Give and Take(19)

一夜明けたら三蔵と悟浄の仲が劇的に変化していた、などということは当然起こらず。
それからしばらくは、何事もなく過ぎていった。
 

――――ただ、何事もなかった、と言い切るには多少の語弊がある。

このところは妖怪の襲撃もなく、悟浄も逃亡などもせず大人しくしていたのは紛れもなく事実だ。
だが実際には、安穏とした日などは一日としてありはしなかった。

妖怪と遭遇した日から、悟浄は食事を受け付けなくなった。
当日の夜には、悟空に引き摺られて食堂に向かいはしたものの、麗華が用意した薄いスープでさえ吐き戻した。
どんなに柔らかく調理されたものであっても、ふた口も口に含むと耐え切れずに洗面所へ駆け込んでいってしまう。今は隠すことをしないでいるが、その姿は三蔵が記憶を失っていたときを髣髴とさせて、悟浄の精神的な打撃の大きさを物語っていた。
水に栄養剤を混ぜたものを数口、かろうじて口にできる日々が続き、悟浄の身体はまた少し、痩せた。

それでも悟浄は、食事を摂ることに躍起になった。
肉を頬張り、逆流しようとする胃液を口を押さえて堪える毎日。子供にしては恐るべき意思の力であっただろう。
その甲斐あってか、やがて食事も、少しずつではあるが吐き戻さずに済むようになっていった。薄いスープから、流動食に変わり、固形物を飲み込めるようになり。それに比例して徐々に体力も回復し始めると、悟浄は少しずつ外を走ったり、鉄アレイを持ったりしてトレーニングを開始した。まだ無茶だと心配する麗華を振り切って、日々宿を飛び出した。

全ては、力を得るためだった。逃げることも、敵から身を守ることも。力がなければ、何をすることもできないと悟浄は悟っていた。
僧侶たちは悟浄のすることに口出しはしなかった。だが、悟浄が宿の外へ出るときには、必ず背後に誰かの気配を感じていた。それが、決して悟浄の逃亡を阻止するためではないことがわかるからこそ、胸の奥から湧き起こる焦燥感から逃れるように、悟浄は駆けた。

 

 

 

今日も、悟浄は外に出ていた。
既に日課となっているランニングを、悟浄はどんな天気でも欠かすことはなくなっていた。今日も、霧雨のような雨が降っている。足元がぬかるんでいて走りにくかったが、元々身体を動かすのは嫌いではない。それに汗をかいている間は余計な事を考えずに済む。
少し、走る速度を速めてみる。数日前に妖怪と遭遇した場所はもうすぐだ。
妖怪の死体は既に片付けられていたが、それでも自然と足が震えてくるのを止められない。本当なら近寄りたくもない裏の山道を、あえてトレーニングコースにしたのには理由があった。現実を、直視するためだ。

強くなりたかった。それは勿論、身体だけではなく、精神も含まれる。現実から目を背けていても、強くはなれない。ひとりで生きていくためには、強さが必要なのだ。
それほどに生に執着しているわけでもないが、どんな形であれ生きていく以上、自身の身すら持て余しているようでは困る。いつまでも、庇護を受ける立場に甘んじているわけにはいかないと悟浄は思っていた。今はまだ、僧侶たちと共に生きる自分を想像することはできなかった。

悟浄は、妖怪の血の跡が生々しく残る現場で足を止めた。
こみ上げる吐き気を、今では喉元で押さえきれるようになっている自分を確認する。
忘れないでいようと思う。
自分がこの手で何をしたか。妖怪が何を言ったのか。
忘れてはならないのだと思う。

――――強くなりたい。

ただひたすらに、それだけを願う。

悟浄はしばらくその場に佇んでいたが、やがてゆっくりと走り出した。

 

 

 

生い茂る木々を縫うように走る山道の途中。脇の茂みから微かに聞こえるか細い鳴き声に、悟浄はふと足を止めた。
山鳥の雛でも巣から落ちたかと、悟浄は草を掻き分け声の主を探してみる。果たして、そこにはまだ目も開いていないような、小さな雛鳥が一羽。
そっと両手で拾い上げてみると、雨に打たれて冷えた雛鳥が、震えながら小さくピィと鳴いた。
頭上には、やはり鳥の巣がある。
しばらく観察していると、時折、二羽の親鳥が代わる代わる他の雛たちに餌を運ぶために忙しなく行き来しているのが見えた。悟浄も小さな頃から知っている、どこにでもいる種類の鳥だ。確か、つがいの仲がよく、縄張り意識の強いことで知られる――――。

 

不意に視界がぶれ、目の奥に映像が浮かぶ。
 

初めて見る、どこか薄暗い場所。
転がる鳥かご。
一羽の小鳥が、よたよたと歩いて。そして転んで。
それでも立ち上がる小鳥の目指す先には。
先、には。
 

突然、じんとした頭の痛みを、悟浄は感じた。同時に額を汗が伝う。
背中を駆け抜けたのは、恐怖。

頭痛が記憶を呼び戻す兆しである事は、以前に説明を受け知っていた。だが、正直、あの痛みは二度と御免だと思う。

怖かった。

痛みも恐怖だが、悟浄の胸中には常に何か得体の知れない恐怖感のようなものが渦巻いていた。悟浄も現在の自分の状況を理解してから、記憶を取り戻さなければと焦燥感を覚えることはあったが、そう思えば思うほど恐怖は増長し、悟浄はいつしか過去を望むことをやめた。というよりも、望んではならないと自らに言い聞かせてきた、というのが正しいのかもしれない。

 

手の中の雛が、再び弱々しく鳴いて、悟浄は我に返った。

いつの間にか目に浮かんだ映像は消え、頭痛もそれ以上強くなる事はなく去ったようだ。
悟浄は、ほっと安堵の息を洩らした。

「すぐに戻してやるからな」

とりあえず持っていたタオルに雛を包み、首からぶら下げる。不恰好だが、片手で木登りをする自信はさすがにない。悟浄はなんとか両手の自由を確保すると、木肌の僅かな突起や窪みを足がかりにして少しずつ上へと登っていった。途中からは枝が増え、足場の心配はなくなったが、逆に進路を妨げられて苦労する。
数十分を費やし、ようやく巣まで手の届く高さまで辿りついた悟浄は、思い切り手を伸ばして、首から提げていた雛をそっと巣へと戻した。

巣には、他にも三羽の雛がいた。
兄弟たちと再会し、心なしか嬉しそうに見える雛鳥の姿に、悟浄は頬を緩める。
産毛に包まれた翼を忙しなく震わせている雛たちに、じゃあなと小さく告げ、再び足場を探りながら下へ降り始めたときだった。

悟浄の頭部に、不意に鋭い痛みが走った。
咄嗟に仰ぎ見ると、視界一杯に広がる翼。間髪入れず、別の方向からの衝撃。
いつの間にか、親鳥たちが戻ってきていた。恐らく今までは、遠巻きに様子を伺っていたのだろう。親鳥は巣の中に手を入れた悟浄を見て、雛を奪いにきた敵だと認識し、攻撃を開始したのだ。
わかったから、すぐ降りるからと、焦った悟浄がいくら説明したところで、親鳥たちに通じるわけもない。二羽が一斉に、くちばしと爪を悟浄へと容赦なく突き立てる。執拗な攻撃をかわそうと、悟浄は思わず大きく身を捩った。
その瞬間。

元々、不安定な体勢で木の上に立っていた悟浄の身体が、バランスを失い大きく傾いだ。マズい、と思ったときには、もうどうしようもなく。
悟浄は真っ逆さまに、地面へと落下していった。
 

そして。

ドサリと地面を打つ鈍い音が、木々に木霊した。
 

 

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最後まで、あと少しでしょうか。萌えどころのないお話でごめんなさい///

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