Give and Take(27)

翌日の朝、麗華は普段よりは随分と早く起床した。三蔵たちの早朝の出発に合わせ、朝食や諸々の支度をするためである。
穏やかな寝息を立てて眠る悟浄を起こさないように慎重にベッドを抜け出すと、手早く身支度を整え、明かりもつけないままに忍び足で自らの部屋を後にした。
扉が閉じられると同時に、ベッドの中で紅い瞳が開かれたことにも気付かずに。

 

 

 

 

宿の外はまだ暗かった。日の出までにはまだ一時間以上ある時刻だ。
悟浄は当てもないまま山道を登っていく。とにかく少しでも宿から離れたい、その一心で。
別にこの町から出て行こうというのではない。でなければ、麗華に今後のことを頼んだりしない。ただ宿にいればどうしても、僧侶たちの出立の気配を感じてしまう。悟浄はそれが嫌だった。

ひたすら歩き続けながら、もう自分とは関係のない彼らのことを考える。
結局は、あの妖怪の言った通りだった。いつかは、捨てられる。それが今だったというだけだ。もう、恨みや怒りは悟浄の心に湧いてはこなかった。いつまでも記憶を取り戻さない自分に、僧侶も苛立ちを覚えていたのだろうと考えれば、この結果も仕方の無いことだと思えた。
諦めるという行為は、悟浄にとっては難しいものではない。

相変わらずの霧雨が、悟浄の頭に、顔に、衣服に、容赦なく纏わり付き、次第に悟浄の体温を奪う。少しずつ朝の気配を感じる薄闇の中、とり合えずどこか雨宿れる場所を、と周囲を見回しながら山中をさ迷い、やがて悟浄はとあるものを見つけた。

焼け落ちた建物の残骸。

まだ焼かれてから間もないことを示す焦げた臭いが、あたりに立ち込めている。今までもこの山には何度も足を踏み入れていたし、それほど入りくんだ場所ではないにも関わらず、何故かこの近辺には近寄っていなかったことに、悟浄は初めて気が付いた。

(‥‥‥?)

恐る恐る悟浄が近付いてみると、焼け落ちた木材の隙間から、機械の部品らしきものが覗いている。他にも、高熱で溶けた鳥かごらしき物体の成れの果てやらが無造作に転がって――――。

ズキン。

痛みと同時に、悟浄の頭の奥で何かが揺れた。―――これは。
この感覚には、覚えがあった。

鳥が。巣から落ちた雛を見つけたときにも感じたこの感覚は。いや、もっと前にも。そうだ、あの僧侶に騙されたときにも、確か。

痛い。頭が。何故。知らない。違う。知らない。嘘だ。

目を逸らしたい筈なのに。何故か悟浄は視線を焼け爛れ歪んだ鳥かごから逸らせることが出来なかった。

知ってる。鳥だ。鳥がいた。あの籠に閉じ込められていた鳥を見て、俺は。俺は―――。
 

「っ痛‥‥‥」

猛烈な頭痛に、悟浄は頭を抱えて蹲った。

怖い。

悟浄の背を一気に恐怖が駆け上る。
よろめきながらも立ち上がり、悟浄は駆け出した。頭の痛みは半端ではない。だが、とにかく逃げ出したかった。それが与えられる頭痛からなのか、それとも頭痛の先にあるものからなのかは、悟浄にも分からなかった。ただ、闇雲に逃げ惑った。
足がもつれ、何度も木に激突した。ぬかるんだ地面に足を取られ、無様に転んだ。それでも、悟浄は歯を食いしばっては立ち上がり、走り続ける。それは既に気持ちだけで、実際には歩くよりも遅い足取りであったが、動いていなければ頭の痛みがどんどんと増して、やがてのた打ち回るほどに悪化するだろうとの確信があった。
 

この頭痛の意味することは、悟浄は幾度も皆に聞かされ知っていた。
記憶を取り戻したいという願望の証。
恐らくは唯一の、妖怪の術を打ち負かす可能性のある現象。
それは悟浄が待ちわびていた筈の痛みともいえる。

けれど。

けれど、違う。
この痛みは、違う。
 

無性に悔しかった。

思い出したいのに。本当に思い出したいと思っている筈なのに。僧侶の夢を見てしまうほどに、気になっている筈なのに。それでも殆ど痛むことのなかった頭。悟浄が焦りを覚えるほどに。
 

 

――――どうして頭痛が起きるきっかけが、あのひとではないのだ。
 

 

起因はどうあれ、齎される痛みと結末は同じである筈なのに、悟浄はこの頭痛は違うと―――――この頭痛では嫌だと、はっきりと感じていた。

 

 

 

 

突然鈍い音が聞こえたと思ったら顔に何か冷たいものが当たり、悟浄は自分が再び転んだことに気付いた。
もう何度目か数え切れないほどの転倒で、悟浄の身体は全身が泥まみれになっていた。冷たいぬかるみは、悟浄の顔も容赦なく汚しているだろう。だが、それを気にする余裕などはなかった。
頭痛は未だ、治まる気配がない。

「‥‥‥?」

ふ、と遠くで何かの音が聞こえた気がした。
薄く目を開けた悟浄の視界が捕えたのは、明け方の薄暗い闇の中を流れていく小さな光だった。
僧侶たちが乗っている車が、今、宿を出発したのだ。

「あ‥‥」

ようやく悟浄は、自分がどこにいるかを知った。
見下ろせば町を一望できる丘。かつて悟浄が逃亡を図り、僧侶に待ち伏せられ、そして――――、最初に抱きしめられた場所だった。

早朝に出発しなければならないと、あの僧侶は言っていた。隣の町で、悟浄の代わりに旅の同行者となる誰かが待っているのだ。
自分を置いて行け、と言ったのは確かに悟浄自身だった。最初から期待などしていなかったのだと、自分に言い聞かせて。これから先、ひとりで生きていく覚悟など、とっくに固めていた筈なのに。

咄嗟に立ち上がろうとして、頭の痛みに阻まれた。
悟浄の頬に自嘲が掠める。立ち上がって、今更何をしようというのだろう。そう、いまさら、何を。

小さな灯火は、見る間に遠ざかっていく。躊躇いもせず、真っ直ぐに進んでいく光の軌跡。
雨が降っていたために、悟浄は自分の頬を違うものが濡らしていることには気付かなかった。頭は痛む。だが、それ以上に胸も痛んだ。

――――行きたい。

唐突に、熱いものが込み上げる。
やがて、彼らの車の灯りは完全に見えなくなった。だが、悟浄は彼らの去った方向から、いつまでも目が離せなかった。

――――行きたい。あの人と―――。

仕方がないなんて嘘だ。心の底では、諦めるなんて出来てなかった。
本当は。本当は。本当は。

「‥‥おれ、も」

ようやく自覚する想い。しかし、何もかも遅すぎた。
視界が、急激に霞んでくる。頭を持ち上げていることさえ出来なくなり、悟浄は再び泥の中へ顔面を突っ込んだ。恐らくは顔中、酷い有様になっているだろうけれど。

「‥‥つれて、って‥‥」

いっしょに。

ようやく口に出せた本心は、誰にも届かないまま。
激しさを増す頭痛に、悟浄の意識は薄れていった。
 

 

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妖怪のアジトは付近の住人に燃やされていたと思われます。…と言いますか、文章おかしいよねこの話(涙)

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