Give and Take(22)

「‥‥‥‥どうしてお風呂に入って息を切らせてるんですか、貴方は」

騒がしい足音が近付いてきたと思ったら、部屋に飛び込んでぜぇぜぇと戸口を押さえている紅い髪の大きな子供に、八戒は呆れたような声を出した。

「逃げて、きた。髪洗わせろ、って、しつけー、んだもん、アイツ」

大きく肩で息をしながら、悟浄は廊下の気配を気にしている。
悟空が追いかけてきやしないかと警戒しているようだ。余程しつこく迫られたのだろうと八戒は風呂場の喧騒を想像し、内心可笑しかった。だが、ここで笑うと目の前の大きな子供は拗ねてしまうことは必至で、敢えて八戒はその笑いを噛み殺し、しかめっ面をしてみせる。

「だからって髪を乾かさずに走り回るんじゃありません。風邪を引きますよ?拭いてあげますから、こっちにいらっしゃい」
「‥‥‥‥‥いいよ、別に」

あからさまに、悟浄が身を硬くした。このところ鳴りを潜めていた警戒するような目つきで、八戒の方を伺っている。

「髪、触られるの嫌ですか?」
「‥‥‥‥‥‥‥」

無言の肯定。
小さな棘が、八戒の胸をつきんと刺した。恐らくは周りの大人や同じ年頃の子供たちにすらも疎ましがられていただろう髪の色を、幼い子供に気にするなと告げたところで仕方がない。過去は、八戒には手の届かないところに存在する。
だが、それでも、できることはあるから。

「ひょっとして、怖いんですかぁ?」

ワザとからかう様な微笑を浮かべて、軽く。
案の定、悟浄は目をむいてつっかかってきた。

「何でだよ!怖くなんかねぇよっ!全然平気に決まってんだろ!」
「じゃ、OKですね?」

うっ、と言葉を詰まらせる悟浄の腕を、多少強引に引き寄せ椅子に座らせる。何か言おうとするのを、最強と自負する笑顔で黙らせた。

「ほら、じっとして。大丈夫ですよ、僕、こういうの慣れてますから」

八戒の指が髪に掛かった瞬間、悟浄の身体が強張ったのが指先の感触で伝わった。膝の上で白くなるほどに握り締められた拳が、小刻みに震えているのが見える。
だが、八戒は手を離す事はしなかった。
ただ、触れてあげたいと思う。髪の色がどうであれ、他の人と何も違わないのだと、悟浄に知って欲しかった。
八戒は悟浄を驚かせないように、ゆっくりと髪を梳き始めた。
 

 

 

 

 

「‥‥‥‥‥‥‥」

静かな部屋に、八戒が悟浄の髪を拭く微かな物音だけが木霊している。悟浄は、妙に落ち着かなかった。
今まで味わった事のない変な気分に、悟浄は包まれていた。いつの間にか、兄の手さえ遠ざけるようになっていたこの行為を、他の誰かにさせているのが信じ難かった。
 

あれはいつだったか、近所の子供たちにこの髪の色を詰られ、石を投げつけられて家に戻った日。

『おし、髪もキレイになったな』

悟浄が風呂から上がるのをタオルを広げて待ち構えていた兄に言われた言葉に、カッとなった。衝動的に、言葉を叩きつけた。

―――――この色が、どうやったってキレイになんかなるわけねぇよ!

固まった兄の顔をまともに見ることはできなくて、悟浄は逃げるようにひとり部屋に駆け込んだ。濡れた髪がどんどん冷えて身震いするほどの寒さを感じ、自分がどうしようもなく惨めに思えた。

それ以来、自分の髪は嫌悪の対象でしかなくなった。勿論、他人に触れさせることもなく―――。
 

くい、と軽く髪を引かれる感触に、悟浄は我に返る。
ここにいるのは兄ではない。兄はいつも乱暴で、大きな手でぐしゃぐしゃと悟浄の頭をかき回した。それはそれで、とても気持ちの良いものだったけれど。
悟浄の髪を拭く八戒の手は優しくて、気を抜けば眠りに落ちてしまうような心地よさを感じる。多少の戸惑いはあるものの、不思議と嫌悪感を感じていない自分に悟浄は驚く。あれだけ他人に触れられるのが嫌だった髪を、どうして素直に彼に預けているのだろうか。
こんなことは慣れている、と言っていたけれど。

―――――この人は気持ち悪くないんだろうか、この色が。

悟浄はちらりと翠の瞳の青年の顔を盗み見た、つもりだった。

「何ですか?」
「あ、えーと、あの」

こっそりのつもりが、ばっちり目が合ってしまって、悟浄は焦る。微笑を湛えて視線で先を促す八戒を咄嗟に誤魔化そうとしたが、いい知恵も浮かばず、結局悟浄は観念した。

「あのさ‥‥。あの、前にも、こうやってしてくれてた?」

口にするのにかなりの勇気を要した上に、言ってしまってから、これではまるで『そうあって欲しい』と言っているようなものだと悟浄は焦る。だが、そんな悟浄の焦燥を知ってか知らずか、八戒は変わらぬ笑顔でいいえと即座に首を横に振った。
話を聞くと、八戒は昔教師をしていて、そこの生徒たちの面倒を色々とみていたらしい。両親が共に働いている子供などは、誰もいない家にあまり早く帰すのもしのびなく、夜遅くまで一緒に残っては備え付けの風呂に入れたり夕食を作ったりと託児所さながらの光景を繰り広げていたのだと、八戒は懐かしそうに語った。
その返答にほっとしているのか、がっかりしているのか。
やはり自分の気持ちを持て余して、悟浄は少しだけ、俯いた。
 

「‥‥でもね」
「?」

かすかな含み笑いと共に降る、楽しげな八戒の声。勿論、手は休めないままだ。いつの間に用意したのか、八戒の手にはドライヤーが握られていた。

「実は、こっそり触ってたんですよ、僕」
「え?」

咄嗟に振り返ろうとした悟浄だったが、ほら動かないでと八戒に頭を押さえつけられ、しぶしぶ前に向き直る。時折、耳朶を掠める温風の生温い感触に思わず身を竦めると、再び八戒に動くなと注意を受けた。
やはり兄とは違う優しい指が、悟浄の髪の間を滑るようにして動いているのを感じる。なんとも穏やかでくすぐったい時間が、過ぎていった。

「そんな頻繁じゃありませんけど、ごく稀に。貴方は嫌な事があって飲んで帰ると僕が止めるのも聞かずに風呂に入っては大声で歌を歌って、おまけに髪どころか身体を拭くということすら丸っきり放棄して床を水浸しにした挙句にソファで寝るという本当に大迷惑な悪癖がありましてね。放っておけばおいたで風邪なんかひいてくれちゃって鼻水垂らしながら薬だの水だのと煩いし、旅に出てからはともかく―――、あ、僕らは一緒に暮らしてたんですよ?旅に出るまでは」
「マジ?だって―――」
「貴方が三蔵と付き合いはじめたのは、旅に出た後のことでしたから」

確か、自分とイイ仲だったというのは金髪の僧侶の筈ではなかったのか、と悟浄が首をひねっているのを見咎めて、八戒が苦笑しながら補足してくれた。
そう言えば、悟空からそんな経緯を聞いたような聞かないような。
半分耳を塞いでいた自覚のある悟浄は、気まずさに少々視線をさ迷わせた。八戒に背を向けている体勢で良かったと心から思う。

「まぁ、そんなこんなで、貴方はとっても手のかかる人でした。反省してくださいね?」

『とっても』という部分を強調されて、思わず悟浄は頷きかけてしまった。よくわからないが、こういう時の八戒には逆らわない方がいいのだろうということだけは、既に悟浄にも漠然とながら分かっていた。

それよりも、自分が他人と一緒に生活していたという事実。
しかも、どう見ても自分とは毛色の違う雰囲気の持ち主である。どういう経緯でそういうことになったのか、もう一度きちんと聞いてみたいと今、悟浄は思う。

「よく、一緒に暮らせたなぁ‥‥‥‥」
「僕がですか?それとも貴方が?」

ふと漏れた正直な感想に律儀な質問を返して、八戒の手が悟浄の頭から離れた。カチリという音がして、煩かったドライヤーの音も止む。終わりましたよ、と言われて悟浄は頭を振ってみた。丁寧に乾かされた髪が、さらさらと耳を掠める。

「そりゃあ、同居し始めた頃なんか、色々ありましたよ?お互い生活習慣も嗜好も全くちがいましたし、衝突しようにもなんとなく噛みあわなかったりで、無駄にぎくしゃくしたりしてました。‥‥‥‥でもまぁ、いつの間にか慣れちゃってましたね。だんだん、互いが何を言いたいのか言葉にしなくても分かるようになったりして」

とそこで、背後からくすりと零された笑いを悟浄の耳が拾った。ようやく振り向いても咎められなくなった悟浄は、身体ごと捻って八戒に向き直る。八戒は、珍しく悪戯を見つけられた子供のような顔をして、首を竦めておどけてみせた。

「いえね、この頃の話をしていると三蔵の視線が変わるんですよ。今でも時々、アレとかソレとかで悟浄と会話してると、三蔵が思いっきり不機嫌な顔するので楽しいんです。悟浄は後で『熟年夫婦みてぇな空気を醸し出してんじゃねぇ』とかって怒られてるらしいですけど。嫌ですねぇ、男の嫉妬って」

何を思い出しているのか、八戒のくすくす笑いは止まらない。

「しっと‥‥?」
「そうですよ、いわゆるヤキモチです。三蔵は貴方に関しては狭量ですからね、そんなことないと知ってるくせに、僕が悟浄とちょっと話し込んでたりするとすぐに引き剥がしにかかります。そうだ、今度試してみましょうね?面白い反応しますよぉ、三蔵」

悟浄は、呆気に取られていた。
とてつもなく、意外なことを聞いた気がする。ヤキモチ?あの僧侶が?あの無表情で横柄で偉そうな、あの僧侶が?

どんなに悟浄の想像力をフル回転させても、嫉妬で取り乱す僧侶というものが想像できず、当然、その対象が自分であるということも信じられず。
それなのに、やたらと顔が熱い。本人の意思に反して、どんどん顔に血液が集まってくるのが分かる。どうして自分が赤くならなくてはならないのか、悟浄には理解不能だった。

「んなワケないって!ほら、俺、今こんなだし!それよか、そろそろ昼メシに‥‥」

ここは、とりあえず誤魔化して話題を変えなくては!と、あわあわと悟浄は適当なことを口走りながら、無理に笑ってみせた。

だが、八戒は悟浄の話題転換にはのってはこなかった。
透き通った翠の瞳が優しい光を湛えて、悟浄を正面から捉えている。

「同じですよ。今の貴方も前の貴方も、悟浄は悟浄です」
「―――――」

一瞬、目を見開いた悟浄に、八戒は慌てて手を振って見せた。

「あ、でも誤解しないでくださいね?別に貴方の失われた記憶が大切なものじゃないとか、そういうことではないんです」

『俺は、アンタの知ってる悟浄じゃないんだよ!』と悟空相手に喚き散らしたのは、つい今朝方のことだ。なのに、今では腹も立たない。急速に自分の心に訪れる変化を悟浄は自覚していた。

「‥‥‥‥ん‥、わかってるよ」

何故だか、素直に頷けた。

「わかってる」

小さな呟きを繰り返すと、少し躊躇うような素振りの後、八戒が抱きしめてきた。

優しい腕だった。あの僧侶とは違う温かさがそこにはあった。
こんなことも今までしたことないんですけどいいですよね、と、八戒が照れたように笑った。悟浄は戸惑いながらも、小さく頷いた。

「八戒さん‥‥」
「やだなぁ、『さん』は余計です」

おずおずと腕を八戒の背中に回すと、ほんの少しだけ、抱きしめる力が強められた。
不意に、『家族』という単語が浮かんできた。そんな抱擁だった。
 

 

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そして今度は八戒兄さんが悟浄を手なずけたりして。
三蔵様、どんどん先を越されてますよ。

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