「んあ〜?俺、何で寝てんの?んーさんぞー?オマエ何よ、そんなしけた煎餅みてぇなツラしやがってよ」

スパーン!

勢い良く振り下ろされたハリセンは、寸分違わず悟浄の脳天にヒットした。

「てめぇは、第一声がそれかっ!」
「あにすんだ!――――痛っ」

がばりと跳ね起きた悟浄は、身体に走った激しい痛みに顔をしかめ身体を庇うように丸める。三蔵は舌打ちしたいのを押さえて悟浄の額をぺちりと叩いた。

「暴れんな、怪我人が」
「怪我‥‥?」

あまりの騒がしさを聞きつけたのだろう、厨房に篭っていたはずの悟空と八戒も部屋に飛び込んでくる。

「悟浄!目ぇ醒めたのかよ!」
「もう、自分勝手な行動は慎んで下さいって日頃から言ってるでしょう」

一気に賑やかになった部屋の中心に居る悟浄は、だがしかし、きょとんとした表情で辺りを見回している。

「‥‥‥俺、何で怪我してんの?ここんとこ、妖怪の襲撃もなかったのに」
「何言ってるんですか。あれだけ無茶しておいて――――」

八戒は、そこで妙な事に気がついた。

悟浄は目覚めてから、三蔵の様子を気にしたのだろうか?
三蔵は今、三蔵法師の法衣を纏っている。記憶が戻ったという事は、一目瞭然であるはずなのに。喜ぶわけでもなく、まるで最初からそんな事などなかったかのように、当たり前に接している。

そう、まるで、『そんな事などなかった』かのように。
 

思わず隣を伺うと、やはり眉間に皺を寄せ、厳しい視線で悟浄を見つめる三蔵の姿があった。
喜びの中に漂う微妙な違和感をノックの音が不意に破る。

丁寧な断りと共に顔を覗かせたのは、この宿で働く麗華だった。三蔵に想いが実らなかった今でも、気丈に振舞い悟浄の世話を甲斐甲斐しく焼いてくれている女性。

「悟浄さん!気がついたんですね、良かった、私――――」

ベッドの上で起き上がる悟浄の姿に、表情が輝いた。
麗華と悟浄は、どことなく通ずるものを互いに感じていたのだろうと八戒は薄々気付いていた。恋敵の立場にありながら相手に好意を抱いてしまうのは、それはそれで辛い事だろうに、とも思う。いっその事憎めれば、どんなに楽か。
だが、麗華の裏表のない優しさは本物だった。だからこそ、悟浄も強く惹かれ、もし三蔵が新しい人生を歩むなら彼女をと考えたのだろう。
麗華の言葉にも、表情にも、嘘偽りのない安堵感が溢れている。嬉し涙を湛え、悟浄の元へと走り寄った彼女に、だが、悟浄の口から出た言葉は信じられないものだった。

「えーっと‥‥?どちらさん‥‥?」
「‥‥え‥‥?」

ぽりぽりと頬をかきながら、困ったように曖昧な笑みを浮かべる悟浄。一同が信じられないという目を向けるが、本人はいたって本気らしく首を傾げたままだ。

「君みたいな美人、一度会ったらぜってー忘れないと思うんだけど‥‥。ごめん、どこで会ったんだっけ?」

一瞬にして、部屋を沈黙が支配した。

 

 

 

 

 

 Give and Take

 

 

 

 

 

 

旅の途中で通った森の中で、三蔵一行は怪しげな迷路とも呼べる仕掛けに遭遇し、抜け出すのに相当の骨を折った。やっとのことで森を抜け村に入れば、今度はその森に仕掛けを作った張本人の妖怪に三蔵の記憶を奪われ、散々な目に合わされて。
そして、ようやく妖怪も倒し、三蔵の記憶も戻り、やれやれと思ったら。

 

「へえ〜。んな事があったのか」
「へえ〜、じゃねぇだろが‥‥」

例の老妖怪に纏わる一連の出来事を説明されても、まるで他人事のようにのほほんと答える悟浄の様子に、思わず三蔵はこめかみを押さえた。
この村に入ってから既に一週間以上は経過している。
だが、悟浄の記憶は、一つ前に立ち寄った、やはり大きくは無い寂れた町のところで途切れているらしい。

心配する麗華を宥め仕事に戻してから、悟浄に今までの経緯を説明する事、小一時間。
大まかな説明は短く済んだが、細かい部分で八戒が口を濁したために悟浄の「何で?」攻撃を喰らい続け長引いたのだ。だがまさか「貴方は三蔵に拒絶されちゃったんですよ」とか、「あっさり身を引こうとしてたんですよ」とか、「麗華さんを三蔵に宛がおうとしてたんですよ」とか告げる訳にもいかず、八戒を困らせた。
悟空はまだ信じられないのか、疑わしげに悟浄の顔を覗き込んでいる。

「ホントに覚えてねぇの?」
「うーん。全く」
「出血も多かったですし、怪我のショックで一時的に記憶が混乱しているのかも」

八戒の言葉にも、やはり悟浄は頭を捻ったままの体勢を崩さない。
しばらく、うーんうーんと唸っていた悟浄だったが、やがて匙を投げたらしく顔を上げてにかりと笑った。

「ま、いいじゃん。三蔵の記憶も戻ったんだろ?今までどおりって事で、別に旅に支障があるわけじゃなし」

そう言われてみれば確かにそうなのだが。

悟浄にとっては、失ったところで問題のない記憶なのかもしれない。
三蔵に忘れられ、拒絶され、苦しんで。そんな悟浄を見るのは八戒も悟空もとても辛かったし、心を痛めたのは勿論の事だ。だからせめて記憶の戻った三蔵の姿に安心する悟浄が見たかったと思うのは、決して無理な願望ではないと思う。
三蔵とて元に戻った今となっては、悟浄に辛い思いをさせた埋め合わせと、自分から逃げようとした仕置きを今から全力で!と意気込んでいる出鼻を挫かれたも等しい出来事で。
悟浄の責任ではないと頭では理解できるのだが。散々振り回された挙句に、当の本人はきれいさっぱり忘れきっているという今の状況に、感情が追いつかない。
この釈然としない気持ちをどうすればいいのだ。どうにもやり場の無いわだかまりを抱え込んだ悟浄を除く三人は、微妙に視線をさ迷わせる。
だが、彼らの心の葛藤を知らない悟浄の関心は、既に別の方向に向いたようだ。

「あー。何か猛烈に腹減ってる気ィするわ」
「‥‥‥‥最近、食べてなかったですからね。とりあえず最初はスープでも‥‥」
「食べてなかった?俺が?何で?」

ですから、それは。三蔵に想いを拒絶されたショックで――。
そう説明しようとした八戒は、開きかけていた口をため息と共に閉じた。何だか物凄く疲れた気がする。ちらりと隣の二人を見やったが、やはり三蔵も悟空も疲れた顔をして、自分に助け舟を出してくれる気はないようだ。

「‥‥また明日、話してあげますね‥‥」

ようやくそれだけを絞り出すと、八戒は脱力した足取りでスープを取りに厨房へと向かった。今日は早く眠ろう。そう心に誓いながら。

 

 

 

 

「もし奴に詳しい事情を聞かれたら、お前らが説明しとけ」
「勘弁してくださいよぉ。そもそも三蔵だって当事者の一人なんですから、ご自分でどうぞ」
「そーだよ、散々心配させてさぁ」

翌朝。三人は朝食を済ませ、悟浄の休む部屋へと移動しながら、記憶の飛んでいる悟浄の面倒を誰か看るかで揉めていた。既に三人からは、『この件は無かった事にしよう』という後ろ向きな姿勢が垣間見える。

「大体普段は悟浄に構うと機嫌悪いくせに、こんな時だけ押し付けようなんて‥‥」

八戒の愚痴めいた言葉と共に、部屋の扉が開かれる。
大人しくベッドで横になっていると思った人物は、何処へ行こうとしたのかベッドの端に縋るような体勢で、床に座り込んでいた。三人の姿を認めると一瞬ギクリとしたようだったが、すぐに肩の力を抜く。

「何やってんだよ悟浄!まだ起きんのは無理だって!」

慌てた様子で、悟空が駆け寄る。

「‥‥なぁ、俺何で怪我してんの?」

早速に始まった悟浄の「何で?」攻撃に、さしもの悟空も肩を落とした。

「だーかーらー。昨日言ったじゃんか、それは‥‥」

続けられるはずの言葉を、悟空は飲み込んだ。
悟浄の様子が、明らかにおかしい。何かを警戒しているような目付きで、辺りを探っている。

「なぁ、ここ何処?お前らが俺を黙って連れてきたわけ?大体、何でお前と三蔵がいるんだよ、当分忙しいって言ってただろーが。‥‥また寺、抜け出してきたのか?それとも仕事か?どーせ厄介な事持ち込んだんだろ?八戒、ひょっとしてお前もグルか?‥‥‥‥おい、黙ってないで説明しろ!」

矢継ぎ早にぶつけられる質問の意味を理解しても、悟空は口を開く事が出来なかった。どこかギクシャクとした動きで、後ろを振り返る。
蒼白な顔をした八戒もまた、隣の人物に視線を向けていた。
無表情に悟浄を見下ろす、最高僧へと。
 

 

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