‥‥‥」
「――――だが、試せる手はそれだけだ」

虚を衝かれたように、悟空は息を呑んだ。そうだった。三蔵が語っているのは、自分の事ではないのだ。悟浄の。悟浄の記憶を取り戻すための。

「もっとも、よしんば上手く捻じり返せたとして―――捻じるってのはイメージに過ぎんが―――、その結果術が消えるかもしれんし、負荷が強すぎればそのまま精神の糸までも捻じ切るかもしれん。一歩間違えば、完全な廃人だ」

ようやく八戒と悟空にも、先ほど三蔵が見せた笑みの理由が理解できた。三蔵が自身に試そうとして悟浄に阻まれた、危険な賭け。その賭けを当の悟浄に試さなければならない皮肉な巡り合わせに、三蔵は自嘲せざるを得なかったのだ。
部屋はしん、と静まり返っていた。隣室の悟浄は眠ってしまっているのか、物音ひとつ聞こえない。

「もし、あの時悟浄に止められなかったとして、俺があの頭痛に耐え切って術に打ち勝てたかどうかは正直わからん。だが、悟浄には耐えて貰うしかねぇ。―――いや、耐えさせるしかねぇな。‥‥例え、結果がどうあれ、な」

最後は殆ど呟きに近かった。

  

「それが‥‥『捻じり返す』ですか‥‥」

ようやく声を絞り出した八戒に、三蔵はひとつ頷いた。
いっそ冷酷だと思える三蔵の台詞。だが内心の葛藤がいかばかりかは、推し量る事すら無意味だ。傍らでは悟空が呆然とした表情で立ち尽くしていた。

「そんなの、かなりヤバいじゃん‥‥‥」
「言ったはずだ。『可能性』としてはなくはない、と」
 

可能性。
 

本来なら希望に溢れているはずのその単語に、背筋が凍るほどの絶望を感じるのは何故なのか。

「‥‥‥確率は?」

八戒の表情はいつにも増して怜悧で、何の感情も読み取れない。三蔵は、一呼吸置いて紫煙を吐き出すと、静かにかぶりを振った。

「まず俺の仮説が正しいかどうかが半々、悟浄が術に耐え切れるかどうかも半々だな‥‥残念だが甘くはねぇ」

言い終えると、三蔵は静かに手にした煙草を握り潰した。皮膚の焼ける独特の匂いが漂う。だが誰もそれに眉を顰める事すらしなかった。

 

 

 

 

「‥‥嫌だ」

不意に悟空が呟いたと思うと、物凄い力で三蔵の胸倉を掴み挙げた。

「嫌だ!嫌だ!嫌だっ!!!」
「悟空!」

思わず八戒が止めに入るが、悟空の力は緩まない。

「そんなの嫌だ!悟浄が壊れるかもしれないなんてぜってー嫌だ!消さなくてもいいから、術を止めてくれよ三蔵!今なら悟浄、まだ俺たちの事覚えてる!何とかしろよ三蔵!!何とかできねぇのかよっ、最高僧なんだろっ!?」
「悟空!止めなさい!」

鋭い叱責と共に、今度こそ八戒が悟空を止めようと掴んだ腕に渾身の力を込めてくる。その腕の痛みよりも、黙って悟空の詰問を受ける三蔵の表情に悟空は我に返った。
いつも以上の、無表情。だが、その瞳の光が全てを物語っていた。今までに見た事のない、哀しい色の光だった。

「‥‥‥ゴメン‥‥」

何とか力だけは抜いたが、強張った手は三蔵の胸元から引き剥がせない。まるで縋るような体勢のまま、悟空は俯いた。まともに三蔵の顔が見られない。

知っている筈なのに。
誰よりも辛いのは。誰よりも苦しいのは。誰よりも己の無力さを嘆いているのは。

「‥‥‥けど‥ヤだ‥‥‥悟浄が‥‥‥」

そのままずるずると座り込み、しゃくり上げる。
 

『ワシが死んでも術は解けんよ』

耳に障る妖怪の哄笑が、聞こえた気がした。
 

 

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あー、長くなりました。萌えないけれど(汗)
さて、これから三蔵様には思いっきりぐるぐるしていただきましょう!

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