Give and Take(22)
「‥‥‥‥どうしてお風呂に入って息を切らせてるんですか、貴方は」 騒がしい足音が近付いてきたと思ったら、部屋に飛び込んでぜぇぜぇと戸口を押さえている紅い髪の大きな子供に、八戒は呆れたような声を出した。 「逃げて、きた。髪洗わせろ、って、しつけー、んだもん、アイツ」 大きく肩で息をしながら、悟浄は廊下の気配を気にしている。 「だからって髪を乾かさずに走り回るんじゃありません。風邪を引きますよ?拭いてあげますから、こっちにいらっしゃい」 あからさまに、悟浄が身を硬くした。このところ鳴りを潜めていた警戒するような目つきで、八戒の方を伺っている。 「髪、触られるの嫌ですか?」 無言の肯定。 「ひょっとして、怖いんですかぁ?」 ワザとからかう様な微笑を浮かべて、軽く。 「何でだよ!怖くなんかねぇよっ!全然平気に決まってんだろ!」 うっ、と言葉を詰まらせる悟浄の腕を、多少強引に引き寄せ椅子に座らせる。何か言おうとするのを、最強と自負する笑顔で黙らせた。 「ほら、じっとして。大丈夫ですよ、僕、こういうの慣れてますから」 八戒の指が髪に掛かった瞬間、悟浄の身体が強張ったのが指先の感触で伝わった。膝の上で白くなるほどに握り締められた拳が、小刻みに震えているのが見える。
「‥‥‥‥‥‥‥」 静かな部屋に、八戒が悟浄の髪を拭く微かな物音だけが木霊している。悟浄は、妙に落ち着かなかった。 あれはいつだったか、近所の子供たちにこの髪の色を詰られ、石を投げつけられて家に戻った日。 『おし、髪もキレイになったな』 悟浄が風呂から上がるのをタオルを広げて待ち構えていた兄に言われた言葉に、カッとなった。衝動的に、言葉を叩きつけた。 ―――――この色が、どうやったってキレイになんかなるわけねぇよ! 固まった兄の顔をまともに見ることはできなくて、悟浄は逃げるようにひとり部屋に駆け込んだ。濡れた髪がどんどん冷えて身震いするほどの寒さを感じ、自分がどうしようもなく惨めに思えた。 それ以来、自分の髪は嫌悪の対象でしかなくなった。勿論、他人に触れさせることもなく―――。 くい、と軽く髪を引かれる感触に、悟浄は我に返る。 ―――――この人は気持ち悪くないんだろうか、この色が。 悟浄はちらりと翠の瞳の青年の顔を盗み見た、つもりだった。 「何ですか?」 こっそりのつもりが、ばっちり目が合ってしまって、悟浄は焦る。微笑を湛えて視線で先を促す八戒を咄嗟に誤魔化そうとしたが、いい知恵も浮かばず、結局悟浄は観念した。 「あのさ‥‥。あの、前にも、こうやってしてくれてた?」 口にするのにかなりの勇気を要した上に、言ってしまってから、これではまるで『そうあって欲しい』と言っているようなものだと悟浄は焦る。だが、そんな悟浄の焦燥を知ってか知らずか、八戒は変わらぬ笑顔でいいえと即座に首を横に振った。 「‥‥でもね」 かすかな含み笑いと共に降る、楽しげな八戒の声。勿論、手は休めないままだ。いつの間に用意したのか、八戒の手にはドライヤーが握られていた。 「実は、こっそり触ってたんですよ、僕」 咄嗟に振り返ろうとした悟浄だったが、ほら動かないでと八戒に頭を押さえつけられ、しぶしぶ前に向き直る。時折、耳朶を掠める温風の生温い感触に思わず身を竦めると、再び八戒に動くなと注意を受けた。 「そんな頻繁じゃありませんけど、ごく稀に。貴方は嫌な事があって飲んで帰ると僕が止めるのも聞かずに風呂に入っては大声で歌を歌って、おまけに髪どころか身体を拭くということすら丸っきり放棄して床を水浸しにした挙句にソファで寝るという本当に大迷惑な悪癖がありましてね。放っておけばおいたで風邪なんかひいてくれちゃって鼻水垂らしながら薬だの水だのと煩いし、旅に出てからはともかく―――、あ、僕らは一緒に暮らしてたんですよ?旅に出るまでは」 確か、自分とイイ仲だったというのは金髪の僧侶の筈ではなかったのか、と悟浄が首をひねっているのを見咎めて、八戒が苦笑しながら補足してくれた。 「まぁ、そんなこんなで、貴方はとっても手のかかる人でした。反省してくださいね?」 『とっても』という部分を強調されて、思わず悟浄は頷きかけてしまった。よくわからないが、こういう時の八戒には逆らわない方がいいのだろうということだけは、既に悟浄にも漠然とながら分かっていた。 それよりも、自分が他人と一緒に生活していたという事実。 「よく、一緒に暮らせたなぁ‥‥‥‥」 ふと漏れた正直な感想に律儀な質問を返して、八戒の手が悟浄の頭から離れた。カチリという音がして、煩かったドライヤーの音も止む。終わりましたよ、と言われて悟浄は頭を振ってみた。丁寧に乾かされた髪が、さらさらと耳を掠める。 「そりゃあ、同居し始めた頃なんか、色々ありましたよ?お互い生活習慣も嗜好も全くちがいましたし、衝突しようにもなんとなく噛みあわなかったりで、無駄にぎくしゃくしたりしてました。‥‥‥‥でもまぁ、いつの間にか慣れちゃってましたね。だんだん、互いが何を言いたいのか言葉にしなくても分かるようになったりして」 とそこで、背後からくすりと零された笑いを悟浄の耳が拾った。ようやく振り向いても咎められなくなった悟浄は、身体ごと捻って八戒に向き直る。八戒は、珍しく悪戯を見つけられた子供のような顔をして、首を竦めておどけてみせた。 「いえね、この頃の話をしていると三蔵の視線が変わるんですよ。今でも時々、アレとかソレとかで悟浄と会話してると、三蔵が思いっきり不機嫌な顔するので楽しいんです。悟浄は後で『熟年夫婦みてぇな空気を醸し出してんじゃねぇ』とかって怒られてるらしいですけど。嫌ですねぇ、男の嫉妬って」 何を思い出しているのか、八戒のくすくす笑いは止まらない。 「しっと‥‥?」 悟浄は、呆気に取られていた。 どんなに悟浄の想像力をフル回転させても、嫉妬で取り乱す僧侶というものが想像できず、当然、その対象が自分であるということも信じられず。 「んなワケないって!ほら、俺、今こんなだし!それよか、そろそろ昼メシに‥‥」 ここは、とりあえず誤魔化して話題を変えなくては!と、あわあわと悟浄は適当なことを口走りながら、無理に笑ってみせた。 だが、八戒は悟浄の話題転換にはのってはこなかった。 「同じですよ。今の貴方も前の貴方も、悟浄は悟浄です」 一瞬、目を見開いた悟浄に、八戒は慌てて手を振って見せた。 「あ、でも誤解しないでくださいね?別に貴方の失われた記憶が大切なものじゃないとか、そういうことではないんです」 『俺は、アンタの知ってる悟浄じゃないんだよ!』と悟空相手に喚き散らしたのは、つい今朝方のことだ。なのに、今では腹も立たない。急速に自分の心に訪れる変化を悟浄は自覚していた。 「‥‥‥‥ん‥、わかってるよ」 何故だか、素直に頷けた。 「わかってる」 小さな呟きを繰り返すと、少し躊躇うような素振りの後、八戒が抱きしめてきた。 優しい腕だった。あの僧侶とは違う温かさがそこにはあった。 「八戒さん‥‥」 おずおずと腕を八戒の背中に回すと、ほんの少しだけ、抱きしめる力が強められた。
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そして今度は八戒兄さんが悟浄を手なずけたりして。
三蔵様、どんどん先を越されてますよ。